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他力回向のお念仏/利井興弘

このテキストは昭和61年、本堂修復落慶法要の記念講演(寺報38号掲載)です。

行信教校々長 利井興弘師

 本日はおめでたい法座でございまして、由緒ある善巧寺が美しく荘厳されまして、檀家の方々もお喜びのことでございましょう。
 さて今日の話は、あなた方が間違いなくお浄土に参れるという話でございます。
 どうして参れるかといえば、如来さまが南無阿弥陀仏のお名号の中に、この私が浄土に参れるすべてを仕上げてられるからであります。
 これを他力回向と申しますが、これには三つありまして、一つには往還(おうげん)の回向、二つには行信の回向、三つには因果回向。
 まず往還回向ですが、これは往相(おうそう)、還相(げんそう)と申しまして、永遠性です。お浄土へ参ったものは、また迷いの世界へ返ってきて、縁なきものを救うというはたらきをさせていただくことができるのであります。これはつまり弥陀同体、仏さまと同じ姿になれるといういわれであります。
 二つには行信の回向です。これは主体性の問題でありまして、親鸞聖人が仏になられたと、蓮如上人が仏になられたと、ほかの人を見ていてもどうにもならないのです。大事なのはあなた、私です。
 このわたしが仏にならねば何にもならない。で、その、行と信はすべて蓮如さまが仕上げたぞ、行信こめた名号をうけとれようとおっしゃるのでございます。
 そして三つ目に、因果の回向。これは完全性とでも申しましょうか。まちがいないということであります。仏になれる因も果も間違いなく仕上がっておるのが浄土真宗のおいわれであります。
 そこで、合わせて考えてみますと往還回向のかぎりないいのちと智恵をいただいて、行信回向のこのわたしが、因果回向、つまりはまちがいなく仏の世界にうまれさせていただくという、これが他力の回向ということでありまして、その他力の回向がどこに仕上がってあるかといえば、南無阿弥陀仏のお六字の中にこめられてあるわけでございます。
 そこで、あなた方が口にとなえるお念仏はナンマンダブ~~。一つには、かぎりないいのちがいただける。ナンマンダブ~~。二つには、この私が仏にならせていただける。ナンマンダブ~~。そして三つには、間違いなく浄土に参らせていただける。
 仏のいのちの全体が、他力の回向として与えられるのであります。
 ですから、日々の生活の中で、あなた方がとなえるところのお念仏は、晩か、あるいは寝てもさめてもか、はたまた、うれしいにつけ、かなしいにつけ、といろいろあろうかと思いますが、気がついたとき、いつでもいいと書いてあるから、思い出したらナンマンダブ~~ととなえつつ、いま申しました他力回向の三つの味わいをかみしめかみしめ、よろこんでいただければ、これにすぎたしあわせはないわけでございます。

