みんな逆さま 逆転めがね

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京都でお坊さんの研修会がありまして、そのとき心理学の先生が、おもしろいものを持ってこられましてね、「逆転めがね」というんです。これをかけると、とにかく上と下が逆さまに見えるというんです。
「かけてみませんか?」
おもしろそうなので、ハイハイと手をあげて、かけさせてもらったんです。
「わあーッ!」
いやあもうたいへんであります。とにかくなにもかもが逆さまで、床と天井がひっくり返っている。歩こうにも一歩も動けない状態です。
「はい、この鉛筆をどうぞ」
どうぞといわれても、その鉛筆がつかめない。何度か空振りを繰り返して、やっと手にすると、
「さあ、あなたのお名前を・・・」
もうどうにもなりません。一生懸命頭を働かせて、自分の名前を書こうとするんですけど、どうにもならない。しばらくかけていると頭が痛くなって、やっとその逆転めがねをはずさせてもらったんですが、字を見ると、これはもう赤ちゃんよりひどい、裏返しになったり、上下ころんだり、ナンノコッチャさっぱりわからんものでした。

で、先生のお話を聞いてみると、このめがね、一週間もかけていると、ちゃんと慣れてきて、歩いたり、食事をしたり、字を書いたりも出来るようになるとのこと。いや、もうけっこうです、と逃げたんですが、じつは、わたしたち、生まれたときは、どうやら、この逆転めがねでものを見るのと同じように見えていたんだそうです。それを、まわりのものがいろいろ教えて、逆さまが、まともに見えるようになってきたんだというんです。つまり、人は、育てる側によって育つわけで、見ることも、聞くことも、動くこともみなすべて、育てる側によるのだとおっしゃる。

そういえば、あのインドの狼少女、アマラとカマラだって、生まれたときから狼に育てられたので、二本足で歩けないし、昼より夜のほうが目が見えたし、人間の言葉などまるでわからなかったわけです。

いやなにも遠いインドの話だけではないわけで、ほら、あなたがしゃべっているその言葉、富山弁でしょ。「ちゃあ、ちゃあ」っていうでしょ。それだって自分で考えだした方言じゃないでしょ。まわりが「そいがやっちゃ、そうやっちゃあ」といっていたからそうなったわけ。笑い顔だって、くしゃみの仕方だって、ハナのすすり方だって、ちゃんと育てる側に似てくるんですよね。

まあ、そう考えてみると、二本の足で歩けるのも、日本の言葉がしゃべれるのも、なにもかも、お育てあればこそ・・・と喜ばねばならんわけですが、これがなかなか喜べない。そんなこと当たり前としか思っていない。恩知らずの畜生ですなあ。

しかし、まあ、いまいった逆転めがねねえ。私らはもうちゃんと左右上下きちんとまともに見えていると思っているけど、仏さまがごらんになると、これがまた、逆さまだとおっしゃってる。おのれの欲望だけを考えて、他人のことは考えない逆さま。おのれの人生を見つめずして、今日一日のことに明け暮れる逆さま。おかげさまよりおカネさまという逆さま。足ることを知らず、もうちょっともうちょっととむさぼる逆さま・・・。いっぺん仏さまのめがねをかけて自分を見直さんといけませんなあ。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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