親鸞聖人が誕生された地とされる京都の「日野誕生院」と、9才の時に得度(僧侶の資格を取得)を受けた「青蓮院」に、最初期の少年時代の像がある。日野誕生院は昭和13年、青蓮院は昭和14年に、どちらも親鸞聖人像を全国普及した立役者、広瀬精一氏の寄贈による。得度で剃髪するにあたり、髪を短く整えた姿をしている。尚、この時代の像を元服する前の姿として「童形(どうぎょう)」という。
この時、親鸞聖人は歌を詠んだいう。
明日ありと 思う心のあだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
青蓮院に訪れたのは夕暮れ時。「暗くなってきたので明日にしましょう」と言われたことに対してこの歌を詠んだとされる。キレイに咲いた桜も、明日見ようと思った時には夜に散ってしまうかもしれない。私の命も明日がある保証はない、すぐに得度をしてほしいと申し出る。この時のシーンを大切に受け取り、今でも浄土真宗の得度や帰敬式(法名を頂く儀礼)では儀式中本堂を薄暗くして行う。
銅像は戦後、全国に普及していくわけだが、最初期2体の造形を踏襲したものは意外に少なく、髪の長い姿が主流になっていく。
短髪から長髪になったのはなぜか。全国に普及した場所は、実際に子供を預かる幼稚園や保育園を運営するお寺が多く、短い髪よりも長いほうが園児と相性がよいと考えたのかもしれない。もしくは、日野誕生院や青蓮院以前にも長髪の造形があったのかもしれず、真相はわからない。
以上のように、短髪と長髪の親鸞聖人像がほぼすべてであるが、1体、得度後のツルツルの姿が存在する。

こちらは京都芸術大学ウルトラファクトリーで制作され、光華女子学園に設置されている。残念ながら、学園内に設置されているため見学は出来ない。
少年時代の親鸞聖人に関する史実はほとんど残っておらず、その詳細は不明である。しかし、得度後に比叡山へ入り修行を始めたことから、この時点で親元を離れた生活に入ったことは確かである。わずか9才で親と今生の別れをした心境はいかばかりであったか、現代の感覚では想像しがたい。