【超訳】白骨章/蓮如上人

浄土真宗の8代目、蓮如上人(1415―1499)はご縁のある方へたくさんのお手紙を送りました。それをまとめたものを御文章(ごぶんしょう)といい、その中に「白骨章」があります。善巧寺では葬儀の最後に拝読しています。

【超訳】
人の世のはかないようすをよくよく考えてみると、この世は常に移り変わり、まぼろしのような一生です。いまだかつて万年も生きた人は聞いたことがありません。一生はすぐに過ぎてしまいます。今まで、だれが百年の命を保つことができたでしょうか。

私が先か、人が先か、今日かもしれず、明日かもしれません。今からいのちを終えていく者は、草木のしずくや露のように、気付いた時には落ちてなくなります。朝には元気な顔であっても、夜には白骨となってしまう身なのです。無常の風が吹けば、ふたつの目は閉じて呼吸が止まり、元気だった顔もむなしく変わり果て、家族や親せきが集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできません。

また、いつまでも悲しんではおれず、葬送の準備を整えて、儀礼を行い、火葬して煙となってしまえば、ただ白骨だけが残るのです。なんと哀れで虚しいことでしょうか。

このように、人間のはかなさは、若い者も老いた者も関係がなく、すべての人は一刻も早くいのちの行く先を考えて、阿弥陀仏の願いを深く受け止め、南無阿弥陀仏をとなえるべきです。

恐れ多いことです。もったいないことです。

【原文】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ あなかしこ

人間の死亡率は100%ということと、はかない人生だってことを、しつこいぐらいに言ってるね。限りのあるいのち、何を大切にして生きていく?

蓮如上人の時代は災害、疫病、飢饉、争いが絶えなかったんだよ。いつも死ととなり合わせで、しかも、幼い頃にお母さんと別れて、大人になってからは我が子を先に亡くす出来事もあったの。たくさんの別れを経験したからこそ、人生で1番大事なことは何かということを誰よりも考えていたのかもしれないね。

白骨章の拝読
白骨章/武田正文の仏心チャンネル

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