凡夫直入/利井興弘

このテキストは、昭和59年に寺報(33号)に掲載したものです。

 行信教校々長 利井興弘師

 ご開山聖人から受けたご恩は、いったい何であろうか、ということをうかがわせていただくと、三代覚如上人、八代蓮如上人が声をそろえて、「凡夫直入(ぼんぶじきにゅう)の信心を決定なされた」といわれる。
 そこで、凡夫というにはいかなるものかといえば、畏怖心の去らぬもの、恐れおののく気持ちがなくならぬものであります。生きてゆく上におそれはある。他人に悪口言われることもおそれになる。そのうちにいのちなくなるおそれも出てくる。そこで最後には、悪いところへ行くんじゃなかろうかと、こういう気持ちがわいてくるのが凡夫というものであります。
 その凡夫が直ちに入る_ただちに間違いなく浄土に生まれることができる、とおっしゃる。このいわれはどうかといえば、如来のおさとりは光明無量の智恵の目で私たちをご覧あそばすとき、あわれなる凡夫の私は六道をへめぐって、この世終われどもいいところへゆけるわけじゃあない。因果の道理からいっても、やはり迷いの世界へゆかねばならない。そこで、そうした迷いの凡夫を、なんとしてでも救わねばならぬと、智恵のむずかしさを慈悲のやさしさにかえてはたらいて下さるのが救いの親さま、仏様であります。
 つまり、仏様がわたしのために働いて下さる。私のお浄土まいりのタネをお慈悲の六字の名号に仕上げてあたえて下さる。ことばかえれば、わたしの法蔵菩蕯、私の阿弥陀如来、私の南無阿弥陀仏と、全部私にかかって下さるわけであります。
 そこで、この、間違いなく助かるというところのいわれを、浄土真宗では「横超(おうちょう)の直道(じきどう)」といいます。これは、たとえば、このお寺へ入るのに、表からはいっても善巧寺、横からはいっても本堂へ来られる。そこで浄土真宗は、お経の中をみてみますと、表から歩いてコツコツ階段をのぼるようにまいるお浄土ではなくて、仏様の南無阿弥陀仏に乗せられて南無阿弥陀仏があなたの仏だねとなって、そこで、心配なし、案ずることはいらん、必ず仏となれるところのいわれができ上がってあるというのが南無阿弥陀仏です。 
 さて、そこで、このお六字が、あなたをどうするかといえば、寿命無量(じゅみょうむりょう)、光明無量(こうみょうむりょう)_限りないいのちと、限りない智恵をあなたにもたらして下さる。で、そのタネはといえば、南無阿弥陀仏にはないんだというのが仏様のお心なんです。
 では、そういうお心が、どういうところから出てくるかといえば「願」_ねがいです。この願いというのは、どういうものかというと、方向を転ずるもの、であります。わかりやすくいうならば、おばあちゃんが孫連れて外に出た。踏切りで、しゃ断機が降りてきたところへ、孫がヒョイとつかまって、足をぶらぶらさせているとなると、どうですか。危ない!とおばあちゃん思いますよねえ。なんとかしなければととっさに思うでしょう。それが「願」なんです。
 だから本願の名号と申しますけれども、どう味わったらいいかといえば、仏さまの大きな大きな願い、つまり、凡夫の私たちの迷いの世界から、悟りの世界へと方向を転じなければ、危ない!という願いなんです。
 で、その願いは、願いだけでは思いだけ。やはりこれは、力となって、先程のおばあちゃんでも、孫のところへ飛んで行って、抱きかかえて、引っぱってくるでしょう。これを「願力」という。
 願力というのはこういうものでして、仏様のお心は、迷いの世界へやってはならんという願いの全体が、南無阿弥陀仏という力となって流れているのであります。
 そこでね、これは大事なところだけれども、わたしたちは昔から仏様は、こいよこいよと呼んでおられるという話は聞いたけれどもどうですか、読んでくださった声をすなおにハイと聞くことできたかな。
 ご開山のお聖教を読ませていただくと、もちろん「招く」とは書いてある。しかし、その次に「引く」と書いておられる。つまり、おいでおいでと招いても、顔をそむけているものはこっちを向きませんから、そこで仏様は近寄って、招くんじゃなくて引っ張るとおっしゃってある。
 仏様から言えば引っぱる、われわれから言えば引っぱられる、そのつながりはどこにあるかといえば、それはあなたがたがとなえるお念仏となっているのであります。お念仏は、あなたをお浄土へ引っぱる力なんですよ。
 「仏、衆生の口を口として念仏を広めたまう」_こういう言葉がございますが、称える口はあなたの口、その口が仏の口となっておるという、つまり、称えるままが、称えささずにはおかぬという仏の口から流れてきておるおいわれだといただかねばならないのであります。 
 で、これがわかるならば、われわれが階段上がるようにまゐる世界じゃなくて「広大の異門」つまり南無阿弥陀仏に乗せられてまいるんです。ちがった門と書いてある。だから因果の道理からいえば、私が願を起こし行をつかんで信をえてから上がるのが道でありますが、お念仏の道はどこかといえば、仏様の世界へ歩む力があるかといえば目もなく、足もない。そのわたしの目となり、足となってくだなるのが仏様であります。だから案ずることはいらぬ、仏は必ず救うという、言葉だけではなくて、それが実際あなたの上に動いて、称えさせて、聞かせて、安心させてくださるのが南無阿弥陀仏の働きなのであります。

明教院僧鎔語録を味わう

このテキストは、昭和60年、空華忌の法話を寺報(34号、35号)に掲載したものです。

小さいことは気がつくが

行信教校々長 利井興弘師

 僧鎔(一七二三・一七八三)本願寺派空華学轍の祖。名は慶叟。字は子練、甘露室、空華盧、雪山と号した。
 越中・水橋の農家に生まれ、幼名を渡辺興三吉と称した。十一歳で上京・明光寺の霊潭師につき、二十一歳で善巧寺の法嗣。京都・学林にて僧樸師の門人となり、のち自坊にを設けて学僧を教育、その門弟は全国三千人に及ぶといわれる。天明三年六十一歳で入寂。明教院と謚号される。

空華語録
三業作罪の凡夫なれども、信を得たるしるしには、貧瞋の下より仏恩を思いつかせたまう。妄念おこらば、サテサテあさましきことなり、且つ恥じ、且つ喜ぶべし。仏の御慈悲へ、たちもどりたちもどりして証名相続するべきことなり。
-正信念仏偈聞書より-

