お茶の間説法」カテゴリーアーカイブ

チャンネル説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


現代は情報過多の時代である、といういい古されたことばがあります。テレビ、新聞、ラジオ、週刊誌、雑誌…どれをとっても情報満載で、わたしたちが知りたいことや知りたくないことまで、すべてわかる仕組みになっているという。しかし、本当にそうなんでしょうか。ある学者がこんなことをいっています。
「現代は情報不足の時代である。人間がいかに生きるかという情報に欠けている。わたしがどう生きるかという情報を与えてくれる場がない」
と。

なるほど、そういわれればそうですね。テレビのチャンネルを回してみると、地球の裏側の出来ごとまでわかりはするけれど、では、いったい、このわたしはいかに生きるべきなのか、ということはあまり語りかけてくれない。もっとも、テレビとはギリシャ語で「遠く」の意味で、ビジョンは「見る」。つまり遠くのものを近くでみるだけで、テレビの使命はこと足れりなのかもしれませんが…。

でもね、そんなテレビの番組の中にも、ときどき、キラリと光るものはあるものです。最近、わたしが感動したのは「母と子のスキー教室」という番組でした。1メートルも滑れない親子が、先生の指導で日一日と上達してゆく。その姿を見せながら、あなたもどうぞ…とやるのだが、そのとき、岸英三という先生がおっしゃったことばに、わたしは思わずヒザを打ちました。
「あのね、みなさん、スキーというのはね、ちゃんと、まっすぐ滑るものなんですよ。ただ、それを人間が曲げてしまうんだ。板にさからわず、おとなしく乗っていなさい」

いかがですか?たとえスキーがうまくならなくても、このひとことで、わたしはあの番組は大成功だと思う。だって、この先生はスキーのことじゃなく、人間いかに生きるべきかをわたしたちに語りかけてくれたんだもの。「あのね、みなさん、世の中というものはねm、ありのままに動いているものなんですよ。ただ、それを人間が、わがままにしようとしているだけなんだ。自分の人生にさからわず、心を広くもって、それを受けとめてごらんなさい」——お釈迦様の時代なら、このひとことでパッと悟りをひらく人が何人もいたでしょうに…。

こんなテレビを見て、とてもうれしい気分になりながら、雪の中を、門徒の家にお参りに行きますと、その帰りぎわ、そこのおばあちゃんが、表に出てゆくわたしの背中にむかって、
「おしずかに やわやわと…」
といってくれました。「やわやわと…」いいことばですね。雪道というのは、それこそ人間の煩悩と同じで、積もれば積もるほど道がなくなるものなんです。そこで、わたしの住む宇奈月の方では、大通りに出るまでの道を、家の人が踏みかためておくのです。やわやわと…というのは、その雪道を歩くときに力を入れずに、ソッとお歩きなさいませよ、ということばなんです。

雪国でないとこれはわからないでしょうけど、とにかく力を入れてグッと踏むと、ゴボッとヒザまで沈んでしまう。人の踏みかためた道ですらそうですから、右へそれれば腰まで落ち込み、左へ踏み込むと長ぐつから着物の中まで雪でグショグショです。だから、やわやわと…なんです。

わたしたちの人生も、また、この雪道と同じようなものですね。この世に生をうけて、せめて一つぐらいは…と、若いときはとかく力がはいります。これぞ男の生きる道…とか、なんとかいって、グッとふんばると、ゴボッ。右へ寄れば道なくて沈み、左へ傾けばまたしかり。シャクなことかもしれないけれど、まずは長い間かかって先人が踏みかためてくれた道を、静かに、踏みしめ、かみしめ、やわやわと…。表は冷たい雪が積もっていましたが、わたしの心は、またまた、ポカポカと暖かくなりました。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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煩悩はいくつある

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


ことしもあとわずか――大みそかになると、国民的行事といわれるテレビの歌番組があって、蛍の光の大合唱になり、それが終わると、ゴーンゴーンと除夜の鐘。これも一年のしめくくりと新しい年を迎えるためには、なくてはならない行事です。

わたしの寺では、これを除夜会(じょやえ)といって、午前零時かっきりに撞きはじめるのですが、むかしはこの数を勘定するのが楽しかった。イリ豆を百八つお盆にのせておいて、一つ撞くごとに、ポリっとやった。おいしいもんだから、ポリポリッとやると、数が合わなくなってくるんです。住職は百八つの珠のついた長いじゅずをくりながら、ときどきやってきて、イリ豆を見ながら「オヤ、少し足りないようなナ」。いたずら小僧が2,3人、かげにかくれて、ナンマンダブ、ナンマンダブ…。豆のあとはキャラメルになり、これはどうも終わるころには口の中がねばねば。そして近頃は便利なものが出来て、駅員さんなどが使ったりする数取機というんですか、カチカチと押せば数字がふえてゆく、あれを用意してあるんです。ゴーンでカチ、ゴーンでカチ。

