空華の里


明教院僧鎔
(みょうきょういんそうよう)
1723年、水橋の農家・渡辺家に生まれ、11歳の時に上市の明光寺の霊潭(れいたん)師に見込まれて養子となる。名を与三吉(よそきち)といった。21歳の時に善巧寺へ入寺が決まり、京都では同郷の先輩、僧樸(そうぼく)師の門人となり僧鎔と名乗った。学林(のちの龍谷大学)で行った4度の講義を通じて評価が一段と高まった。

35歳(1758年)、善巧寺に学塾「空華蘆(くうげろ)」を創設し、多くの学僧を育てた。富山の各地に宗学を志す気風を生み出し、寺院の子弟たちは競って研鑽の道へと歩み始めたのである。空華盧について「新川郡学者略伝」には、「今、世にある諸国の末弟およそ3,000人」とある。僧鎔の流れを汲む学派を空華派と呼び、同学派の教えは明治初年まで本願寺の宗学の主流的な役割を果たす。代表的な弟子に、柔遠(にゅうおん)、道隠(どうおん)らがいる。

61歳(1873年)で入寂、明教院(みょうきょういん)と贈り名されている。僧鎔滅後もその徳を慕い、入門を希望する者が後を絶たず、それらの人たちは墓前で入門式を行い「入門帳」に記名されている。墓は最初本堂の後ろにあったが、1841年に門弟の行忠(ぎょうちゅう)らによって現在地に再建された。現在、善巧寺では、毎年11月に僧鎔の法要「空華忌」をつとめる。3年に1度、僧鎔の流れを汲む宗門校「行信教校(ぎょうしんきょうこう)」より学生方が参拝しその遺徳を偲ぶ。

賛歌 そうようさま
歌詞:新村作/作曲:黒坂富治(元富山大学教授)

黒部の流れ 水清く
月訪(と)ふ里に あまねくも
いとけなきより み仏の
光おはしぬ み教へは
庭の草木も かしこみぬ
ああ 明教院 僧鎔様
※昭和初期まで小学校で歌われていた賛歌

俳句/雪山俊夫作
ありし日の 面影かたれ 老銀杏樹
※僧鎔の150回忌に詠んだ歌。大銀杏の前にある石に刻まれている。

実のないイチョウの木の話
~うなづき昔話より~
絵本制作:上坂次子

<富山大百科事典より>
僧鎔
浄土真宗本願寺派の学僧。幼名与三吉。初名を霊観,のちに慶叟(けいそう)。字(あざな)を子練。号を仰峰(ごうほう)・甘露(かんろ)・雪山(せつざん)・空華廬(くうげろ)といった。諡(おくりな)明教院。新川郡市江(いちえ)村(現富山市水橋市江)の渡辺彦左衛門の子として生まれる。11歳のとき霊潭(れいたん)に見出され,その養子となる。この経緯については『古徳事蹟伝』(著者不明)に記述がある。霊潭が路傍で水遊びをしていた与三吉少年を見て,その才能を見込んで寺へ連れ帰った。驚いた両親が追いかけたが,すでに剃髪(ていはつ)していたという。だが玄妙の『先哲遺事』には,霊潭が生家を訪れたとき与三吉を見て,才能を見込み両親に話して連れ帰ったと記されている。前者はいささかでき過ぎた逸話であろう。その霊潭のもとで10年間真宗の学問の基礎を学んだ。 21歳で新川郡浦山村(現黒部市宇奈月町)善巧寺(ぜんぎょうじ)に入寺。しかし勉学の思いを断つことができず京都に上り,同郷の先輩僧樸(そうぼく)の門に入る。このころから僧鎔と名乗り始める。学林(龍谷大学の前身)で行った4度の講義を通して声価が一段と高まり,次の能化(学頭)は越中の僧鎔だろうともっぱらの評判だったが,6代能化功存の在職中に亡くなった。しかし,その学説はのちの学界に大きな影響を与える。1758年(宝暦8)ごろ自坊に学塾空華廬を創設し,多くの優れた人材を育てた。講義中にしばしば感涙にむせんだことが聴記に記されていることから,偉大な学者であるとともに,1人の信仰者としても素晴らしい一面をもっていたことが窺(うかが)える。74年(安永3)には飛騨国古川(現岐阜県古川町)で起こった異義事件を治めている。『本典一諦録(ほんでんいったいろく)』21巻をはじめ100余部を著す。享年61歳。〈土井了宗〉

空華廬(くうげろ)
僧鎔が1758年(宝暦8)自坊善巧寺に創設した学塾。新川郡浦山村(現黒部市宇奈月町)にあった。廬の塾則にあたる「制法(せいほう)」によると,最初は僧鎔の私的な小庵(書斎)であった。ところが,学友から〈開放してともに学ばせてほしい〉との強い要請を受け,拒みきれず学塾とし,空華の額を掲げたのが始まり。「僧約(そうやく)」と「制法」の2部からなる塾則も決められた。「僧約」は10カ条にわたって学仏の徒として遵守(じゅんしゅ)すべき事柄を規定。「制法」はこれをさらに敷衍(ふえん)して廬の内外での門弟たちの生活を細かく規制し,厳しい罰則を設けている。廬には春会(しゅんえ)・秋会(しゅうえ)・冬会(とうえ)の〈三会の制〉が定められた。夏の講会がないのは,学林で行われる夏季の勉学会安居(あんご)に出席させるため。春会・冬会は日数30日と決め,秋会はその都度日数を決めた。日数が満たないと落第させられた。同廬では1824年(文政7)に学林制度の変革があり,それに対応するため同年「空華廬副制」を,さらに37年(天保8)には「再副制」を制定している。この廬の流れを汲(く)む学僧は,新しく学塾を開設しても,空華以外の称号を付けなかった。すべて浦山の分校のような形を取った。このため門人行忠(ぎょうちゅう)が『新川郡学者略伝記』に,〈今世にある諸国の末弟,凡そ三千人に満たんと欲す〉と記しているような一大学派が形成された。善巧寺の『空華廬入門帖』には237人の名が記帳されている。高弟柔遠(にゅうおん)・道隠(どうおん)をはじめ,僧周・僧鑑・居敬(こけい)・勿(ふつ)照・濯瓔(たくえい)・玉振・杳旭(ようぎょく)・慧航(えこう)らの著名な学僧の名がみえる。遠く九州・東北・近畿方面から雪深い浦山の地に徳を慕い集まった。〈空華学派〉と呼ばれ,三業惑乱(さんごうわくらん)後は学林中最大の学派として浄土真宗本願寺派の宗学に大きな影響を与えた。僧鎔の死後,入門を希望した者は墓前で入門式を行い,〈滅後の弟子〉と称したが,その数は62人に上った。〈土井了宗〉

> 空華学轍の思想/桐谷順忍
>> 黒部市HPより