帰りどころ

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


偉くなりたいのが男の願いで、美しくありたいのが女の願い-言葉をかえると、男の宝は「名利(みょうり)」であり、女性の宝は「美しさ」ということにもなろうかと思いますが。その宝物、男には一つだが、女にはまだあって、第二の宝は「家庭」だというんです。

家庭-そういえば、このページも家庭婦人面とうたってあるくらいでありまして、家庭を守る、家庭の中心人物といえば、なんたって、これはお母さんしかいないのであります。ずいぶん決めつけてものをいっているようですが、なぜ、そういえるかを話す前に、まず、家庭とは一体、どういうものなのか、ということについて考えておきましょう。

社会学の先生にうかがうと、家庭とは「グッド・ハーバー」だとおっしゃる。つまり、良い港のようなものだというわけです。で、その良い港というのは、設備が整っている港とか、灯台の光が隣りの港より明るいとか、そういうものじゃない。船に乗っている人たちが「あー、帰って来たなあ」と思える港、それが良い港というものでありまして、家庭もまた、この港と同じで、家族のものが「帰って来たなあ」と思えるところでなくてはならないわけであります。

ところで、この「帰る」という言葉でありますが、これは一体、どういう所で使えるかといいますと、待っている人がいてはじめて帰るというんです。「ただいま」といったら「お帰り、待ってたわ」といわれて帰ったことになる。待っている人がいないところへは「行く」というんです。

さて、そんなことを思いながら、わたしも年に何度か、大阪の実家に帰るわけですが、たまたま、母親がいなくて、兄が迎えてくれることがある。
「やあ、ただいま、兄さん」
「あー、お前か、何しに来た?」
迎えてくれているんだろうけど、何しに来たといわれては帰った気分にはなれません。

では、父親だったらどうか-
「父さん、ただいま」
「オー、ン、ン、ン」
うなずいているだけじゃ、これも帰って来たなあ、という感じが出ない。
それが母親だったら、もう玄関に入る前から車の音で聞きわけるのか、向こうからガラッと戸をあけて、「あッ、隆ちゃん!隆ちゃんでしょ。お帰り。遅かったわね。電車なら時間がわかるけど、自動車だからいつ来るかわからないでしょ。富山へ電話してみたら、もう着くころだって…それから2時間もたつんだから、心配したわ。さあ、あがんなさい。おフロわいてるよ。さあ、さっと汗を流してそれからお酒でしょ。何飲むの?あ、そうそう、富山の方、こないだの雨どうだったの?大変だったでしょ…」
ちょっと口数多いけど、何だか帰ったなあという気分にひたれるのは、やはり、母親の持っている大きな「力」だと思えてくる。そして、もし、この母親がいなくなったら、わたしは実家へ帰ることも少なくなるんじゃないか-と、そんなことも思うんです。

宗教とは、わたしの究極の帰りどころを求めるものであって、それは宗派によって、いろいろと違いはあるんですけど、この世でわたしが帰れることろといえば、それはだれでもただ一つ、待ってくれている母親のふところ、ということになるんじゃないでしょうか。


「お茶の間説法」(37話分)
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