ところが、一昨年のこと、自分で撞くのははじめてという中年の方がこられまして、神妙な顔つきでゴーンとやって、そのあと、
「あのォ、ちょっとうかがいますけど、この除夜の鐘というのは、どうして百八つ撞くんでしょう」
と聞かれる。娘さんに問われて、それは人間の煩悩には百八つあって、それを一つ一つ鐘を撞きながら洗い清めてゆくんだ、と、答えてはみたものの、体験がないからどうも説得力がない。そこで雪の中をやってきたんだといわれる。
「で、どうでした。一つ撞いて、心がすっきりしましたか?」
「いや、それが、あまり緊張しすぎて、どうだったか忘れました」
「では、もう一度、どうぞ」
そこで、順番を待つ列に、もう一度ならんで…ゴーン。
「どうでした?」
「いやあ、とてもとても煩悩が消えるどころか、今度こそ、うまくやろうと思うばかりで…こりゃ百八つじゃ足りませんなあ」
そんなことがあって、わたしの寺では、昨年から、除夜の鐘の数は煩悩の数に合わせて無制限ということにいたしました。

煩悩――悪い心のはたらきのこと。その根本は、欲しいなあというむさぼり「貪」、ハラ立つなあといういかりの「瞋」、しまったなあというおろかしさ「癡」の三つです。この三つが渦巻いて、他人を軽視する「慢」、人をうたがう「疑」、知的迷いの「辺見」「邪見」、勝手気ままの「掉挙(じょうこ)」、自ら恥じる心のない「無慚(むざん)」、他に対して恥じる心の無い「無愧(むぎ)」、プリプリふくれる「忿(ふん)」、罪をかくそうとする「覆」、物を惜しむ「慳(けん)」、ねたみの「嫉」、人を傷つける「害」、うらみの「恨」、へつらいの「諂(てん)」、人をまどわす「誑(おう)」、おごりの「憍(きょう)」、もの忘れの「失念」、誤解の「不正知」、精神を乱す「錯乱」…などなど、人間の煩悩は果てしなくわき起こるものなのであります。

そして、その一つ一つが、悪い心のはたらきだと、わかっているけどやめられない。だから、せめて、大みそかの晩に寺のつり鐘をゴーンとやって、自分の煩悩を洗い流そうなどと考えるのはムシがよすぎるわけで、さっきの中年の方のように、鐘を撞き、あるいは鐘の音を聞きながら、まずはわが身を省みて、あらあら恥ずかしいと、心を痛めるのが先でありましょう。

さて、あすは御用納めの日。自分はこの一年、満足できる仕事をしたのか、どうか、そして、満足できる生き方をしたのか、どうか―—ひとつ静かに反省してみてはいかがでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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男は富貴

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


女人に五力あり。一に色力、二に親族力、三に児力、四に田業力、五に自守力―
お釈迦様は、こうおっしゃった。それをやさしくいえば、一に色香、二に家庭、三に子供、四に生活、五に自らを守る力―ということになるわけです。

なるほどなあと思いながら、その増阿含経を読んでいて、早く次が読みたくなった。というのは、私も男だ。男の力、男のよりどころとしているものはいったいいくつぐらいあるのか、知りたいですよ。そこで、いそいで次を読んで、ガックリ。なんと、男のよりどころは、たった一つなんですよ。

男は「富貴」。お釈迦様、これしかおっしゃってないんです。さっそく辞書を引っぱりました。「富貴=富んで貴いこと。財貨が多く位の高いこと」—ウーム。うなったね。ズバリ。大当り。われわれ男というものは、色気もなく、家庭や子供や生活はすべて女まかせ。そして世に出て、一体になをあくせく…と考えてみたら、結局のところ求めてやまないものは、名誉と利益—これにつきるわけであります。つまり、偉くなりたいの。人の前に立ちたいの。そしてお金もうけて胸を張っていばりたいの。それが男の本性なんですよ。だから、だからですよ、男は選挙に出たがるの。出られない男は出た男のナントカをかりて、大いばりですもうとりたがる。

