領解文とは、浄土真宗の教えの受け取り方(領解)をあらわした文章です。本願寺8代の蓮如上人は事あるごとに、「ものを申せ」と口に出して気持ちをあらわすことを勧められました。教えをどのように受け取っているかを告白し、それに対して蓮如上人がご助言(改悔批判)したことが元になり、現在も本願寺ではその形式が残っています。
【超訳】
わたしは、いのちの行方を自分の力だけでなんとかしようとする心を振り捨てて、阿弥陀如来の救いの働きに一心におまかせします。
【原文】
もろもろの雑行雑修自力(ぞうぎょうざっしゅじりき)のこころをふりすてて、 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。
親鸞聖人の教えは、阿弥陀如来の名を称えるナモアミダブツひとつに集約しているから、救いという一点においては、他の行を必要としないの。ここはもっすごい深いところだから、一言では言えないね。
【超訳】
阿弥陀如来におまかせし南無阿弥陀仏と念仏する者は、救われることが決定し、その後の念仏は、阿弥陀如来のご恩に報いる行いであると、喜びのうちにおとなえします。
【原文】
たのむ一念のとき、往生一定(おうじょういちじょう)御たすけ治定(じじょう)とぞんじ、このうえの称名(しょうみょう)は、ご恩報謝(ごおんほうしゃ)とぞんじ、よろこびもうしそうろう。
ほとけさまの救いを受け入れた後は、「ありがとう」の念仏なんだね。
【超訳】
信心が正しく救いの種となり、信心を得たのちの念仏は阿弥陀如来のお徳に感謝する念仏と受け取れるようになったのも、親鸞聖人のおかげであり、私にご縁をくださった多くの方たちのおかげであります。
【原文】
この御ことわり聴聞(ちょうもん)もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、 次第相承(しだいそうじょう)の善知識(ぜんぢしき)のあさからざるご勧化(かんけ)のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。
信心は自分で作るものじゃなくって、阿弥陀さまから頂くものなんだって。頂き物には「ありがとう」の気持ちがセットだけど、そう思えないとしたら、頂き物と思ってないからだね。
【超訳】
このように受け取らせていただいたからには、ご恩に報いる生活を送れるように、傲慢にならず、卑屈にもならず、遠慮もせず、気ままもせず、おおらかに、しかし慎みぶかく生きようと心がけます。
【原文】
このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう
仏さまの願いを聞けば聞くほど、自分のダメさが知らされるの。それを一生かけてずっと聞いていくのが仏道なんだよ。
浄土真宗の救いのよろこび
領解文のよき伝統とその精神を受け継いだ文章。2009年に発刊された「拝読 浄土真宗のみ教え」に収録されています。
阿弥陀如来の本願は
かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となり
たえず私によびかけます
このよび声を聞きひらき
如来の救いにまかすとき
永遠に消えない灯火が
私の心にともります
如来の大悲に生かされて
御恩報謝のよろこびに
南無阿弥陀仏を称えつつ
真実の道を歩みます
この世の縁の尽きるとき
如来の浄土に生まれては
さとりの智慧をいただいて
あらゆるいのちを救います
宗祖親鸞聖人が
如来の真実を示された
浄土真宗のみ教えを
共によろこび広めます
解説 礼拝聖典/浄土真宗聖典普及会(昭和52年6月1日発行)より
「領解文」は、法話聴聞のあとで、一同そろって「領解出言(りょうげしゅつごん)」といって唱和するご文である。領解とは、念仏のいわれを正しく聞き分け、疑いのはれることをいう。この文は、浄土真宗の根本教義である「信心正因(しんじんしょういん)・称名報恩(しょうみょうほうおん)」が、簡潔に示され、また、信後の生活が勝手気ままであってはならないよう、ていねいに戒められている。
<現代語訳>
わたくしは、さまざまな計らいをまじえた自力の心をなげ捨てて、「阿弥陀如来よ、わたくしの来るべき浄土往生の一大事について、あなたの救いの働きにおまかせます」と、ただ一心に頼みにいたしております。
如来におまかせしたとき、往生成仏の身と定まり、如来の救いは確定したと信じて、その後の称名念仏は、如来のご恩に報いるものであると、喜びのうちにお称え申しております。
この「信心正因・称名報恩」の道理が聞きわけられたことも、浄土真宗を開かれた親鸞聖人がこの世におでましなされたおかげ、また、その後、代々、教えをひき継がれたよき導き手の方がたのお勧めのおかげであると、ありがたく存じております。
このように念仏申す身となったからには、定めおかれた御きまりは、生涯、守り通す決心でおります。