続・お茶の間説法」カテゴリーアーカイブ

身勝手な反省ではなくて・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


それみたか、と人を指さしたその指をギュッとまげて、己にむけてみる-心の体操第1は指まげ体操で、自分自身を省みて、身のほどを知るという、反省のすすめみたいなものでした。で、この反省ということになりますと、だれもが心がけていることのようでありまして、それなら、いわれなくてもちゃんとやってます、とおっしゃる方も多いかと思います。そういえば、人のふり見てわがふり直せとか、脚下照顧(きゃっかしょうこ)とか、日々是反省とか、いろいろいわれています。でも、ここで1つ確認しておかねばならないことは、反省といったって、自分勝手な反省ほどいいかげんなものはない、ということであります。

たとえば、何か失敗する、そしたら必ずああ悪かった、大変なことをした、申しわけない、という気になる。まあ、ここまではいい。ところが、その次はどうかというと、でも仕方なかったのよ、あの場合・・・とか、そりゃあ悪いと思っているけど、でもさあ・・・と居直って、自分の行為を仕方なかったんだと正当化してしまう。これはじつは身勝手な反省でありまして、こわいことには、その反省がすむと、反省していない人をみつけて、また指をさし、あの人ちっとも反省の色がない、ひどいわねー。それに比べて私なんか反省しきり。見上げたもんよねー、なんて悪いことしたことが、身勝手な反省のおかげで、自慢のタネにまでなってしまうこともありうるわけです。

そこで、やっぱり、自分で勝手な反省をするのではなく、仏様を仰いで自らを省みなくては本当の反省にはならないと思うんです。とくに阿弥陀如来という仏様は、この私の、自分を良しとする心を徹底的に打ちくだいてしまわれるお方で、ある学者は、この仏様の働きを「自力の無限否定」という言葉で表現しておられます。この私が無限に否定されてゆく・・・なんて聞くと、どうも気が滅入っちゃって、なるべくなら、この私を認めて、よしよしと頭をなでて下さるような、そんな方のところへ近づきたくなりがちですが、それこそが私たちの反省の心を持たない、自己中心、うぬぼれの生きざまということになろうかと思います。

ともあれ、心の体操第1として指をまげてみようと申しあげたのは、人を指さすのが大好きな私たち、他人の悪口ならウソでも面白いが、自分の悪口なら本当でもハラが立つというこの私を、自分勝手にではなくて、仏様を仰ぎながら省みてゆこうということだったのであります。

人は自分の悪に気がつくほどの善人ではない、といわれます。そんな私が、少しでも自分を指さして、本当の自分の心の奥底をみつめることができたなら、おそらくそれは自分の力ではない、それこそが仏様の働きなんだと受けとってゆく。こうした心の動きが宗教的情操というものでありましょう。ですから、この悪の自覚ということを、ことさら言葉をかえて「悪の他力覚」だいう学者もおられます。つまり、悪を自覚したなんて思っているのは、うぬぼれで、自分の悪に気づくはずのないこの私が、気づいたのは自分の力ではなく、悪と気づかせていただいたのだ、仏力、他力による目覚めだというわけです。

仏様を仰ぎながらわが身をかえりみるという心の体操は、単なる身勝手なごまかしの反省ではないんだということ、少しおわかりいただけましたでしょうか。


「お茶の間説法」(37話分)
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指差す相手はまず自分

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操の第1は、指曲げ体操です。さあ、みなさん、人差し指を1本出して下さい。そして、目をとじて、その指をあなたの心に浮かぶどなたかに向けてみて下さい。旦那様にでもけっこう。子供さんにでもよし。お隣の奥さんや、総理大臣に向けてでもかまいません。はい、そうして、考えてみましょう。あなたがいま、指差している相手に対して、あなたはいつも、どのような態度をとっているのか-。

これは私の想像ですが、ひょっとしたら、ほとんどの方が、相手に対して「あるべき姿」というものを押しつけているんじゃないですか。旦那様には旦那様としてのあるべき姿、子は子としてのあるべき姿、政治家は政治家として、教育者は教育者として、警察官は警察官として・・・というふうに、何かこう漠然とした理想像というか、かくあらねばならないというタテマエのようなものをこしらえてそれに向かって精進努力してゆかねばならない。それこそが人としてのあるべき姿であるというような、そんな思いを持っていらっしゃるんじゃないですか?