花柳幻舟さんでしたか、家元廃止運動でがんばってる舞踏家の方。あの方の話を聞いてスゴイと思ったことがあります。前後ははぶきますけど、とにかく、彼女にいろんな男が会いにくるわけですよ。〇〇会社社長とか、〇〇出版社部長とか、〇〇新聞社デスク殿、なんてのが。それで、まず、会うと男は「私はこういうものであります」と名刺を出してあいさつする。社名やら肩書きがズラリとならんだ名刺を受けとった花柳さんはポイ、とその名刺を捨てちゃうんだって、そしてこういうんだって。
「おっちゃん、停年になってからおいでよ。名刺も肩書きもなくなってから男と女として会いましょう」
いいとこ突いてると思うなあ。男の一番弱いとこだよ。だって、男が一生かかって力入れてるとこは、結局その名刺の肩書きと、胸につける大きな花飾りだけなんだよね。

名誉は抜き、金もうけに徹するという人もいますよ。それで大成功した男、日ゼニが何億ところがり込んでくるおじさん、いい年になって、ふと考えたら「富」は十分だが「貴」のほうが足りないことに気がついた。とたんにこの人、ドカッと「富」の方をつぎ込んで、テレビにでては「一日一善!」なんて貴いこといってらっしゃる。いや、あの人が悪いというんじゃないの。男の行きつくところは、あの辺だということをいいたいの。かくいう私も、あなたのご亭主も、スケールは違うけれども、男は「富貴」を求めて生きているんですよ。

こんなところへ、親鸞聖人のことばを出すのはいけないかもしれないけれど、あの親鸞聖人でさえ、このことを認めていらっしゃる。

是非知らず 邪正もわかぬこの身なり
小慈小悲も なき身にて
名利に人師をこのむなり

何が是か非か、何が邪か正かも知らず、さらには母が子にいだく慈悲の心のかけらもないこの私であるにもかかわらず、名誉や利益のために人の前に立ちたがるのは、なんというなげかわしいことであろうか―正直な方だなあと思うんです。、

オヤ、茶飲み話は当たりさわりのないところをよしとするなんていいながら、えらいことになっちゃった。今日はこれでおしまい。ま、奥さん、あなたのご主人、家の中でぐらい、せいぜい威張らせてあげてちょうだいよ。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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女のよりどころ

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


茶飲み話というのは、あまりムズカシクないのがいい。両方が適当にいいたいことをいえるような話題がいい。となると、人のウワサかな、ヤッパリ。自分のことだと真剣になっちゃうものね。
近頃、この茶の間にくる男連中、みんなそれなんですよ。
「なんたって、出足が早かったのはあいつだね。去年の夏ごろから、ちゃあんと手を打っていて、後援会組織もすでに完全なもんだ」「しかし、あの男より、もう1人の男の方がタマはいいと思うんだがね」「だめ、だめ、あの男は、シリが重いよ。ありゃ昔からなんだ。それでいつもドジ踏んでる。バカなんだよ」
なんてやってる。そう。もうすぐ選挙なんですよ。だから候補者のウワサばかり。こんなやりとりを聞いていて、いつもうちの家内が首かしげるんです。
「男の人って、フシギネー。なんで選挙なんかに夢中になるのかしら」
そこで、当方、調べてみたんです。男はどうして選挙に夢中になるのか、ということと、それを女はどうして不思議に思うのかということを。

わかりましたねー。じつによくわかった。お釈迦様はえらいよ、やっぱり。ちゃあんとお経に説いていらっしゃるんだ。増一阿含経というお経なんですがね。その中に、まず、女のよりどころ、女が力を入れるものには、5つあるといってらっしゃる。いいですか。奥さん、あなたが毎日、何に力を入れて生きているのか、ということを、お釈迦様は「5つある」とおっしゃってるんです。当たっているか、どうか、よーく聞いて下さいよ。

女が力を入れているもの―その第一は「色香」だとお釈迦様おっしゃってる。ホントだね。間違いないね。朝目がさめてから、夜寝るまで、これに使う神経とお金、ずいぶんなものですよね。これを抜きにしたら家の2,3軒は建つんじゃないかって思いますよ、男としては。

さて第二は何か。それは「家庭」である、とおっしゃる。そうだね。女が家庭に力を入れなかったら、それこそ家の2,3軒つぶれちゃいますよ。おかげさま、ありがとう、と世の亭主は感謝しなくったいけない。家庭に主婦あればこそ、わが家は成り立っているんですから。

第三は、これもごもっとも。「こども」であります。母あればこそ、子は育つのであります。子供というのは、いくつになっても、母のふところに飛び込みたいものなんです。母親が迎えてくれているからこそ、家に帰ってこれるのです。これに力を入れない母親がいるとしたら、それは女じゃないといってもいいんじゃないですか。

次に四番目―それは「生活」であります。これも女の力の入れどころ。台所は女の城だ。奥さんいなけりゃクツ下もはけない亭主もいます。ヤリクリ上手も奥さんのウデ一つにかかっているんです。よろこばなくちゃいけませんああ、父ちゃんは。