 このたびは、明教院僧鎔師のお祥月命日、空華忌のご縁でございますが、ご当山におかれましては本堂大屋根修復という、大変な事業をかかえられ、皆様にも本当にご苦労を願ったようでございます。
 工事の記録をビデオで見せていただきましたが、内部の木材がずいぶん腐っておりましたし、工事そのものも大掛かりなものでありまして、門徒の方々には大変なご懇念を運ばれたものと思い、心からお礼を申し上げなばなりません。
 しかし、まあ、その時に、私の二男であります若院と法輪寺さんが、天井から落ちたらしゅうございますね。あの時、丁度、私と長男とそれからここの若院と、親子三人で、広島で講演をすることになっておりまして、ダメかと思っておりましたら、松葉杖をつきましてやってきてくれました。
聞きに来た人たちも、それを見て、大変なことでございましたといいながらよろこんでくれたわけでございまして、そんな人たちからも、ご懇志が届けられておるようでございまして、有難いことでございます。
 でも、やっぱり、人間の建てたものは、くずれゆくわけでございます。手入れをしなくては持たない、と口で言えば簡単なことではありますが、いただきましたご懇志は決して無駄には使われてないということがよくよくわかる、りっぱな工事が成されたんだということを共によろこばせていただきたいと思います。
 さて、そこで、今日は空華忌でございますから、ここに空華先師、明教院僧鎔のお言葉(上掲)をいただきまして、味わってみたいと思います。で、まず、

 三業作罪の凡夫なれども

と申されてある。三業(さんごう)とは身と口と意(心)でありますが、この三つの罪を作りつつあるのが私たちの姿でございます。で、そのときに、はっきり申しますけれどもおそろしいとも感じれば、あさましいものかとも感じないで、うかうかと暮らしているのが私たちの生活でございます。
 そうですね。私たちは小さなことはよく気がつくんです。障子が破れているとか、あそこのカギがはずれてるとか……ね。ところが、大きな仏様のご恩というようなもにはなかなか気がつかないものでございます。
 これについて、名高い話がありますが、明治の時代に「舟」と名のつく偉い人が三人ありました。岡山鉄舟、勝海舟、高橋泥舟の三人ですが、その中の高橋泥舟が、岡山鉄舟のことを書いているんですが、それを読んで、しみじみと三業作罪の凡夫なれどもというお言葉が身にしみるのでございます。
それはどういうものかと申しますと、岡山鉄舟という剣道の達人が、愛知県の三河へ潮干狩りに行ったんです。土地の知人の豪族に便りをもらって、お弟子を連れて出かけたんです。
 で、あちらの潮干狩りというのはちょっと変わっていて、潮の引いた海辺へ、夜に出てゆきましてひざの下あたりのところまで、松明を持って入ってゆくんです。そしたら、その松明—たいまつの火に魚が寄ってくる。これを網で掬うんだそうです。 

信がうけとりにくいのはなぜか

 明教院僧鎔師のお祥月、空華忌でございますので、その僧鎔師のありがたい法語を味わってみるわけですが、「三業作罪の凡夫なれども」という言葉に続いて

信をえたるしるしには、貧瞋の下より仏恩を思いつかせたまう

とあります。今日はここのところをいただいてみましょう。
で、浄土真宗におきましては、大事なことはまずこの「信」でございます。ところがこの「信」というものがなかなかうけとりにくいようでありますが、これはどうしてかと申しますと、まず一つには、罪悪に目をつけて往生を疑うわけであります。つまり、こんなあさましい生活をしているのだから、助かることはないんじゃないか、とこう思うんですね。
 この間違いはどこかと申しますと、私のあさましい生活の全体を知り抜いての上ですくうのが仏のお慈悲でございますから、私がきれいになって救われるのではない。きれいになれない私を知り抜いてお立ち上がり下さったのが仏様だとうけとらねばなりません。
 仏様のお心は、「あわれむ」であります。私たちをご覧になって、かわいそうだ、とおっしゃる。どうしてかといえば、罪を作らずに生きてゆけないのが私たちの姿なんですね。
 例えば、お釈迦如来さまのご一生は、不殺生。ものの命をとらないということで一貫しておりますけれども、私たちはそうはゆかない。虫も殺さぬ顔をして、虫を殺しております。それも、当たり前のこととして。そして、その当たり前を許してしまっておりますから、自分の罪悪に気がつかない。それが、お寺にお参りになると、それも罪だと聞かされる。するとその罪悪が気にかかって、こんな私では助からないだろう、と往生を疑うようになるんです。
 一方、仏様はといえば、その罪をごらんになって、かわいそうだけれども、それはお前がいくらがんばってもやめることも消すこともできはしないのだとおっしゃる。その消すこともやめることもできない私たちにむかって、おこされたのが仏様のお慈悲です。
 この慈悲という言葉は、もとは「うめく」という意味だったようです。お慈悲といえば、やさしく、あたたかく、やわらかいものと思っていますが、仏様は、うめいておられるのであります。こんな私だから、ではなくそんなお前だから助けずにはおかぬとうめいておられるのが、仏様のお慈悲なのでございます。
 さて、仏様の信=まことの心がなかなか、うけとりにくい原因の第二はと申しますと、仏祖に親しみがうすい、というのであります。
 世の中の事なら、好きなものには何にでもひっかかる。恥ずかしい話だが、私は、花や野菜をつくるのが好きなんです。かといって、一日中、それにかかわることはできませんで、本を読んだり、原稿を書いたりいたします。で、どちらが好きか、といわれたら、原稿より花なんですね。
 まあ、私たちはだれでも、好きなものほどひかれるわけですね。ですから、あなた方にしても、仏さまの前へ出るのが好きか、茶の間のテレビの前が好きかと言われれば、やっぱり茶の間のテレビということになる。
 で、そこで、だんだん、好きな方が多くなって、仏さまの前へ出ることがだんだん少なくなる。それをフト思うと、こんな私では助からないのではなかろうか、ということになるんです。
 うちの寺には全国から若い学僧が集まってきておりまして、二百年前のこの善巧寺の空華盧のように、勉強しているのですが、その学僧たちが朝は必ず、七時におつとめをいたします。皆がきちんとまいるかといえば、なかなか出てこんやつもいる。そんなとき、私の祖父の鮮妙がいったそうですが、

