続々・お茶の間説法」カテゴリーアーカイブ

「不殺」二千年の島へ

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「行きませんか?」
どこへ?
「スリランカ」
ええ?!
「いいとこだそうよ。南国の島、緑の島・・・」
それをいうなら仏教の島、そう、一度はお参りしてみたいと思っていたので、その気になって、急なことだったので会合やら講演やらをおことわりして、門徒まわりのお参りも日のべしてもらって、バタバタと用意をはじめたら、
「若ハン、大阪のお母さんと遠いとこへ行くんやってね。私も南の島へいっぺん行ってみたいと思っとったん。一緒に連れてってくらっしゃいよ」
と、門徒のおばあちゃん。
「そんならおらも・・・」
と、寺の総代さん。この人は以前、インドへ一緒に行った人。トントンと話はまとまって、じつはきのうまで1週間余り行ってきました。
で、今日は、本場のセイロンティでも飲みながら、みやげ話を聞いてもらおうと思って・・・。茶の間には、お経の会のメンバーが集まっている。

地図でみると、インドの右下に、なみだのしずくのような島がありまして、これがスリランカ。以前はセイロンといっていた国で、ここはインドからお釈迦様が直接仏教を伝えた国といわれ、その教えが二千年余り、脈々と息づいているといわれます。

雪国を長ぐつで出て、大阪でくつをはきかえて、お坊さんや信徒の方など18人のグループにまじっての仏跡参拝旅行となったわけですが、むこうへついたらとにかく、摂氏30度、湿度70%こりゃもうなんともいえないうれしさで、門徒のおばあちゃんは、「わぁーわぁー」と胸をはだけてあられもない。

母親は、いやじつはこの欄のさし絵を描いてくれているんですが、スケッチブックを出して、写生に余念がない。総代さんは、乳牛を10数頭飼って、田んぼの何町か持っている酪農家で、1年に3度も米のとれる姿を見せつけられて、真剣に永住を考えはじめる。「牛は肥えているし、この緑のすばらしさはなんともいえませんなあ。インドと違って米だって果物だって、何だって、ちょっと工夫すれば、まだまだ収穫はのぞめますなあ」

で、私はどうかといえば、行く前に読んだ早島鏡正博士の一文に、とにかくスリランカの人たちは、底抜けに明るく、生きものすべてが光り輝いている。これは、2千年余りかかって培った、仏教精神の具現である、といったことばが気になって、とにかく、生きものすべてに目を見はってみたんです。そしたら、ほんと、輝いているんだなあ。お経には、浄土の池には蓮があって、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光と説かれてあるけど、それに緑色緑光を加えてみたい気分。花々、動物、そして人・・・。

早島先生は、この明るさは、仏教精神、とくに不殺生の戒律を守りつづけたたまものであろうとおっしゃるが、なるほどなあ、とうなずける。生きものを殺さない。もののいのちを大切にする。体にとまった蚊も殺さない。タテマエや説教や理屈じゃなく、それが生活にとけ込んで、2千年余り、代々受け継がれてきて、はじめて生まれたのが、この顔。光顔巍々(こうげんぎぎ)とはこのことなんでしょうね。
「若ハン、負けたねー。2千年かかるっちゃ」と、門徒のおばちゃんは無邪気であります。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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無明に始まり 無明で終わる

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無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)-おしゃか様が菩提樹の下で、おさとりを開かれたその中身がこの12因縁だといわれています。コタツのおばあちゃんに聞いてみたら、「ムミョーというのと、生、老死というところだけ、ちょっとわかる。愛なんかわからん」という。

ムミョーって何ですか?
「だから、明るくないんでしょ。私みたいに、目はくらい、頭はうすい、智恵がない」
大当り!いや、失礼、そのォおばあちゃんだけでなくって、みんなそうなんだから気になさらなくてもいいんだけど、とにかく、その無明というのは、あなたのおっしゃる通りなんです。

で、行はどうかというと、その智恵のないまま行うわけで、うまくゆけないわなー。だから、その行いが認識され、色、香、味などの名色が生じ、眼、耳、鼻、舌、身、意という六根(ろっこん)が生まれ、その六根あるゆえに、感覚、知覚(触)が目覚め、この触(そく)によって、苦や楽や、不苦不楽を感受する。このあたりで愛がムクムク・・・といっても愛してるというようななまやさしいものでなくって、渇愛(かつあい)というか、ものすごい欲望がわいてくる。で、その欲から実際の行動をするんだから、これはもう、殺生、盗み、妄語(もうご)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)、綺語(きご)、邪婬(じゃいん)と、とどまるところをしらない。そしてその余力が存在(有)するかぎり、また新しい生を生み、ついてには、老死へ至り・・・で、もともと、無明から出発しているのだから、もとのもくあみ、無明へもどってまた迷いの流転(るてん)をくり返す―これが私たちの行く末、来し方だとおしゃか様がおっしゃる。