最後の力は「自らを守る力」これも女の力だとお釈迦様はおっしゃってる。そういえば、奥さんをなくされたご主人―これはみじめですよね。どうにもならない。それにひきかえ、ご主人をなくされた奥さん―これは強い。第一の色香は抜きにしても、家庭と子供と生活をリッパに守り抜いていらっしゃる。こんな話をしていたら、こないだ30年前にご主人をなくされたおばさんが「その通りよ。女の一念、岩をも通す。男の一念、トーフも通さん!」とおっしゃった。まいったね。負けましたよ。あら?選挙の話でしたよね。いや、ですから、女性にはこれほどたくさんのよりどころ、力を入れなきゃならないことがあるから、選挙だなんだと、いってるヒマはない。「男って不思議ねー」ということになるのであります。さて、それでは、選挙にうつつを抜かす男のよりどころというのはいったい何でありましょうや。聞いてソンはない。次回をお楽しみに。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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焼きイモの味

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


この前は、金平糖の話でしたが、今回はひとつ、”焼きイモ”の話でもしましょうか。いえね、私の実家もお寺なんですが、そこの門徒総代さんで、これまで市長さんをやっていた人がいるんです。ぞいぶん長く市長のイスにすわっていられたんだが、とにかくやかましい世の中で、右から左から、ああでもない、こうでもないと突っつきまわされて、とうとう激務に耐えかねて、健康上ということで、仕事をやめられたんです。

さあ、男が仕事をやめるということは、たいへんなことなんです。フーッと空気が抜けちゃうんですな。これまで朝から晩まで電話が鳴りっぱなしだったのが、ピタリと止まる。そして殺人的なスケジュールというのもない。「お迎えにまいりました」という車もない。朝起きて、この元市長さん、することがないんで、困ってしまった。さて、これから一体、どうするか…。

そこでまあ、仕方がないから寺へでも参るか…ということになったんでしょう。ちょくちょく寺へ顔を出されるようになった。しかし、それでもまだまだヒマはある。
(そうだ、これから毎日、孫の顔でも見に行こう)
そう決めた元市長さん、それからは毎日、若夫婦の家へ自転車に乗って遊びにゆくのが日課になった。さあ、およめさんはたいへんだ。おじいちゃんは遊びだが、迎る側はそれなりの心づもりがいるわけです。いままでエライ人だったから、お茶もおいしいのを飲みつけている。お菓子にもチトうるさい。虎屋の羊かん、長崎屋のカステラ、青山の甘なっとう…いろいろと見つくろって、いつも用意していなきゃならない。

チリリン、と自転車の音がする。およめさん、さっとおいしい茶を入れる。お菓子を出す。じいさん、孫とたわむれる…こんな毎日が続いたそうです。ところが、ある日、たまたま、おいしいお茶も、お菓子も切れた。買っておかなきゃと思っていたところへ、チリリンときた。しまった!と思ってももう遅い。
「ごめんなさい、おじいちゃん、今日は何も用意してなくて」
「いや、いいんだよ。孫の顔みたら帰るから」
そんな気まずい会話のあと、しばらくしたら3時になった。こどものおやつの時間です。およめさん、こどもたちのおやつの用意をした。家でとれたサツマイモを焼きイモにして
「さ、こどもたち、おやつですよ」
と、そのとき、フト思った。
「おじいちゃん、こんなものだけど、ひとつ食べてみませんか」
おじいちゃんにとっては久しぶりの焼きイモだ。
「いいだろ」と、番茶で焼きイモほおばった。

この焼きイモが、おじいちゃんの口に合ったかどうかは、明くる朝のおばあちゃんの電話でわかった。
「きのうはおじいちゃんがおいしいものをもらったそうで、ありがとう」
およめさん、ギクリとした。お菓子の用意してなかったので、おばあちゃん皮肉をいってるのかと思った。
「ゴメンナサイ」とあやまった。そしたら「いや、違うのよ、きのう帰ってからおじいちゃん、焼きイモ、うまかった、うまかった。よめが焼きイモ、うまかったって寝るまでいってるの。そんなにおいしかったんなら、わたしもいただこうかと思って…これからいってもいい?」

おばあちゃんもよろこんだ。ホカホカの焼きイモほおばって「まあ、ほんと、おじいちゃんのいう通りだ」。それから毎晩、床についた老夫婦は、「おい、あれ、うまかったのォ」「ホント、あの子らが畠でつくったんですよね。おしかった。」「うまかった。うまかった」とよろこび合ったんですって。そしてそれでもまだ足りず、あんまりうれしくって、その話をまあ聞いて下さいと、寺にまで話しにきてくれた。こういう”味”を、わたしたち忘れてしまっていたのかもしれない。どうです。今日はそれにあやかって、うちでもふかしイモ作ってみたの。おひとついかが?