「お前、朝の勤行に出るようにしなさいや」

すると、若いのが、

「私は早起きすると頭がボーッとして一日中すぐれません。ですから、ゆっくり寝て、日中勉強にはげんでいます。」

そこで鮮妙が、

「お前は朝の勤行をどういうのか知っとるか。おつとめというんじゃ。好きで仏様の前にまいるのならおつとめとは言わんつとめてまいるから、おつとめというんじゃ。だから、じゃまくさかろうが、つらかろうが、つとめてまいるようにせにゃならん。仏さまにすれば、そのつらい中から、ようこそ参ってくれたかや、とよろこばれる。好きではなかろうが、どうか、つとめて参るようにしてくれよ」

といったそうであります。
 仏祖に親しみがうすい私——好きで好きでたまらん。後生の一大事を解決して下さる仏様よという気になれば往生も間違いないと思えるが、今の私はなかなかそういう気持ちになれるものではございません。だから、助からん、救われない、と遠ざかってはいけません。やはり、つとめて参らせていただくように心掛けねばならないわけでございます。
 世間好きの仏法嫌いがわれわれの姿でございますが、そこを仏様は、世間嫌いの仏法好きになって参れよといわれるのではなくて、世間好きの気持ちの中から、お前が助かる道があるのだということに早く気がついて、よくよくつとめて聞いてくれよとおっしゃっているのであります。
 あくびまじりでとなえたお念仏にも力はあるぞ。片言となえたお念仏にも力はあるぞ。南無阿弥陀仏はそんな私に働いて下さっているのだと、いただかなくてはなりません。

聞思して遅慮することなかれ

このテキストは、昭和59年、空華忌の法話を寺報(49号、50号)に掲載した文章です。

行信教校々長 利井興弘師

誠なるかな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう) 聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ

これは親鸞聖人のお書きあそばされましたご本典の総序のご文のおことばでございますが、この聞思莫遅慮(もんしばくちりょ)ということばは、明教院僧鎔師も好まれたようで、遺墨としてみなさまのお手元にも届いているようでありますが、私のじいさん(勧学 利井鮮如師)もよく書いたようです。
 で、これからお話ししますことは私も非常に感銘が深いのでございまして、私のじいさんが生きておったときのことであります。当時日本で、だれが一番ありがたい人かということで、文部省が苦労したという話があるんです。なぜそんなことになったかといいますと、あなた方もよくご存知の、アインシュタインという相対性原理を解いた博士が、アメリカから日本へやってきたことがあるんです。そこで、アインシュタインがいったのが、日本で一番ありがたい人に合わせてほしい、と、こういったわけです。
 文部省も面くらった。原子論など物理のえらい先生ならだれだってすぐ挙げられるけれど、ありがたい人というと、なかなかわかるもんじゃあない。そこまでまあ、あちこち調べまわって、人にいろいろ聞いたところ、お東の先生でございますが、近角常観という方が一番ありがたいお方ということになった。
 そこで、アインシュタイン博士が近角先生と会われるわけですが、そのとき、アインシュタイン博士が何かを聞かれたかというと、
 「この世の中に神や仏はありますか」
ということでした。そしたら近角先生はそっけなく、
 「あなたのようなお偉いお方があると思われたらあるでしょう。ないと思われたらないでしょう。」と、こう答えた。博士も面くらったでしょうね。そこで、先生はつけくわえて、
 「日本にはこんな話がありますよ。」
といって、お婆捨て山の話をなさった。村の掟でお年寄りは村の中へ捨てねばならない。そこで自分のお母さんの背中に負って山へ登るわけでございます。そうすると、山の中、だんだん道がせまくなる。するとその道をまわるときに背中のお母さんが枝を折る。曲がり角へくるとまた枝を折る。そこで、むすこはたまりませんから、
 「お母さん、本当のことをいうけれども、村の掟でもうあんたは帰ることができんのです。どうか、枝を折るのはやめてほしい。道しるべこしらえたってだめなんです」とこういうと、母親が、
 「なにをいうとるか、わたしはもう帰れないことは知っているけれども、おまえが帰り道で迷ったならばたいへんなことになると、そう思って枝を折って道しるべをこしらえているんだよ」
というんですね。この話をしてから、博士、あなたは外国から日本までやってきて、神や仏がありますかと聞かれるけれど、あなたをこれまで育ててこられた方々のことを考えられたことがありますか。じっと考えてごらんなさいと近角先生がおっしゃると、アインシュタインが、
 「われ、日本に来て、初めて神を見たり」
といったという名高い話があります。
 で、この近角先生と私のじいの利井鮮妙が会ったときのことが二回あるんですが、そのときの話もまたありがたい話でございまして、それはですね、大阪の茨木という、私の町のとなりですね、まあここからいえば黒部というところですか。その茨木にお東の別院がある。そこへ近角先生が話に来られた。その時、先生が「この近くに利井という和上がいるらしいが、会ってみたい」といわれた。そこでまあ、近くでもあるし、人力車に乗って、うちまで来られた。そして初めて鮮妙に会うわけですが、お互いに自己紹介のあいさつがすむと、すぐに近角先生が聞かれたことが、
 「利井和上、親鸞聖人のお書きになったものの中で、どこが一番ありがたいと思いますか」ということでした。そしたら、鮮妙がいわく、
 「ご開山の書かれたもので、ここがありがたい、ここはありがたくないというところは一か所もございません。どこをいただいてもありがたい」
といいながら、じいさんは目をつむるようにしていった一言が、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ

でありました。今お話ししていても胸が痛くなる思いでありますが、そのご文を口にしたあと鮮妙は涙ポロポロと落として、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏。そしたら前にいた近角先生も同じように手を合わせて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二人向かいあって十分ほどお念仏していたようすです。
 そして、時間がきて、近角先生がお帰りになった。で、次の年、また先生がお越しになった。
 そこでまた、近角先生が顔を見合わすなり、
 「和上、ご開山の書かれたものの中で、どこが一番ありがたいと思われますか」
 そしたら鮮妙、答えは同じです。
 「ご開山の書かれたものでここはありがたい、ここはありがたくないというところは一か所もございません。みんなありがたい」
といって、また、

