ジャータカ物語」カテゴリーアーカイブ

お月さまのうさぎ

むかしむかし、おしゃかさまは、うさぎとしてお生まれになりました。おしゃかさまのうさぎは、近くに住むサルやおおかみやカワウソたちと仲良く暮らしていました。そして、「ほとけさまのお弟子は困っている人を助けなければならない。だから、みんな乞食がきたら食べ物をあげよう」と話し合っていました。
 
ある日のことです。カワウソが川岸へゆくと、砂の中から魚の匂いがします。「おーい、これは誰の魚ですか」と大声でたずねましたが、持ち主はあらわれません。カワウソは砂の中から魚を掘り出しておうちへ持って帰りました。
 
同じ日、おおかみが獲物を探しに出かけました。たんぼの小屋で肉とトカゲ一匹とツボに入ったヨーグルトをみつけました。「おーい、持ち主はいませんか」と大声で叫びましたが、誰も出て来ません。オオカミは肉やトカゲなどをおうちへ持って帰りました。その日、さるも食べ物を探しに森へ出かけ、マンゴーの実をたくさん見つけたので、おうちへ持って帰りました。
 
同じ日、うさぎも食べ物を探しに出かけ、大好きな草を食べました。しかし、ウサギは考えました。
「私が草を取ってあげても、人間は草を食べられない。だけど、私は人間が食べるお米やゴマは持っていなしし・・・。乞食が来た時、どうしたらいいのかなぁ」
 
四匹の動物の心は、インドラという名の神さまにとどきました。インドラは乞食にばけて、まずカワウソとサルとオオカミの家にゆきました。カワウソたちはみな乞食を見て、「私の食べ物をさしあげます」と言いました。
 
最後に乞食はウサギの家にゆきました。うさぎは、
「私は差し上げられる食べ物を持っていません。そのかわり、私の体の焼けたところを食べて下さい」
と言ってタキギをつんで火をつけその中に飛び込みました。しかし不思議なことに火はちっとも熱くありません。うさぎの体も焼けません。そのとき乞食は言いました。
「じつは私はインドラなのだよ。お前の姿をお月さまに書いて、すばらしいお前の心を世界中に教えよう」
お月さまをごらんなさい。うさぎがもちをついています。
(ジャータカのえほんより/自照社出版)

藤井 友梨香(ふじい ゆりか)
ガラス作家、七宝焼きの特殊技法「ガラス胎有線七宝」で制作。1986年、山口県生まれ神奈川県育ち。女子美術大学ガラスコースを卒業後、彩グラススタジオ、富山ガラス工房に勤務。その後、アメリカやカナダの作家のもとで勉強。2015年、富山市ガラス美術館に作品4点を収蔵。毎年個展、グループ展に多数出品。現在、神奈川県の自宅にて制作をしている。
公式サイト http://yurikafujii.com
Instagram https://www.instagram.com/yurika_fujii/

しかの王さまニグローダ

ニグローダは、金いろにかがやくしかの王さまでした。
そのころ、みやこの王さまは、しかの肉がたべたいので、こくみんにしごとをやめさせ、まいにちしかがりをさせていました。こくみんはみなこまりました。そしてしかたなく、しかがつかまえやすいように、えさでかこいの中へさそいいれていました。そのしかを王さまはまいにち1とうずつたべていたのです。
 
しかたちは、いつじぶんのじゅんばんがくるかわからないので、おそろしくてあさからばんまでふるえていました。よるもねむれません。ただ、金いろのしかだけは、王さまもたいせつにし、弓矢をむけませんでした。そのうちにしかたちはそうだんし、じゅんばんをきめて、首切り台にあがることにしました。ころされる日まではあんしんだからです。
 
ある日、おなかに赤ちゃんをもっためすじかのじゅんばんになりました。
「どうか赤ちゃんを生んでからのじゅんばんにしてください」
めすじかはなかまたちにたのみましたが、だれもじゅんばんをかわってくれません。そのとき、ニグローダがすすみ出て、首切り台にじぶんの首をおきました。王さまはニグローダのこころにたいへんかんしんしました。そして、それからのちは、すべてのどうぶつをころすことをやめ、人も、どうぶつやとりたちも、みんなへいわにたのしくくらすようになりました。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)


仏教では、6つの修業方法(六波羅蜜)のひとつに「布施(ふせ)」があります。布施とは、見返りを求めずに相手の利益になるように分け与えることをいい、その究極が自らを差し出す行為でしょう。ジャータカ物語には同様の物語がたくさんあります。あまりにも現実離れしたお話に、どのように受け取ればよいのか戸惑いますが、仏さまの行いをとおして我が身の在り方を問うご縁にしたいものです。