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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お茶の間説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


オヤ、いらっしゃい。さあさ、ここは座敷と違うんだ。むずかしいあいさつは抜きにして、もうちょっと火のそばへお寄りなさいよ。いまちょうど、おいしいお茶でもと思っていたところなの。…で、お元気?そう。いいね、みんな元気で。うん、うちも、ホラ、この通り。健康で、ほがらかなだけがとりえだよ。

エート、何か甘いものは…と。あ、そうそう、金平糖がありました。どうです。ひとつやりませんんか。「えーことことこと、こんぺい糖」っていってね。いや、こどものころ、じいさんがね、茶の間にわたしが顔を出すと、ちょいちょいと手招きしてね。ヒザの上にこいという。で、そこへいくと、「おい、お前、ええ子にしとるか。おじいちゃんは、いつもお前を見ておるぞ」なんていう。わたしがウン!というと、「よーし、それでは一つ、ごほうびをやろう。ええことことこと、こんぺ糖」といって、長火鉢の引き出しから、これを一つとり出してくれたものです。亡くなって33年になるけど、まだこの味が忘れられなくてねえ。

さあ、お茶がはいった。番茶だけど、うまいよ。そうそう、金平糖といえば、わたしが東京で新聞記者をしていたころのこと。ほか、この婦人面で、”あしたのデザイン”を書いてられる森英恵さん、あの方のパーティーに招かれたことがあってね。原宿だったかのブティックが出来たときの開店祝いだったと思うんだが、とにかく2、3人の友だち連れて、行ったのよ。で、お店にはいったら、いろんな人が来ていてね。今宵はシャンパンパーティーだっていうの。うれしくなってね。わたしはいやしいから、さあ、シャンパンと何が出てくるかと楽しみにしていたの。そしたら、森さんと、パリ暮らしの松本弘子さんの2人が、ガラスのボウルに、なんと塩豆と、金平糖を山盛りにしてやってきて、「これ、おいしいわよ、いただかない?」っていうの。おどろいたね。食べるものはそれだけなんだ。ちょっとがっかりしたけど、ポイと一つ口に入れて、ポリポリやりながら、シャンパンをなめながら、お話ししていると、何だか、とっても楽しくなってきてね。そのとき、やっとわかったね。パーティーの主役は出てくる料理でも、お酒でもなく、そこにあつまった人たちのおしゃべりが主役なんだということが。

わたしたち、ずいぶんムダなことしてるんだよね。もてなしといったら、何が何でも、ありったけのものを出さずには気がすまない。とくに田舎は、ちょっとしたもてなしに、三日かかっても始末しきれないほど出てくるものね。森さんの塩豆と金平糖はそういう意味で、忘れられないうれしいもてなしだったなあ。

お茶、おかわりしましょうか。金平糖、もう一つどう?じつはこれ、きのうの日曜学校のおやつのあまりなの。うちでやってる日曜学校には、おやつの時間があるんです。おつとめと、おはなしや紙芝居の間に、おやつを出すんだけど、その時に、この金平糖を2個ずつ出したの。「なーんだ、これっぽっちか」って、こどもたち最初はバカにしたけど、そこでひとことお説教したの。おい、きみたち、たったこれっぽっちとバカにするけど、この金平糖1個をだれが作ったか知ってるか?「お菓子屋さん!」ホー、お菓子屋さんが作ったのか。じゃあ材料は?「お砂糖!」それはどこでだれが作った?そしてこれをつくる機械はだれがつくった?…こなると、もうたいへん。たった1個の金平糖に何千人、何万人という人たちが汗水流しているんだ。そういう人たちのおかげで、いまようやく、わたしたちの口の中を甘くとろかしてくれるんだ。こどもたち、ようやくわかってね。合掌して、よろこんでたべたよ。そして、あとで「おいしかったね」といい合っている。ものの味というものは、お金じゃないんだよね。それに一緒に食べると、おいしさが何倍にもなるんだよね。奥さん、あなたもおひとついかが?