誠なるかや 摂取不捨の真言、超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ

と、総序のご文をとなえて、涙をポロポロこぼしながらお念仏。近角先生も手を合わせて一緒に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と泣いておられた。
 そのときの姿を、私は思うんです。日本で一番ありがたい人と言われた近角先生も、茨木別院へ講演に来られておられたんですから白衣に布袍、迎える鮮妙も一生涯俗服は着ませんでしたから白衣と布袍。その二人の老人が向かい合って、聞思して遅慮することなかれというご文を、かみしめかみしめて、二人が涙を流されたというようすを、私は忘れられないのでございます。
 ですから、あなた方の手元へ、明教院の筆による「聞思遅慮」という遺墨が渡っておるようですが、よくよくのご縁とよろこばせていただかねばなりません。
 このご文のおいわれをやさしく申しますと、「聞いた通り思えよ、二の足踏むんじゃない、首かしげるんじゃない」ということになる。ご開山の尊いお言葉でございまして、ご法義のおいわれは、平生お聞かせにあずかった通り、間違いないお助けというのは仏様のおはたきでありまして、あなた方の中から出てくるものじゃない。そのおたすけのおはたきは「誠なるかな」でありまして、誠というのは時代によって変わるものでもなく、場所によって変わるものでもない。本当の誠。その誠なるかな摂取不捨の真言、おさめとって捨てぬというところのおいわれでございます。
 それをご開山がもう一度、味わわれて、摂取不捨は、逃げるものをとらえるなりとおっしゃる。どういうことかといえば、私たちは仏の世界ではなくて、このシャバ世界が好きなんで、はっきりいうとお仏間よりも茶の間のほうが好きなのがわれわれの気持でしょう。それを追いかけてつかまえて下さるのが親さまであります。 
 そして、超世希有の正法__世に超える大きなおいわれ、われわれのソロバン勘定でわり出したものではなくて、仏さまが本当の智恵をしぼって、わたしのために慈悲とはたいて下さるんです。
 ですから、あなたがとなえるお念仏も、となえさせずにおかん、聞かさずにはおかん、助けずにはおけんのが仏さまのお心でございます。 
 そこで、考えてみますと、明教院僧鎔師がなくなられて二百年_この二百年、あなたがたにおばあさんもあったろう、大ばあさんもあったろう。ね、で、それを考えてみますと、浄土真宗の一番大事なところはここでございまして、第十七願は諸仏称名の願、わかりやすくいえば十方の仏方が聞いてくれよ聞いてくれよと私たちにたのまれるわけです。仏教といえば遠く離れた方のように考えますがそうじゃあない。あなたがたの身内のお方で、よく法を聞いたお方もたくさんあったわけですから、そのお方々はみんないま仏なんです。もっとはっきり申しますと、すわっている数は、いまこれだけですけど、そのあなた方の一人一人の後ろに横に、法を聞いて仏となったところのあなた方のお父さんお母さん、おじいさんおばあさんが、声をそろえて、この南無阿弥陀仏を聞いてくれよ、聞いてくれよとおっしゃっているんですよ。
 そこでわれわれが細々ながら、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏くり返しくり返しとなえるお念仏を、もう一度かみしめなおして、間違いなく凡夫直入、助からんものがお助けに会うのは、この南無阿弥陀仏より他にないということを、あなた方がお心の中からお受けとりあそばすならば、そこに浄土真宗の一番尊いおいわれがあるわけでございます。
 そこで聞思でございますから、聞くということ。聞くということは「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」とご開山がおっしゃる。ここはなかなかむずかしいところで、ご開山は疑い心がないとおっしゃる。が、あなた方は自分の心の中に相談するものだからもしか、ひょっと、出てくる。
 浄土真宗のおいわれはそうじゃあない。親が子供に心配したり首をふったりするようなものを与えますか。これ食べたら、あたりはせぬか。これ食べたら、腹こわしははせぬかというようなものを与える親がどこにありますか。ね、そこでこの疑いをすべてとりのぞいて仕上げて与えて下さるのが仏様なんです。親が信じたおいわれに安心することが疑い晴れた姿、それが聞こえたということなんでございます。
 そこで何を聞くかといえば仏願の生起本末__つまりは南無阿弥陀仏はどうしてできたかということをよく聞かねばならない。で、この願いというのは、方向を転ずるものであります。で、それを味わってみる。ご本願と一言で聞いていたけれども、じつは願というのは方向を変えるもの。それは、われわれが三悪道に行かねばならぬ身の上なのに、そこに仏さまの大きな力__私の力は落ちる力だけれども、落としはせぬぞという仏様の願い力によって救われてゆくのであります。 
 心配することはいらないんです。法然上人がいつもおっしゃったように、間違いなく往生すると思うてお念仏せよ、首ふることはいらんのよ、ふりむけて下さった親さまの南無阿弥陀仏よ、二の足踏むんじゃないぞ、どれだけご苦労が当て出来上がった南無阿弥陀仏かと、お聞かせにあずかったなら落ちるわたしが落ちられんわたしであったとわからせていただくわけです。
 どうか、この法要__二度も三度も会える法座じゃございません。私ももう七十四でございますからいくら考えても、次の二百五十回忌にはおるはずがない。それならば、この二百回忌の法要にあなた方が心の中へよくよく入れておかねばならんのは、聞思して遅慮することなかれ、聞いたまま思えよ二の足踏むなよ、首かしげるなよ_これが浄土真宗の生枠のおいわれだということにあなた方が安心してくださいますならば、明教院もさぞかしおよろこびになるだろうと思うわけでございます。

空華について

このテキストは、平成22年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(134号、135号)に掲載したものです。

利井唯明師

 皆さんこんばんは。ようこそのお参りです。この空華忌は明教院僧鎔和上の祥月命日に合わせての法要でございます。回忌でいいますと227回忌にあたります。僧鎔和上は空華蘆(くうげろ)と言って、ここで塾を開いておられまして、門弟三千人といわれる程の大きな学派になっております。そのお弟子さんには柔遠(にゅうおん)和上、道隠(どうおん)和上のお二方がおられます。京都の大谷本廟に行きますと、勧学峪という勧学のお墓がずらっと並んでいる所があります。