藤井 友梨香(ふじい ゆりか)
ガラス作家、七宝焼きの特殊技法「ガラス胎有線七宝」で制作。1986年、山口県生まれ神奈川県育ち。女子美術大学ガラスコースを卒業後、彩グラススタジオ、富山ガラス工房に勤務。その後、アメリカやカナダの作家のもとで勉強。2015年、富山市ガラス美術館に作品4点を収蔵。毎年個展、グループ展に多数出品。現在、神奈川県の自宅にて制作をしている。
公式サイト http://yurikafujii.com
Instagram https://www.instagram.com/yurika_fujii/

うずらとあみ

むかしむかし、おしゃかさまは、うずらとしてお生まれになり、森でたくさんのなかまとくらしていました。
 
そのちかくの村には、うずらとりのおとこがすんでいました。おとこは、うずらのなきごえのまねがとてもじょうずです。おとこがうずらのなきごえを出すと、うずらたちがあつまってきます。おとこは、あみをかけて、いちどにたくさんのうずらをとるのです。おとこはそれを売ってくらしていました。
 
あるとき、おしゃかさまのうずらが、ほかのうずらたちにいいました。
「このままでは、ぼくらはみなごろしになってしまう。こうしたらどうだろう。このつぎ、ぼくたちの上にあみがなげられたら、みんなであみの目に頭をいれて、いっせいにとびあがり、いばらのやぶにあみをすてるんだ」。
 
あくる日、うずらたちの上にあみがなげかけられたとき、うずらたちはあみの目に頭を入れて、いっせいにとびあがり、あみをいばらのやぶにひっかかったやぶにすてました。おとこはいばらのやぶにひっかかったあみをとりはずすのに、じかんがかかるばかりです。
 
そのごも、まいにち、まいにち、おなじことがくりかえされ、うずらは1羽もとれません。おとこは「あなたはまじめにはたらいているのですか」と、おくさんにしかられてしまいました。
 
うずらとりのおとこは、かんがえました。
「いま、うずらたちは、みんななかよしだ。しかし、そのうちに、けんかをはじめるにちがいない。」
おとこがかんがえたとおり、なん日かのちに、一羽のうずらがえさをひろおうとして、ほかのうずらの頭をふんでしまいました。ふんだほうのうずらは「ごめん、ごめん」とあやまりましたが、ふまれたほうのうずらはゆるしません。とうとう、けんかになってしまいました。おしゃかさまのうずらは、「けんかをしていると、しあわせがにげて、くるしみがやってくる。みんなあみにつかまって、死んでしまうかもしれない」としんぱいしました。
 
4、5日のち、おとこはうずらのこえのまねをし、うずらたちがたくさんあつまったところへあみをなげました。あみの下になったうずらたちの中の1羽が、となりのうずらにいいました。「きみがうごいたので、ぼくの頭の毛がぬけた。あみは、きみがもちあげろ。」となりのうずらがいいかえしました。「ぼくは羽の毛がぬけた。きみがあみをもちあげろ。」いいあっているうちに、うずらたちは1羽のこらず、とらえられてしまいました。おしゃかさまのうずらは、あみの下にはいませんでした。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)

お釈迦さまの前世の物語「ジャータカ」に収めらた物語です。このお話を元に色絵磁器作家の梅田かん子さんは作品を制作されました。このお話を選んだ理由はエンディングにあるそうです。通常の物語では勧善懲悪やハッピーエンドのオチをつけて終わりますが、ここでは、プツっと途切れるように物語は終わり、しかも一見お釈迦さまのウズラはとても冷たい印象を与えます。でも、梅田さんはそこにお釈迦さまの深い愛情を汲み取っておられました。

ご自分の子育てと重ね合わせて見た時、親はついつい子供に対して、「〇〇はしちゃだめ!そんなことしたら〇〇するよ!」と、脅し交じりの言葉を言ってしまいます。でも、それはその場しのぎの言葉であって、結局はすべての面倒を見てしまうのが親心。でも、お釈迦さまは、そこを見極められて「諦める」道を選びます。「諦める」とは、物事を「あきらかに見る」ことで、ただ見捨てることではありません。しっかりと忠告した上で、それでも同じ過ちを繰り返してしまう姿を見極めて、その場を離れました。痛みを感じながらも離れる決断力と深い愛情。そこに梅田さんは注目されています。作品は、網にかかった仲間たちと、そこを離れたお釈迦さまの2枚1組になっています。


梅田 かん子(うめだ かんこ)   
色絵磁器作家。1979年、高岡市生まれ。金城短期大学美術科を卒業後、九谷焼作家・松本佐一氏に師事。その後石川県立九谷焼技術研修所を経て、地元・高岡に工房を築く。2009年「めし碗グランプリ磁器部門」最優秀賞をはじめ、「工芸都市高岡クラフト展」や「朝日現代クラフト展」などでも数々の賞を受賞。
https://kankoumeda.jimdo.com