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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ありがとう、さようなら

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


つらいことは奥歯をかみしめてガマンすることができますが、うれしいことはガマンできない、と申します。本当にそうですね。うれしいことは、だれかに聞いてもらいたくて仕方がない。そんなわけで、とにかく聞いてもらいたい話があるのです。

一週間前ほど前のことなんですが、近くの魚津市にある小学校へ、講演に出かけたんです。そしたら講演の前に、校長先生のあいさつがありまして、こんなことをおっしゃったんです。
「みなさん、よろこんで下さい。待ちに待った新しい体育館が、あとしばらくで完成いたします。わたし毎日気になって、見に行っているんですけど、きょうはもう館内のお化粧もすっかり仕上がっていました。よかったですね。おかげで、なんとか卒業式は新しい体育館で、できそうです。」

パチパチとPTAのお母さんたちから拍手がわいた。じつは、そのあとなんです。わたしが感動したのは…。
「つきましては、落成式もさることながら、近くとりこわしになります古い体育館のお別れ会をやろうと思うんです。先生方と相談しまして、全児童と一緒に、古い体育館の床や窓をきれいに磨き上げまして、そこで、これまでわたしたちのために力いっぱい働いてくれた体育館に”ありがとう、さようなら”ということにしたんです」
お母さんたちから、ホーッと感嘆のタメ息がもれたことは、いうまでもありません。わたしも、何かこう…ものすごく大事な忘れ物を届けて下さったような気がして、うれしくなりませんでした。

おそらく、今日あたり、あの小学校の児童たちは、キュッキュッと古い体育館の床を磨いているに違いない。そして、感謝の心と、古いものを大事にする心を胸に刻んでいるにちがいない…。そんな光景を思いうかべながら、わたしは、わが身を顧みるのです。古い体育館を、古い家、古いクルマ、古い家具、古い道具に置きかえて、わたしの身の周りから消えていったものたちを思うとき、本当に心から、ありがとうといったかどうか…。いっていないんだなあ。”ご恩知らずはイヌ畜生、ご恩知って、やっと人間”などと、えらそうなことをいいながら、わたし自身、古いものには見向きもせず、感謝の心のかけらもなく、ポイ、とやっている。そんなわたしに、あの校長先生は、感謝の心のあらわし方を教えて下さったんだと思うのです。

そういえば、うちには廃車寸前のクルマがあるけれど、つぎのクルマを考える前に、あの車に”御恩報車”という名前をつけて、廃車になるときには、きれいにワックスかけて、ありがとうと、ひとこといって別れよう。いや、クルマだけではない、クツ下だって、シャツだって、エンピツだって…。いやいや、そればかりじゃないよ。古い人だってそうだ。こんなところに突然、おじいちゃん、おばあちゃんを出してくるのは、失礼なことかもしれないけれど、わたしたちは古いものを大事にしなくなったと同時に、お年寄りに対しても、心の中ではずいぶんひどいことを思っているはずなんです。これでは畜生道に落ち込んだって仕方がないと思うんです。

今日はじつは、お葬式のハウツーのお話をしようと思っていたのですが、うれしい話と、わたし自身の反省が長引いて、もう残り少なくなってしまいました。しかし、さっきの校長先生のお話を覚えておいて下されば、お葬式のハウツーは何もいらないと思う。わたしたちは、あらゆる人たちのおかげによって生かされているんです。もし、その中の一つ、その中の一人が、わたしの手の届かないところへ消え去ってゆくのなら、その時は、古い体育館さん、ありがとう、だ。迷わず成仏して下さいなんていえやしませんよ。救われていないよは、生きているこのわたしであり、あなたのあのだから。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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仏だんの意義

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


きみはなぜ、タバコを吸うのか―と、インディアンに聞いた。するとインディアンが答えた。
「オレのおやじタバコ吸ってた。オレのおやじのおやじ、タバコ吸ってた。オレのおやじのおやじのおやじ、タバコ吸ってた。だからオレ、タバコ吸う」
アチラのジョークにこんなのがあるそうですが、これと同じようなことが、先日、わたしの寺でありました。法座の席で、お参りにきたお年寄りに、こう聞いてみたのです。
「おばあちゃん、あなたの家には、お仏だんがあるよね」
「ハイ。ちゃーんとあります」
「それは、けっこう。ところで、おばあちゃん、そのお仏だんというものは、なぜお宅の座敷にあるのかしら?」
なぜあるのか、と聞かれて、おばあちゃんは困ってしまった。そして返ってきた答えはいまのインディアンのタバコです。
「そりゃあ、あなた、お仏だんというのは親の代から、そのまた親の代から、ちゃんとあったもんです。だから、いまもある…」
どうもわかったようで、わからない。そこで今日は、なぜ仏だんがあるのか、仏だんとはいったい何なのかとう、そんなことを、今日的に考えてみたいと思うのです。

結論から申しておきますと、仏だんというものは、じつは浄土のまねごとなのです。ではその浄土というのは一体何かと申しますと、仏―つまり悟れるものが、その悟りの内容である真実を、あらわさんがために説かれたもの。真実、まことの国のことであります。