その一番真ん中に僧鎔和上と道隠和上のお墓が一体となって並んでいます。その両脇にずらっと勧学のお墓が並んでいるような形です。この並びは、会読の時の並び方で、問答するときの形式なんです。典儀(てんぎ)といわれる問答をさばいていく司会者のような人が真ん中におられて、両脇のお坊さんの一方が問いを出して、片方が答えていくのです。勧学峪の一番入口のところには、門番のように雪山家のお墓がございます。僧鎔和上が亡くなられた後、道隠和上は大阪のほうに行って塾を開いております。後に、大分、豊前に転居されていかれましたが、この大阪の塾からは松島善譲和上などがお出ましになりまして、この系統を堺空華といいます。一方の柔遠和上の方は、越中の方へ留まっておりまして、この空華蘆を引き継いで講義をされておりましたので、こちらの系統を越中空華といいます。どちらも僧鎔和上の学説を補い、また膨らませておりますから、言われていることの幅が広くなったというくらいに思って頂いたら結構かと思います。柔遠和上のお弟子さんは、行照(ぎょうしょう)というお方が出られまして、この方は今の岐阜県、美濃の行照さんといって空華蘆で学んだあとに岐阜にもどり、塾を開いております。僧鎔和上のお弟子さんは皆優秀ですから、戻った所で塾を開いていきます。その行照さんのお弟子さんにあたるのが、私から言いますと曾々爺さんにあたります鮮妙(せんみょう)さん、利井鮮妙でありまして、今私共がやっております行信教校の創設者の一人になるわけです。

 柔遠和上がこの越中で塾を開き沢山の門弟がおったわけですが、門弟のことを自分の弟子とは言われませんでした。「善巧寺にある僧鎔和上のお墓に参って、空華の学徒としてお弟子になりなさい」と言われました。ですから行信教校でも、3年に1回ここへ学徒が来るわけです。お墓参りをして空華のお弟子の一員に加えて頂く。お弟子といったら大層ですが、そういう経験がありまして、柔遠和上のお言葉が一つのご縁になっておるわけです。

 親鸞聖人も「歎異抄」の中で「私は弟子一人も持っておらん」とおっしゃったでしょ。あれと一緒ですな。私というものが弟子をとるというものでは決してない。「私は師匠の仰せに順っておるだけなんだ」そういう姿勢でしょうね。私が私がと言うているのが正しいかといったら、そうじゃなかった。そういうことで、この度、空華の里であります善巧寺様にご縁をいただきまして、私もその一人としてお話をさせて頂くわけです。

 他力ということが浄土真宗のひとつの大きな特徴であります。しかもこの他力という言葉について、大変奥深く研鑽して学説を立てていったのが空華学派になるわけですね。空華学派の特色としましては、他力というものは絶対他力といわれるようなものである。我々が日常で使う言葉で言いますと、自分の力以外のものの力を借りることを他力と考えますね。実をいうとそれは大きな間違いなのです。そのことを親鸞聖人は『教行信証』のなかでしっかりと言っておられるんですが、お弟子さんの中にはやはり大きな誤解をされていた方がたくさんおられたんです。
 法然聖人は選択本願念仏ということ仰り、それはいったいはどんなお念仏であったかといいますと、仏教を大きく分けますと、聖道門と浄土門とに分かれます。これは道綽禅師というお方が仰ってくださいました。その聖道門というのはどういった教えかと言いますと、この身このままこの土で悟りを開こうという教えです。此土入聖(しどにっしょう)の法門といわれます。それに対して浄土門というのはお浄土に生まれて証を開こうとするんですから、彼の土で証果を得る道ということで彼土得証(ひどとくしょう)といわれる法門があります。道綽禅師という方が今この末法のおいて、凡夫であるこの私は聖道門では決して悟りを開くことができないから、浄土門に帰依しなさいよとお示しくださったわけでございます。
 そして法然聖人はその浄土門においてどんな行いによって浄土に生まれていくのですかといった時に、雑行と正行とありますよと仰るわけです。雑行というのは雑と書いてありますが、まじっていると読むんです。まじりっけがあるということです。正というのは正しく往生浄土に向かう行ということです。どのように違うかといいますと、端的に言いますと、阿弥陀様に関係する行と阿弥陀様に関係のない行ということです。たとえばお経を読むことひとつにしましても、お経にはいろいろあります。般若心経であるとか法華経であるとか涅槃経であるとか、我々浄土真宗でいえば無量寿経であるとか観無量寿経であるとか阿弥陀経とかいろんなお経典があります。その中で阿弥陀経のお浄土に参るのに法華経読んでどないするのという話です。もちろん法華経の中にも阿弥陀様は出てまいります。しかしながらそれはお経全部を阿弥陀様の本願のこころを説かれておるのかという一部分なんですね。全部ではないんです。本来は法華経であれば大日如来によって法華の教えですね。真如への悟りを開く道が説かれております。お浄土に生まれていく道が説かれているわけではないんです。
 皆さんよくご存じなところでいうたら般若心経というお経がありますね。般若心経というのは真如のあり方、いわゆる智慧のまなこを開いていくことが書いてあるんですその智慧のまなこをひらくお経典を読みながらお浄土を願うというのは方向が違いますでしょ。行き先が違いますわな。目的が違います。だからそういうものは雑行というんですよ。阿弥陀様のお浄土にまいるんだったら阿弥陀様の御本願のお心、阿弥陀様のお浄土に生まれていくお経典を読みましょうというのが正当ですわな。それが正行といわれるものです。