もちろん、これは大事なことで、むかしのえらいお坊さん、そう、モミジで有名な、あの京都・栂尾の華厳宗高山寺の明恵上人という方も「人は あるべきようは という七文字を心得よ」と、いつもおっしゃっていたようです。あるべきようは、というひらがなの七文字は、いま申しあげている、あるべき姿と同じでありまして、1つの理想、大きな目標、あるいは、真のあり方といったものに向かって、懸命に精進する、それこそが人としてのあるべき姿だ、と教えて下さっているようであります。

で、私たちは、この教えがとても好きでありまして、口を開けば、あるべき姿、あるべき姿を求めねば・・・とやっております。そして、もし、そのあるべき姿にはずれるようなことが起こりでもしたら、とたんに「親としてあるまじき行為」とか「教師でありながらなぜ?」とか「政治家として恥ずかしくないのか!」と、指を差し、制裁を加える。

ところが、問題なのは、その指はいつも相手に向かっていて、自分の方へ向けられたことはまるでない、ということであります。他人を指差すのは大好きなくせに、その指を曲げて、自分自身を指差して(そういう私はどうなのか)と考えてみることをしない。いいのかなあそれで・・・と思うわけです。いや、だいたいこんなことをいうってこと自体が、もう、あなたを指差していることになって、たいへん申し訳ないとも思うんですがね。

とにかく、今日の心の体操第1は、そんなわけで、他人に向けた人差し指を、ギューッと曲げて、自分自身に向けてみるという体操です。あるべき姿を全うしていらっしゃる方なら、これくらいは簡単なことでありますが、われら凡人にはなかなか出来ることではありません。

しかし、そこで思い出していただきたい。阿弥陀如来という仏様は、うつでも、どこでも、この私に、身のほどを知れよと働いてくださっているお方でありました。ですから、人を指差したときにでも、その仏様のことを思い出してみると、いままで曲がらなかった指がギュッと曲がって、本当の自分を見つめるようになってくる。念仏というのは、じつはこんな働きをもっているものなんです。


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欠点だらけの人間だから・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「さわやかな朝、ラジオ体操のあとは、心の体操の時間です。毎週日曜日、お子さんと一緒に、お寺におまいりになりませんか?おいしい朝がゆも用意しております」
こんなうたい文句で、今年の夏休み、早朝日曜学校をはじめてみました。子供達にまじって、おばあちゃんやら、お父さん、お母さんも・・・50人ほどの集まりです。そこで私は、こんな話をするんです。

お早うございます。さわやかな朝ですね。ラジオ体操をしただけだと、口やノド、それにおなかもなかなか目をさましてくれませんが、そのあとこうして大きな声で、仏様の前でおつとめをすると、もう、すっきり、さわやか、身体の方はエンジン全開という感じです。でも、もう一つ大切なことは、人は身体だけが健康であってもしあわせとはいえません。心がさわやかにならないと、今日一日が楽しくありません。そこで、身体の体操のあとは、心の体操です。さあ、みなさん、ご一緒に、はじめることにいたしましょう。

あ、そうそう、第一体操にはいる前に、まずは準備体操を、少しやっておきましょう。皆さんは、今朝、このお寺へ来る時に、心の体操ってどんなんだろうと考えたりしませんでしたか?そうです。心の体操なんだからわずかな時間でも、しっかり修行にはげんで強い心、明るい心、豊かな心の持ち主になろう、と思った方もあるかもしれませんね。ところが、ここのお寺は、浄土真宗の恩寺です。座禅をしたり、精神修養の行をしたりという、あるべき姿を求めてがんばるところじゃなくて、他力本願の教えを聞いて、身のほどを知らさせていただくところなんです。