お坊さんの読むお経には、そのまことの国のことが、長々と説かれてある。たとえば、この世には、地獄や餓鬼や畜生と変わらぬものがうごめいているが、まことの国には、そうしたものはいない。
この世は、肌の色や身分によって、いろいろな差別や区別の世界があるが、まことの国とは、そういった差別のない国である。
この世には、きたない水が流れ、魚も住めなくなっているが、まことの国を流れる水は8つの功徳―つまり清く、冷たく、甘美で、軟らかく、潤沢で、和らかで、飢餓を除き、あらゆるものを豊かにするはたらきがある。
そしてまことの国には、疑惑を破り、邪心を破り、煩悩を破り、懈怠を破り、邪念を破り、真実の智恵の目を開かせる、妙なる音楽が流れている…。

などなど、数えあげればきりがないほどの、いたれりつくせりの国であることが説かれています。そして、その浄土を浄土たらしめる条件は3つある、といわれる。その1つは、まず浄土には悟れるもの―仏がいなくてはならない。じつは仏だんのまん中に字や、絵や、木像で安置してあるのは、その仏さまをあらわしているわけです。あのような姿をしていらっしゃるかどうかはわからないけれど、経にあることばを具体的に形にあらわしたのが、あの仏さまです。次に第2は、浄土には仏様だけがコロンと宙に浮いているのではない。その環境が必要である。さきほどいいました、いたれりつくせりの国を、あの金ピカの仏だんがあらわしているわけです。

ところで、浄土の条件の第3は、仏1人では浄土といえない。その仏の悟りの真実を聞いてうなずき、実践してゆく諸仏、菩薩がいなくては意味がない。となると、お宅の仏だんのどこにそんな方がいらっしゃるのか…。まわりをキョロキョロしても見当たらない。そう、それはあなたなんですよ。真実なるものを仰いで、それを実践してゆくあなたがいなくては、生きた仏だんとはいえないわけです。金持ちのまねごと、政治家のまねごと、盗人のまねごと…世の中には、いろんなまねごとをする人がいますが、わたしたち仏教徒は真実なるもののまねごとをさせていただくわけで、仏だんの意義も、そのあたりにあると思うのです。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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焼香は何のために

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


きょうは香りというものについてお話をいたしましょう。といっても、わたしは香りに関する専門家ではありませんから、思いのままに話させていただくわけですが、だいたい、この香りとか、においというものに対して、日本人はずいぶんと鈍感だと思うのです。中でもとくに男性はひどくて、クルマや電車や、せまい部屋の中でもおかまいなしに、ヤニくさいタバコのにおいをふりまき、酒のにおいをムンムン発散させて、ちっとも他人に迷惑をかけているとも思わない。ちかごろようやく、嫌煙権などというめずらしいことばを持ち出して、くさいにおいはおことわり、プラットホームでは吸わないで、などという方たちが出てきたようでありますが、それでもやっぱり鈍感な人は鈍感です。

そして、女性といえば、男性に比べてすこしは進んでいるようにも見えますが、それはご自分の化粧品に関してだけのこと。いかに甘い香りをふりまくか、ということには神経つかっていらっしゃるようだけど、では、わが家の香りというものについてはどうかといえば、そこまで手が届いてはいないようです。

嗅覚というものは、本来、動物が食物の存在を知り、その適否を判断し、異性を求め、あるいは外的から避けるなどのためにある感覚だ、ということですが、近頃のわれわれは、食物はスーパーに、異性は目の前に、外敵はお巡りさんがめんどうみてくれる…ということで、嗅覚はまるで必要なくなったようです。ですから、石油ストーブのけむる部屋で、鼻をつくようなヘアスプレーや化粧品をふりかけた家族が、テーブルをかこんで微なる香りのワインを飲み、油いためと焼魚とたくあんを食して、ちっとも違和感を感じない。少々鈍感すぎるんじゃないかと思うんです。天人からみれば、そうした人間の悪臭は、なんと四十万里四方に漂っているのだといいます。ちょっと気味が悪いですね。

ところで、こんな話をするのは他でもありません。ハウツー説法、今回は「焼香とはなんぞや」ということを考えてみたかったからなのです。焼香といえば仏事のお作法で、抹香をつまんで香炉の中へチョイと入れる。あれはいったい何回つまむのか、また、つまんだ抹香は押しいただくのかどうか…これもよく聴かれることでありますが、その答えは後まわしにして、また、なぜ焼香というものをするのか、考えてみましょう。

先ほども申しましたように、人間というのは、においに鈍感になってしまいましたが、天人からみれば不浄なるもの、悪臭プンプンたるものということになるのです。そこで仏事を営む折には、せめて、この身の不浄なる悪臭を消すために、つまり、わが身を清めるために香をたくのだという説があるのです。そしてまた香をたくと、その香りによって、敬けんかつ、おごそかな気分になって、心を落ちつかせ、邪念をうちはらうという効果もある。