「なんとも、なさけない。あわれ無常の一生か-ナンマンダブ」
おばあちゃん、自分の行く末が見えたのか見えないのか、ちょっと悟った気分になって世の無常に、タメ念仏。

いや、タメ息つくのは私も同じだけど、そこでフイッと、ごまかすか、ごまかさんか、ここが大事なところなんです。どうせ私ら、生まれてきたんだから、死なにゃあならん。けど、それはハハハッ死んだらしまいじゃと、わからんままにごまかすか、生老死は世の常だけど、この私のこの一生、今日一日のこのいのちを、いかに精一杯生き切るか、ということに努力するか、しないか・・・このあたりに、人として生まれてきた私たちの人生の送り方の別れ道があるのかもしれませんね。

おしゃか様というお方は、そのあたりの現実の問題と、真っ向から取り組んで修行され、瞑想されて、お悟りをひらかれたんですね。そして、縁起の理法をあきらかにされ、生、老、死の悲しみ、苦しみ、おそれを乗り越えて、心豊かに生き、心豊かに死んでいかれたんですな。素晴らしいと思う。いや私らが評価すべき、次元の問題じゃないが。というのは、なにしろこちらは、無明の凡夫でありながら、凡夫と気づかないばかりか、おしゃか様と同じ修行をするほどの根気はないし、悟りのすべてをお経によって聞かせていただいても、チカッと目が覚めるなんてこともないナマケモノですからね。そんな私に、気付けよ、目覚めよと、働いて下さっておるのがこれまた、阿弥陀如来という仏様なんだけど・・・このへんの話は本堂でしたほうがよさそうだ、おばあちゃん、行こか?
「若ハン、外は雪やぜ、本堂は寒い」
ん?!


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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みんな、みんなご縁です

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縁起というのは、きっかけとか、かくぁり合いとか、条件とかいった意味のことで、すべてのものは、たった一つで、コロンとあるのではなくて、いろいろなものがかかわり合って、存在している。条件がそろったら、どのように変わるかもしれない。で、それはだれが動かしているかというと、神さまでも仏さまでもない。あるがままに、かかわり合って生起している、それがすべてのものの存在の原理だと、おしゃか様がおっしゃる。

例えば、おばあちゃん、ほれ、この急須と湯呑茶わん、いいでしょ。わたしがつくったの、最近のは水切りもよくて、評判もいいんだよ。
「ほりゃ、若ハンの焼き物自慢がはじまった」
と、コタツのおばあちゃん、クスリと笑う。いや、今日は違うの。だから、例えばの話ですよ、この茶わん、何から出来たか知ってるでしょ。そう、土から生まれたのよね。たまたま、近くの陶芸センターで、粘土を買って、コネコネやって、また、センターで焼いてもらったわけ。ところで、わたしの買った粘土の隣の粘土はどうなったかなあ。ひょっとしたら、老人クラブの趣味の会の方へいって、ぐい呑みか、灰皿になっているかもしれない。そのまた隣の・・・いや、センターのオケに入らなかった山の粘土は、まだそのまま、山の土のままのはず。いや、これもどこかの陶芸家がヒョイとすくって、何百万の大作をこしらえたかもしれない。
「ハハハ、若ハンのとこへきた粘土が一番かわいそう!」
ちょっと、そら、いいすぎだよ。でもね、これがご縁なんだな。私のヘナチョコ茶わんと、老人クラブのぐい吞みと、陶芸家の芸術作品は、皆同じ粘土-つまり前世は、兄弟なんです。

で、この茶わんになったときが、私たちの人として生まれて生きているときと同じなのでありまして、これが、いつこわれるか、というと、今日とも知らず、明日とも知らず。いや、評判悪くて、だれも使わなかったら、200年、300年、1000年もつかもしれん。そうなったら、国宝もの・・・かも知れない。

で、結局、生あるものは必ず死に帰すわけだから、茶わんもわれて、粉々になって、土に帰って、今度はセメントの材料にでもなって、どこかのビルに生まれ変わるかもしれない。そう考えると、面白いね「世界はみな兄弟」はほんとだね。人類だけじゃない。みんな兄弟!