他力本願-知っていますか?よくプロ野球の実況なんかで間違って、タナボタ式に勝ったりしたときに使われていますが、そんなんじゃないんですよ。他力本願というのはね、この私を間違いなく仏にするというのが阿弥陀如来という仏様の本当の願いだ、ということなんです。

でもどうして、その仏様は、私がたのんでもいないのに、この私を仏にするなんておっしゃっているのかしら。ずいぶんお節介、私は私の思った通りにするんだから、放っといてちょうだい、と、いいたくもなります。そこで、勇気を出して、仏様に聞いてみましょう。仏様、あなたはどうして、この私を無条件で仏にするなんておっしゃるんですか?

すると、仏様はこうおっしゃいます。
「それはね、お前がうぬぼれのかたまりで、良いことをしてもすぐにテングになってしまうような、どうしようもない、欠点だらけの人間だからなんだよ」
ずいぶんきびしいおことばですが、これが阿弥陀如来という仏様なんです。つまり、この仏様は、いつでも、どこでも、この私に、身のほどを知れよ、とおっしゃっているんです。

さて、準備体操が少し長くなったようですが、仏教というとすぐに、あるべき姿を求めて精神修養に精進努力いたしましょうというものだと思われる方が多いので、そればかりではなくて、仏様を仰いで、身のほどを知りつつ、感謝の日々を送るという道もあるのだということを、少しわかっていただきたかったのです。それでは、準備体操はこのへんで-。


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ひたすら守る安全

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女人に5力-5番目に女性が力を入れるものはなにかと申しますと、それは「安全」だといわれています。家庭と子供と生活という3つの大事なものをかかえている女性が、そのどれに対してもまず、願うのは安全でありましょう。家庭の安全、子供の安全、生活の安全・・・。

いつだったか、女性の登山家のインタビューをラジオで聞いたことがあるんですが、聞き手が、コースやら、抱負やらいろいろ質問して、最後に「それでは事故のないように、気をつけて」というと「ええ、大丈夫です。女性は安全第一で、危険なことはやりません。もう少しで頂上とわかっていても、危ないなと思ったらやめますから」と、あっさり答えていらっしゃったけど、これなんですよね、女の人は。安全を確認してからでないと、コトを起こさない。その点、男性は名利がからんでいるから、ついつい、「花も嵐もふみ越えて、ゆくが男の生きる道ィ」なんて突っ走っちゃう。で、いろんな事故の発生件数をながめてみると、男と女には格段の差がある。これはどうやら、男と女の求めるものの違い、力の入れどころの違いというものが関係しているんじゃないかと、つくづく思うわけであります。

ですから、話をもとにもどして、家庭の安全、ということを考えてみても、男が「ぶっそうだからカギをかけろ」というのと、女が戸締まりをするのとは、どこか違うものでありまして、男の意識の底には(カギをかけないでドロボウにでも入られたら、オレの財産を盗まれる。それに、家族の者を危険にさらすことにもなって、主人としての名誉にかかわる)なんて、またまた名利が顔を出す。

そこへゆくと、女性の方は、あっさりとしたもので、戸締まりは単に用心のため。お金でもとられたら、明日から食べてゆけないじゃないの-という安全感覚からきているようであります。

子供の安全-これはもう、お母さんなら命がけでありまして、自分の身をけずってでも子供を守る。夏休みの間などは、朝から晩まで「危ないわよ」「気をつけて」「いけません」「おやめなさい」の連呼であります。教育ママといわれるお母さん方も結局、こどもが大きくなってから安心して生きてゆけるようにということを願って、塾だ、試験だ、勉強だと叫んでいらっしゃるんでしょ。そしてお父さんはといえば、子供を育てるのも名利でありまして、エライ子、立派な子になればいい。それがだめなら、ワンパクでもいい、たくましい子に育ってほしい…なんて、カッコばかり付けちゃってるんじゃないかしら。