ですから、焼香というのは抹香そのものをお供えするのではなく、香をたくということに意義があるわけで、抹香をつまんで押しいただく必要はありません。しかし、いろんな宗派によってこだわりがあって、1回だとか、2回だ、3回だといいますが、回数にこだわることもないでしょう。ただ気をつけていただきたいのは、あくまでも焼香は、香りに値打ちがあるのですから、タヌキやキツネをいぶりだそうような、そんな抹香は使わないようにしましょうよ。香をたく場は、わが家で最も清らかで、いちばんよいにおいのするところにしたい。そうでないと、またまたこんな話、抹香くさいといやがられます。このことばは、おそらく、安物の抹香を使いすぐた家か寺から生まれたのでしょうからね。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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お布施は出演料じゃない

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


東京や大阪に住む友人に、よくこんなことを聞かれます。
「坊さんにこんなことを聞くのはおかしいが、だいたい、あの”お布施”というのは、どれぐらい包んだらいいものなのかね」
親の法事で実家に帰らなくてはならないとき、あるいは親戚から法事の案内が届いたとこなど、普段そうしたことに慣れていないものだから、とにかく心得として、知っておきたい、ということなのでしょう。

ところが、そんなときのわたしの返事があいまいで、「さあね」とか「知らないなあ」なんていうものだから、友人はますます聞きたがる。
「知らないって、そんな、実際にもらったお布施のことを教えてくれればいいだよ。ホラ、パッと持っただけで中身がわかるなんていうじゃないか。あるだろ、相場が」
ここまでたたみかけられると、いわざるをえない。「いくら」ではなくて「なぜ、お布施というものがあるのか」ということをです。

「キミね、布施というのはね。坊さんがお経を読んだことに対する出演料じゃないんだよ」
「へえ、じゃあ、なんだいあれは?」
「布施というのはね。仏道修行の根本精神の一つでね。喜捨ともいって、よろこんでこだわりを捨ててゆくことなんだよ。インドではダーナといい、キリスト教では無償の愛―チャリティーなんていっている。人間が人間らしく生きてゆくためには、コケのようにこびりついた、いろんなこだわりを捨ててゆくことが大切なんだよ。で、中でも一番こだわっている自分の財産というものを、せめて、まねごとでもいいから、法事なんかの機会に捨ててみる。これが布施というものなんだ。だから”いくら”ではなく、その人の心が大切なんだ」
「ふむふむ、それを拾うのが坊さんというわけか。やっぱり、坊主丸もうけだな」
「そうとられても仕方がないが、坊さんというものは、もうけ商売をやっているんじゃない。頭のテッペンから足のツマ先まで、そういう良い心の持ち主のおかげで生かされているものなんだ。だから、そうした財施に対して、真実の法を説く、つまり法施というものをさせていただくわけだ。それに、お布施をもらったといっても、自分にもらったのではなく、寺の仏様にいただいたものだから、ぼくたちは、そのお下がりで生活させていただいている乞食みたいなもんなんだよ」
「まいったなあ。ちょいと聞こうと思っていたのに説教されてしまった」

友人の心には、まだ「なぜ」より「いくら」という疑問が残っているようです。坊さんの説教なんて聞いているんじゃないという顔をしている。まさにその通りで、現代はなんでもハウツーの時代。ややこしいことはすべて、ハウツーの本でもみて、トントンと運ばないとコトがおさまらない。いそがしい友人は、そのハウツーの本を読むのも時間が惜しく、ちょいとわたしに聞いているのですから、わたしもとんだかせぎのジャマをしていることになったようです。しかし、法事の意義も、布施も意味もわからず、ただなんとなく法事だからと休みをとって、実家に帰ってセレモニーだけすませ、また、もとの生活にもどるだけというのなら、それこそ、こだわりやしきたりに振り回されているに過ぎないのではないでしょうか。救われないよ、それじゃあ。

そんなわけで、このハウツー説法は、できるだけ「いかに」ではなく「なぜ?」という根本的な疑問にまで掘り下げてお話をすすめたいと思っています。ですから、おいそぎの方には、まるで役に立たない話ばかりかもしれませんが、平にお許しを。そしてまた、どうしてもおいそぎの方は、市販のハウツーものにある「法事のお礼」の項でもたちよみしていただいて、「法事のお礼は、法事の全費用の十分の一ていど」とか「西欧のキリスト教などでは、教会への喜捨は全財産の十分の一か二ぐらい」などという、もっともらしいところをみつけて、ナットクされたらいいでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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