親鸞聖人像の全国普及にとって欠かせない人物、広瀬精一さんは、親鸞聖人像のみならず、戦前から戦後に至るまで、日本の銅像文化にとっても大きな影響を与えたひとりである。特に浄土真宗本願寺派にとっては海外伝道へも多大な影響を与えている。ここに、広瀬精一氏の軌跡を知る限りまとめておく。
仏教誌「唯」の特集記事より
◇篤志家廣瀬氏と親鸞聖人像
角坊の聖人像寄進者は廣瀬精一氏です。三重桑名の出身で、大阪で鉄鋼関連の業界に身を置き大活躍されました。25歳のとき幼い愛児を亡くされ、失意の廣瀬氏をすくったのが親鸞聖人の教えでした。
感謝の念から聖人像の寄進を思い立まず角坊に大銅像を建立され、前戦後、東京(麻布善福寺)、広島(三滝聖ヶ丘)、新潟(五智国分寺)、三重(大谷派桑名別院)、大阪(四天王寺)に、聖人の大銅像六体を次々に寄進されました。その後も断続的に親鸞聖人等の聖像を全国、世界各地で寄進されました。築地本願寺の大銅像の寄進者でもあります。
◇行脚姿の親鸞聖人像
現在判明している屋外の聖人像は、8割以上が蓑笠(みのかさ)を被った旅姿の行脚像です。
昭和22年、廣瀬氏は、親鸞聖人の教えを大切にする安芸門徒の中心道場本願寺広島別院(広島市)境内に行脚像の寄進を申し出ます。しかし「事情があって」郊外の三聖ヶ丘への設置となりました。場所変遷の経緯について、広島の昔の事情に明るい大先輩僧侶8名に聞き取り取材を行いましたが、90年近い時間経過が壁となり、確かな証拠は得られませんでした。しかし取材を通じて得た証言をもとに次の仮説に辿り着きました。
浄土真宗の墓石は、全国的にみると「南無阿弥陀仏」と刻銘されます。しかし広島では仏さまのはたらきである「南無阿弥陀仏」を雨ざらしにできないと考え、「倶会一処」(いのち終えてのち阿弥陀仏の浄土で出会う意)などの仏語を刻み、それが徹底されていました。南無阿弥陀仏を大切に思うように親鸞聖人を敬う安芸門徒の中心道場に、雨ざらしを前提とした銅像設置を許容できない意見が根強かったのは想像にかたくありません。苦肉の策で郊外に設置されたのではないかと考えられるのです。さらに蓑笠を着けた行脚のお姿は、当時少なからずあった雨ざらし反対の意見への対応とも考えられます。
現存する戦前生まれの聖人像
ナモアミダブツの6体
最初の6体は時系列に並べると、①角坊別院、②善福寺、③善光寺、④広島→米国、⑤国分寺、⑥三重桑名別院となります。しかし、著書「聖像と荒牛」によると、④の広島→米国の像は、移設された1955(昭和30)年を建立の年として6体のうちには入れず、6体目には時系列から少し遅れて建立された四天王寺が記されていました。
時系列の6体目にあたる桑名別院の次は、日野誕生院や青蓮院の童形の像が建立されていることを考えると、建立当時は6体目を桑名別院で完成としていたところ、改めて振り返った時に、ニューヨークへ移設した像は6体から省き、先の5体と同サイズの像が建立する四天王寺を繰り上げて6体目とされたと推測します。
整理すると、このようになります。
<時系列順>①角坊②善福寺③善光寺④広島→米国⑤国分寺⑥桑名別院
<著書の順>①角坊②善福寺③善光寺④国分寺⑤桑名別院⑥四天王寺
<大銅像順>①角坊②善福寺③広島→米国④国分寺⑤桑名別院⑥四天王寺
海外布教にもご尽力
広瀬氏は、京都に学生の学業を支援、指導する寮を設立し、後にその土地と建物を本願寺へ寄贈する。それを資金に昭和48(1973)年、「本願寺国際センター」が建設された。ここにも聖人像をはじめ、御本尊・仏壇・仏具一式を寄贈している。また海外伝道にも熱心で、海外の寺院へも複数の聖人像を寄贈している。
>> 浄土真宗本願寺派 国際センター
聖像百体世界分布図
広瀬精一氏は、その後も国内のみならず世界角国へ親鸞聖人像、阿弥陀仏像、釈迦尊像、六字尊号などを寄贈し続け、昭和40年発刊の「聖像と荒牛」によると、昭和10年の角坊別院を皮切りに昭和40年までの間に100体を達成している。
その後も、ご逝去される昭和54年まで寄贈は続いた。
広瀬精一氏の経歴
明治28年、三重県桑名市に生まれる。
大正8年、大阪市において鉄商広瀬商店を創立
昭和10年、株式会社広瀬精一商店社長。角坊別院へ親鸞聖人像を寄進
昭和11年、東京麻布の善福寺へ親鸞聖人像を寄進
昭和12年、長野善光寺、五智国分寺へ親鸞聖人像を寄進
昭和13年、桑名別院本統寺、日野誕生院へ親鸞聖人像を寄進
昭和16年、広瀬商事株式会社社長
昭和17年、財団法人「至心会」設立→昭和28年「至心寺」に寺院化→昭和34年本願寺へ寄贈→昭和46年土地建物を売却し「本願寺国際センター」設立
昭和21年、四天王寺へ親鸞聖人像を寄進
昭和22年、ヰゲタ鋼管株式会社社長
昭和30年、広島の被爆像をニューヨーク仏教会へ移設
昭和37年、住金物産株式会社取締役
昭和39年、著書「渋柿の味」刊行
昭和40年、著書「聖像と荒牛」刊行。聖像100体を記す。
昭和54年、ご逝去
関連サイト
>> ニューヨーク被爆像(広島の外のhiroshima)
>> 広島別院(真宗コア)
>> 親鸞聖人御像(浄善寺)
>> 広瀬精一さん寄贈の親鸞聖人像(仏教を味わう)