さて、最後は生活の安全。これはもう、着る物、食べ物、住むところ、とすべてが主婦の心配のタネでありまして、家族のものが安心して暮らせるようにと、日夜心血を注いでがんばって下さってるわけであります。もしも、主婦にこの安全を願う心がなかったら、それこそ家庭は一夜にしてといってはオーバーかもしれないが、とにかく、ダメになってしまうだろうと思うんですが、いかがでしょう。

さて、女人に5力-美しさと家庭と子供と生活と、それらを守り抜く安全確保の力と、女性とは、かくも素晴らしい5つの力を持っておいでなのであります。それは力であsると同時に宝であります。どうか、この5つの宝物を、おなくしにならないよう、くれぐれもお気をつけて下さいますように-。


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食べてくれる よろこんでくれる

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女人に5力-4番目は「生活」であります。
お経には「田業力」などとありまして、インドでは、田んぼの仕事は女がやることになっているらしい。これは一度確かめなくてはと、昨年インドへ行ったとき、見てきましたが、なるほど、あの広大なインドの田畑で、懸命に働いていたのは、ほとんどが女性で、男はヒゲをはやしていばっているだけみたいでした。

で、これはインドだけかというとそうではなくて、富山の私の寺の縁側からながめてみても、やはり田んぼは女の仕事だなあと思えてきます。こんなことをいったら、農家の主人がおこるかもしれないけれど、男が田んぼに出るときは、必ず機械とご一緒で、田植機のハンドル握って胸を張り、トラクターの運転席でタバコふかしていらっしゃる。田植えをしているのは、サナエちゃんとか、小太郎さんとかいう農機具なんですね。

一方、女性はといえば、機械のそばで、トウチャンをしきりに持ち上げて、自分はコツコツ黙々下働き。終わると、男は「あー疲れた、さあビールだ!」となるけれど、カアチャンの方はそれから帰って食事の支度が待っている。コシヒカリは越中女でもっているといっていいんじゃないかと思います。

さて、女人の第4力を田んぼからもっとひろげて、生活全般と考えてみましょう。生活とは、辞書によれば、生存して活動することとか、生きながらえることとか、くらしてゆくこと、世の中で生きてゆくてだて、などとなっていますが、こういうことを自分1人だけでなく、家族全員のことまで引き受けて、それを苦もなく、うまーくやりこなせるのは、もうなたって、主婦以外にはないのであります。

これは本当にすばらしい能力でありましてたとえば食生活-これは最近ふと気がついたことなんですが、近くの奥さんたちの会話の中に、よく「食べてくれる」とか「よろこんでくれる」ということばが出てくるんです。
「ウチはね、ニンジンやピーマンは細かくきざんで、いためごはんやスープの中に混ぜちゃうの。そしたらよく食べてくれるのよ」
「そうね、やっぱり工夫よね。主人だってけっこう偏食なんだけど、ちょっと目先を変えるとよろこんで食べてくれるわね」
これは食生活だけではなく。着るものにしたってそうでして、
「なんとかで洗ったわ、フワフワで真っ白!こどもたちがとてもよろこんで着てくれるんです」
なんて、コマーシャルもあるぐらいで、常に子供のことを思い、家族の生活について考えていらっしゃる-それが主婦ってものなんですね。

一家の主、名利の男からすれば「食べてくれる」は「食わせる」であり「よろこんでくれる」は「よろこばせる」となって、どうも上から下への押しつけがましさが目立ちます。これはもうどうしようもないことでありまして、男は名利ただ一つなのだ、とでも理解いただいて、とにかく家庭と子供と生活というものを「おさんどん」などと見下げずに、これこそ、男に羽は持ち合わせのない、女の力の入れどころ、わたしの独壇場なのだと再確認、再発見していただきたいと思うのであります。


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子の痛みをわが痛みとして

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女性が一生懸命に力を入れることには5つあって、1に美容、2に家庭ときて、3はといえば、これが「子供」である、と仏様はおっしゃってる。なにも仏様にいわれなくたって、母が子を思い、子育てに熱中することぐらい、本紙連載の山谷えり子さんの子育て奮闘記を読めばすぐわかるわけでありますが…。でも、どうして、母親はわが子のこととなると、父親を放ったらかにしてでも、がんばる気持ちになるんでしょうね。

