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【更新版】親鸞聖人の生涯

in NEWS, コラム

on 2023-12-27

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親鸞聖人が生きた時代は時代の変わり目にあたり、戦争、災害、飢饉が頻繁に起こっていた。

家系は藤原氏の流れを汲み、父、日野有範(ありのり)は、階位9段階中、従6位上の皇太后宮大進という官職で、兄の範綱と宗業は、従3位の官職であった。後に有範一家は全員出家することになる。当時出家の道は珍しくないものの、一家全員の出家はただならぬ出来事があったと思われるが、真相はわからない。

以下、親鸞聖人の生涯に、各地の聖人像を当てはめてみました。

1173年

ご誕生

京都府伏見、法界寺(日野誕生院)が誕生ゆかりの地。父は日野有範(ありのり)、母は名前不詳(源氏の流れを汲む「吉光女」の説あり)

誕生日は不明だが江戸時代以降、4月1日(新暦換算5月21日)に定められている。また、当時は夫が妻の家に同居する「婿入婚」が主流であったため、母の実家で育ったと思われるが、その詳細が不明なため、幼少期に住んでいた地域は定かではない。
(写真:京都・日野誕生院)

1175年

2才 月見の宴

2才まで言葉を発しなかったが月見の晩に「南無阿弥陀仏」と一声となえたという伝説
(写真:愛知・五色園)

1181年

9才 出家・得度

叔父の日野範綱(のりつな)に連れられて京都の青蓮院で得度を行う。伝説では、天台宗の代表的な役割を担う慈円(じえん)が夕方暗くなってきたので翌日にしようとしたところ、「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」といい、その日に得度したという。それに習い、浄土真宗の得度式では本堂を暗くして儀礼をおこなう。
(写真:京都・青蓮院)

この年は「養和の飢饉」。農作物が実らず京都は4万人以上の餓死者があったという。

1185年

平家滅亡

この年は、京都でM7.4の大地震(文治地震)も起こり多数の死者が出ている

1201年

29才 比叡山を下山

20年の比叡山生活に区切りをつけて山を下りる。
(写真:山口・信光寺)

六角堂

下山の後、真っ先に向かったのは聖徳太子ゆかりの六角堂。ここに100日参籠を行い、95日目に夢の中で観音菩薩のお告げを受けたという。その姿を模した像が敷地内の親鸞堂にご安置されている。なお、境内には親鸞聖人像もある。
(写真:京都・六角堂)

法然の元へ

六角堂参籠の後、法然聖人の元へ100日通い、門下に入る。
(画像:井上雄彦作「親鸞屏風絵」)

結婚

親鸞聖人がいつ結婚したのかは定かではないが、妻は恵信尼(えしんに)、子は男女6人と伝わる。
(写真:鳥取・善正寺)

1207年

35才 流罪

念仏停止(承元の法難)により新潟へ流罪
(写真:新潟・国府別院)

1209年

川越えの御名号

越後七不思議のひとつとされるエピソード
(写真:新潟・浄福寺)

新潟での生活

妻子と共に家庭生活を送る。
写真の聖人像は、農作業を終えて夕日に向かって合掌する姿。
(写真:山口・荘厳寺)

1214年

42才 関東へ向かう

家族や門弟と共に拠点を関東へ移す。
(写真:茨城・信願寺)

茨城県を中心に20年の布教生活

茨城県下妻市(小島の草案)、茨城県城里町(大山の草案)、茨城県笠間市稲田(稲田の草案)など拠点を移しながら生活する。
(写真:茨城・稲田禅房西念寺)

1221年

承久の乱

後鳥羽上皇 VS 北条義時
後鳥羽上皇が敗退し追放

1224年

主著、教行信証を著わす

多くの門弟を輩出

門弟の中でも真仏、性信などの代表24名は「関東二十四輩」と呼ばれる。
(写真:愛知・教栄寺)

1230年

寛喜の飢饉

鎌倉時代最大規模の大飢饉で1239年まで続く。人身売買が社会問題化し、幕府は飢饉中は例外的に有効とした。

1235年

63才 京都へ向かう

帰京の理由は諸説あるが、主著「教行証文類」を仕上げるために文献の多い京都へ行ったとされる。
(写真:静岡・教覚寺)

1242年

70才 鏡のご影

鏡に写したように似た絵といわれる肖像画を残す。
(写真:神奈川・箱根神社)

1255年

83才 安城のご影

愛知県安城市に肖像画が伝えられたためその名が付いている。
(写真:愛知・明法寺)

1256年

息子善鸞を義絶

関東で異議をとなえた息子の善鸞に対して、親子の縁を断つ義絶状を出す。

1258年

正嘉の飢饉

全国的大凶作が起こり飢餓と疫病の流行が続く

晩年

親鸞聖人のもとで教えを受けた善鸞の息子、如信は後に本願寺の2代目とされる。写真の聖人像は、晩年に如信と語り合う姿をあらわす。
(写真:茨城・正覚寺)

1262年11月28日
(新暦換算1月16日)

90才 ご往生

聖人の弟、尋有(じんう)の「善法院」で娘の覚信尼(かくしんに)らに看取られながらご往生。


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