ところが、残念ながら、そうはすんなりいかない。展望台に立って景色をながめるように、生々流転のありさまが、この私にわかるかといえば、私も、この茶わんと同じで、自分がどこからやってきたのか、わからない。どこへゆくのかもわからない。

ついでにいっておくと、さっきおばあちゃん、私のところへきた粘土が一番かわいそうなんて冗談いってたけど、ものの値打ちなんてものは、人間の煩悩できまるもんだから、あてにはならんのよ。いや、これはちょっと、弁解みたい。煩悩の話はまたあらためて。

で、縁起でありますが、この茶わんをみるにつけても、山の土が、粘土になって、ひねられて、焼かれて、形ができて、使われて、よろこばれたり、いらないものにされたりして、欠けて、こわれて、捨てられて、また土にもどり、河を流れ・・・みんあみんな、ご縁なんですね。見えないけれど、私たちもまた同じように、縁起の中にあるんだなあ。焼かれにゃわからんのかも知れんけどさあ。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

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すべてありのままに生じる

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縁起というのは、かついだり祝ったりするものじゃなくって、縁によって生ずるという因果の道理そのもののことでありまして、ウリのつるにはナスビはならん。そういえば、おもしろいお経がありましてね、「仏説稲芋経」という。イネやらイモやらのことが説いてあるみたいで、富山のコシヒカリにも関係あるかと思ってちょっとひらいてみたんです。

「かくの如くわれ聞きぬ。あるとき、おしゃか様が、王舎城で多くのお弟子達を前にしてこんなことをおっしゃった」
という決まり文句からはじまって、おしゃか様のさとりの根源がのべられてある。
「因あり。縁あり。これを因縁法と名づく。この法はすべての存在のあり方であって、この法をみるものは、仏をみる」
このあと、例を引いてこの道理を説明してくださっているんです。
「例えば、稲の種モミはよく芽を生じ、芽はよく葉を生じ、葉より節、節より茎、茎より穂、穂より花、花より実を生ず」
当たり前のことですな。その通りですよね。で、次にね、もし種モミがなかったら、どうなるかっていわれる。これももう知れたこと。種モミがなかったら、芽もなく葉もなく、節もなく、茎も穂も花も実もならない。このあたりになると、こたつでコックリのおばあちゃんもうなずいて、「そうそう、その通り」と相づちを打つ。

さあ、そこで大事なことだけど、この種モミは「よーし、大きくなって芽になるぞ」と思うだろうか?葉が「節になりたい」とか穂が「花を咲かせたい」とか思いますかね。そんなこと聞かんでもわかってるという顔をしている、でしょ。なのに、種モミは順々に成長して、穂になってゆく。いったい、だれがそうさせるのだろうか?
「そら、若ハン、神や仏のおかげでしょうが」
困ったな。お経にはそうは説いてない。土や水や、太陽や、風や時節が縁となって稲は育つと書いてある。
「そうそう、その土や水の神さん!」
いや、だから、その土や水や風だって、すべて因縁生で、我というものがないんだです。ですから、この種モミを育ててやろうとか、あっちの種モミは育ててやらないとか、そんなこと、ちっとも思っていないのよ。お経には、すべてがありのままに、因と縁によって生じたもの(人を含めて)であって、自在天-つまり、おばあちゃんのいう神さまね、そういう方が、この世のすべてを創造されたのではない、と、おしゃか様はおっしゃているんでんです。おわかりですか?ことばが足りないけれど、これが因果の道理というものなんですよ。

だからね、早い話が、神社の鈴鳴らしても景気はよくならんし、交通安全のお札をもらったって事故がなくなったりするわけない。それに、どこやらでお百度参りしたら入学やら就職やらがうまくゆくなんてことあるわけない。みんな因果の道理に反するでしょ。それから日を選ぶというの、あれもいけませんなあ。今日という日は、私にとってもう二度と戻らない日でしょ。それをなにやら、仏滅や友引や大安やとやっている。昭和のはじめにあれ一度禁止されたはずなんだけど、近ごろは、かしこそうな人まであれをかついで、今日は日が悪い、なんてやってる。どうして、ああいうことになるのかねーことしゃ春から、なんとなく、ハラ立つなー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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