そのあたりを、ひょっとしたら、こういうことなんじゃないかなあ、と感じたことがありますのでお話しいたいと思います。これは仏様じゃなくって、わたしの思いですから、たいしたものではありませんが…。

子供って、アチラのことばでいうと、チャイルドですよね。で、そのチャイルドというのは語源は何かと英語の先生に伺ったら、なんと、ラテン語で子宮ということばなんですと。つまり、母親と子供はつながっていて、それが切れて出てきたんだけど、まだまだおなかの中と同じようなものなんだということでありましょう。このことで、おどろいたのは、わたしの友人がある時、仕事でケガをしまして、機械に指をはさまれて、右の指3本なくしてしまいましてね、どうなぐさめていいのかわからず
「たいへんだったなあ、不自由だろう」
と、なんとも月並みなことをいっちゃったんですが、その時、友人がいうには-
「お前にはわからんだろうが夜寝ているとな、このなくなった指の先の方が痛むんだよ。それで、フト、手をやってみると、そこにはもう指はないわけだろ。神経の錯覚なんだろうけど、いやあ、なんともいえないものだぜ」
わたしは、これをただ不思議なこともあるものだなあぐらいに思っていたんですが、それからちょっと気になって、手をなくした人、足をなくした人などに聞いてみたんです。すると、みんな同じような痛みを感じ、なくなった手の先、足の先に手をのばすというんです。そんなものかなあ、とうなずいていて、ハッとしたのは、じつは、母と子というのはこの関係なんですね。

つながってたんです。それが切れて出たんんです。そしたら、ちょうど、なくなった指の先が痛んだり、切断した足の先にふと手がのびるように、子供の痛みが、わが痛みと痛める。子供の悩みが、他人事でなく、わが悩みと悩める、それが母親なんじゃないでしょうか。

うちの女房も同じで、はじめて、子供を医者に連れていって、大きな注射をされるとき思わず、痛い!と口に出てしまったといいます。自分が注射されるわけでもないのに、子供の痛みが、自分の痛みのように感じられる、ということでしょう。残念ながら、父親にはそれがない。いや、これは私だけかもしれませんが、子供がケガをして帰ってきても、傷口に手をやることをせず、まず「オイッ、たいへんだ、なんとかしてやれ!」と女房を呼ぶ。痛みが伝わってこないんです。なんとかしてやろうとは思うけど、口ばっかりなんです。これはやっぱり、つながってなかったからじゃないだろうか。男は名利、でカッコばかりつけていて、わが子の痛みをわが痛みと感じない。わが子の悩みをわが悩みと悩めない-というところが父親にはあるんじゃないだろうか…。

女人の第3力-母と子の絆に対しては、男としてただただ頭が下がるばかりであります。


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帰りどころ

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


偉くなりたいのが男の願いで、美しくありたいのが女の願い-言葉をかえると、男の宝は「名利(みょうり)」であり、女性の宝は「美しさ」ということにもなろうかと思いますが。その宝物、男には一つだが、女にはまだあって、第二の宝は「家庭」だというんです。

家庭-そういえば、このページも家庭婦人面とうたってあるくらいでありまして、家庭を守る、家庭の中心人物といえば、なんたって、これはお母さんしかいないのであります。ずいぶん決めつけてものをいっているようですが、なぜ、そういえるかを話す前に、まず、家庭とは一体、どういうものなのか、ということについて考えておきましょう。

社会学の先生にうかがうと、家庭とは「グッド・ハーバー」だとおっしゃる。つまり、良い港のようなものだというわけです。で、その良い港というのは、設備が整っている港とか、灯台の光が隣りの港より明るいとか、そういうものじゃない。船に乗っている人たちが「あー、帰って来たなあ」と思える港、それが良い港というものでありまして、家庭もまた、この港と同じで、家族のものが「帰って来たなあ」と思えるところでなくてはならないわけであります。

ところで、この「帰る」という言葉でありますが、これは一体、どういう所で使えるかといいますと、待っている人がいてはじめて帰るというんです。「ただいま」といったら「お帰り、待ってたわ」といわれて帰ったことになる。待っている人がいないところへは「行く」というんです。

さて、そんなことを思いながら、わたしも年に何度か、大阪の実家に帰るわけですが、たまたま、母親がいなくて、兄が迎えてくれることがある。
「やあ、ただいま、兄さん」
「あー、お前か、何しに来た?」
迎えてくれているんだろうけど、何しに来たといわれては帰った気分にはなれません。

では、父親だったらどうか-
「父さん、ただいま」
「オー、ン、ン、ン」
うなずいているだけじゃ、これも帰って来たなあ、という感じが出ない。
それが母親だったら、もう玄関に入る前から車の音で聞きわけるのか、向こうからガラッと戸をあけて、「あッ、隆ちゃん!隆ちゃんでしょ。お帰り。遅かったわね。電車なら時間がわかるけど、自動車だからいつ来るかわからないでしょ。富山へ電話してみたら、もう着くころだって…それから2時間もたつんだから、心配したわ。さあ、あがんなさい。おフロわいてるよ。さあ、さっと汗を流してそれからお酒でしょ。何飲むの?あ、そうそう、富山の方、こないだの雨どうだったの?大変だったでしょ…」
ちょっと口数多いけど、何だか帰ったなあという気分にひたれるのは、やはり、母親の持っている大きな「力」だと思えてくる。そして、もし、この母親がいなくなったら、わたしは実家へ帰ることも少なくなるんじゃないか-と、そんなことも思うんです。

宗教とは、わたしの究極の帰りどころを求めるものであって、それは宗派によって、いろいろと違いはあるんですけど、この世でわたしが帰れることろといえば、それはだれでもただ一つ、待ってくれている母親のふところ、ということになるんじゃないでしょうか。


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男の世界は名利の修羅場

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「競利争名(きょうりそうめい)」-こんな病気があるんですって。読んで字のごとく、利益を競い合い、名誉を争い合うということなんですが、世の中毎日、こればっかりじゃないんですか。

試しに新聞の一面から最終面まで、ざっと目を通してみましょう。
まず1、2面には政治関係のニュースがたっぷり。日本の未来をしっかとにらんでまともに国政の問題をえぐるというような話はあまりたくさんありませんで、鈴角がどうのとか、野党のメンツとか、およそ政治以前の名誉の争いが多い。で、それがまた、読んでいて面白いということは、こっちもお「争名(そうめい)」の病にかかっているわけで、調べてみたら、新聞が1番よく売れるのは争名の極み-選挙の時期だそうですから、さもありなんとうなずけます。

経済面。これはもうズバリ「競利(きょうり)」の世界、利害の戦争、ソンかトクか、勝った負けたかと大企業から小売りまでがカンカンです。オヤ、その競利の経済面の片すみには、棋聖戦・・・あくまでここは勝負の世界なんですな。

勝負といえば、スポーツ面。アマチュアなら名誉、プロなら利益ということで、ここも競争オンリーのページ。地域ニュース、社会面となると、ホッとする話題もあるにはあるけど、やはり毎日、名利の修羅場が主役のよう。

さてさて、それではテレビでもと番組欄をながめれば、ここも熾烈な視聴率競争。チャンネルのひねり具合でこれまた勝った負けたとなるわけで、かなりナマぐらいタイトルが同じ時間帯にしのぎをけずっています。

ほーんとにどこをながめても、競利と争名、我と我、利と利がぶつかり合ってガリガリガリガリと音をたて、我と他、彼と此れがもつれ合ってはガタピシガタピシ・・・。世の鏡である新聞を目で読まずに、耳で読んだら、一面から最終面まで、我他彼此我他彼此 ガタピシガタピシガリガリと聞こえてくるんじゃないかと思われます。

あ、そう、婦人面はどうですか。例えば本日。楽しい園芸、食べ物レポート、お茶の間説法、熱中育児・・・と、じつにソフト、ケンカなしという感じ。競利争名の病気はどこへいったのかしらと不思議なくらいなんですが、それはそれ、わからないことは仏様に聞けばいい。すると、次のような答えが返ってまいります。

つまり、新聞の中で、婦人面以外はほとんどが男の世界。で、男というものはいったい何に興味を示し、何に一生を賭けるかといえば「名利のみ」と、仏様はおっしゃる。要するに、偉くなりたいのが男の願いで、ただこれしかない、とおっしゃるわけです。

そして、この願いを貫くためには、まずこのシャバでは、目の上の偉いのを引きずり下ろさなくてはならない。すると、偉い方は負けまいとがんばる。そこに必ず争いが起きて、修羅場と化する。それを競利争名の病とおっしゃったわけで、どうやら、この病気は婦人病ではなく、男性病のようであります。

でありますからして、世のご婦人方は、なるべくこの病気を悪化させないように気をつけていただきたい。「なーんだパパ、あんまり偉くないのねー」とか「あんだけ働いて、こんだけ?」なんていったら、それこそ新聞ダネにもなりかねませんからね。

さて、心の健康診断はこれぐらいにして、次回からは婦人面はなぜに平穏なのかということも含めて、何が女性の願いかという問題にせまってみることにいたしましょう。


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1日1年の悩みに気をとられ・・・

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「飢渇寒暑(きかつかんしょ)」-これも仏様がおっしゃる病気の一つでして、キカツカンショ、つまり、「ハラヘった、ノドかわいた」とか「寒い暑い」とさわぐのも、ほどほどにしなさいと戒めていらっしゃるわけです。

そういえば、私達の生活を振り返ってみると、毎日毎日これおばっかりじゃありませんか。特に、主婦は朝昼晩、飢と渇の家族をいかにして満足させようか、ということに身をけずっていらっしゃるわけでしょう。いや、亭主だってそうですよ。「なんたって、食わしていかなきゃならないもんな。うちにはクチバシの黄色いのが口あいて五つも待っているんだもんな。あーあ、ラクしたいよ」
そして、そのクチバシの黄色い方も
「あーノド渇いた、なんかない?」
「おなかすいた、ごはんまだ?」
なんていってる。なんだ、家中そろって、朝から晩まで、こればっかりなんだよね。だから仏様も、一日の悩みはこれにつきるとおっしゃるわけだ。

で、その悩みが、もうすこし長いものになるとどうかというと、これが「寒暑」なんです。シーズンにまたがって、寒いの暑いのとやっている。家を建てるなんてのも、結局は、寒さをしのぐとか、雨露をしのぐというところからきているんでしょ。
「ねー、暑いわねー。なんとかならないかしら。今年こそ、寝室にも、クーラー入れたいわねー」
「待ちなさい、子供部屋が先だ」
なんて、シーズンにまたがって悩みのタネとなるのは、この、寒いの暑いのという問題なんじゃないですか。

一日の悩み-飢渇。一年の悩み-寒暑。まあそれも大変だろうけど、一生の問題も、ゆっくり考えておかなくてはいけないよ、と仏様おっしゃてるんですよね。ところが、これが聞こえない。「一生過ぎやすし」なんていっても、「そんな先のこと!」ととり合わないで、ハラへったノドかわいた、寒いの暑いのとやっている。これが自覚なき心の病気の第四「飢渇寒暑」であります。

さて、つづいて第五は、なんと「睡眠」であります。これも病気?いや、正常なる眠り、明日の鋭気を養う眠りは健康的でけっこうなんですが、お経にある睡眠は、なまけ心とくっついていまして、とにかく目をふさぐだけじゃなくて、人はすぐに耳をふさぎ、心までもふさいでしまう、これがいけない、とあるんです。

そういえば、いけないと知りながら、車の運転中に、目をあいたまま、睡眠をたのしんでいらっしゃる方、近頃多いね。この1週間で私は5件の事故現場を目撃しましたが、どうやら居眠り運転だったみたい。気をつけなくっちゃいけません。ていいながら、じつはちっとも気をつけていないのが私達で、条件がそろたら、ついウトウトとやっちゃうわけです。本当にどうしましょう。

いや、車の運転ばかりじゃない。私達はいつも、自分に都合の悪いものには目も耳も心もふさいでしまう悪いクセがあります。学校の先生のおっしゃること、目も耳も心もひらいて聞いていたら、それこそ、もっともっとかしこくなっていたはずなのに…。じゃあ、どうすれば目が覚めて心が開けるか-残念ながら、そうと気付いて本人が努力するしかないそうです。


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別れたとたんに愛着病

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仏様のおっしゃる自覚症状のない心の病気というのは、一に欲と貪り、二に何事もよろこべないという病気、そして第三は愛着という病気です。

目の前にいる時は、ちっともよろこべないのに、離れたり、別れたりすると、とたんにこの愛着病が発生します。ですから、愛しく思い、大切にしなくてはならないものには、せいぜい今のうちに、出来る限りの愛情をそそいでおくこと。そしたら、少しはこの病気、軽くなるんじゃないかと思うんですが、なかなかねー。

先日もある婦人会で、なくなられた俳優、木村功さんの奥さんがいつも「功、大好き!」といってたけど、私達もマネして、今をよろこんでおこうよ、といったら、婦人会の皆さん「ホントねー」なんておっしゃってる。そこでもう一度念を押して-いいですか、大好き!とか、逢えてよかったね、とか愛情の表現はなんでもいい、とにかくご主人と、子供と、そして、おじいちゃん、おばあちゃんと、今日からみんなで手を握り合ってみましょうよ。

そしたら、また、ウンウンとうなずいていらっしゃる。
わかった?奥さん、あなたのことですよ。あなたがこれからウチへ帰って、みんなと手を握り合うんですよ。出来ますね。ご主人と-といったら、アハハハと笑われる。では子供とは?と聞いたら、ハイハイとうなずいた。じゃあお姑さんとは?と聞いたら、とたんに、ワァーッとどよめいて「そりゃどうにもなりません!」ていうんです。

さっきまで、ウンウン、ホントねーなんていっていたけれど、まるで他人事として聞いていたわけで、いざ自分の事となると、都合の良いとこはOKだけど、都合の悪いところは絶対NO!なんです。ちょっとシャクでした。そこで、今度は老人会でも聞いてみたんです。

当たり前のことだけど、みなさんは朝起きたとき、ウチのみんなとあいさつしてますか?お早う!と声をかけ合ってますか?すると、どうでしょう。百人ほどの集まりでほとんどの方が下を向いちゃうんです。あら、おばあちゃん、ウチで孫やら、嫁さんやらと、お早うっていってないの?すると、おばあちゃんたち、さびしそうに笑って
「なーん(いいえ)、朝のあいさつどころか、若いもんは声もかけてくれませんちゃ」
とおっしゃった。これがどうやら私達の日常のようであります。いや他人事じゃなく、この私にしたって、そりゃあいさつぐらいはしているけど、毎日、逢えてよかったとよろこんでいるかといえば、なかなかそうはゆきません。それが本当の私-つまりは心の病気にかかっているわたしなんですよね。

ちょっとしんみりしちゃったんで、気分転換にそのおとしよりに、もう一つ聞いてみたんです。ねえ、おばあちゃん、あなたたち若いもんと仲良くしたいと思いませんか?すると、思う思うとうなずく。じゃあ、なぜ、仲良くできないんですか?いったいだれが悪いんでしょう?そしたら、みなさん、そりゃ若いもんが・・・といいかけたので、じゃあ聞くけど、あなたの若いころ、姑さんと笑って手を握り合ったことあるの?これにはおばあちゃんたちも、ありゃりゃ?!
ともに凡夫のみ、ですな。


「お茶の間説法」(37話分)
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