明教院の心を味わう~本典一渧録より~

このテキストは、昭和63年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(49号、50号)に掲載したものです。

行信教校教授 利井明弘師

ひそかにおもんみれば

 恒例の一泊聞法に、今年も寄せていただきました。このたびは、弟の病気で門徒の皆様にも、いろいろご心配、ご迷惑をおかけしたことと思いますが、まあ無事に退院しまして、私もホッとしておるところでございます。
 今回の法座では、明教院僧鎔師の講録であります「本典一渧録(ほんでんいったいろく)」から「総序(そうじょ)」のご文を味わってみようと思います。
 これは、親鸞聖人の著わされた「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の注釈本でありますが、昔はこのご本典というのは、簡単に読ませていただくなんてことはなかったんです。師匠から弟子へ、書写を許されて、ようやく拝見できるというもので、一般には公開されていなかったんです。
 ですから昔の学匠方でも、「教行信証」を直接釈しておられる方は少ないんです。普通は「六要鈔(ろくようしょ)」という存覚上人が著わされた「教行信証」の注釈本がありまして、これを通して、ご本典をうかがうという形でありました。
 ところが明教院僧鎔師は、この「教行信証」を直接読んで注釈しておられるのです。それだけでも大変なことだといわねばなりませんが、じつはこの注釈は、当時のご門主、文如上人のご命によってご講義なさったものの講録なんですね。僧鎔師50歳の折、安永2年11月18日から翌年3月15日までかかって講義され、それをまとめた”秘書”であると記録にのこっています。
 この第2席目に出ていることなんですが、この「教行信証」は、親鸞聖人の腸胃、つまりハラワタだとおっしゃっております。
 昔、中国に仏図澄(ふとうちょう)というえらいお坊さんがおられまして、その方は左脇腹に三四寸の穴があり、その穴より光明を放って、夜になるとその光をもって聖教を読まれ、時にはそこからハラワタを取り出して洗われた、とあります。普通の人ならこんなことはできないが、聖者の不可思議であろうと僧鎔師はおっしゃる。
 そして、今これを思うに、親鸞聖人のハラワタはこの一部六巻の「教行信証」であって、そのハラワタはこの一部六巻の「教行信証」であって、そのハラワタを直説頂だいすることは、よくよくの因縁とよろこばねばならないともおっしゃっています。
 この因縁を私も感じていましてね。僧鎔師はこの善巧寺のお方でね、大切なものはハラワタのようなものだとおっしゃり、仏図澄という左の脇腹に穴の開いたお坊さんの話をしておられる。ちょうど、弟が病気になって、左脇腹に穴をあけております。ここにきて、弟の話をしながら「お前もその脇腹から光が出てきて、お聖書を読むことができるか」と聞きましたら「まだ見えん」といっておりましたが、まあ、見えないのが当然でありましょうが、腹の中はきれいに洗ったようですから、ちょっと仏図澄師に近づいたかもしれません。
 さて、ご本典というのは、本当に大切なものであるというお話を僧鎔師の、ハラワタの例えで味わったわけですが、このあたりで総序の本文に入ってみようと思います。
 まずはじめは「ひそかにおもんみれば」(窃以)というお言葉です。僧鎔師はこれを「発端之詞」といっておられます。これはまあ、拝啓とか、前略とか、そういうはじめの言葉というほどのことでありますが、鮮妙(せんみょう)は、ひそかにとは「卑謙之詞」と申しております。
 この心は「いうことも出来ないわたしが」ということでもあります。そして、おもんみればとは「そんな私が申させていただく」ということであります。つまり、否定と肯定が二文字に込められているわけです。
 しかし、考えてみますと、今は「ひそかに」なんて心、まったくありませんね。なにもかもが、わかってる、わかっている、わかってるの世界です。でも、本当にそうでしょうか。そんなことを、この「ひそかに」という言葉は、わたしたちに問いかけているような気がします。
 理性、知性、金銭万能の時代のようですが、それでいいんだろうか、その辺を、皆さんとともに考え直してみなくては・・・と思うことであります。

難思の弘誓は難度海を度する大船

 明教院僧鎔和上の孫弟子に当たります利井鮮妙が、宗祖親鸞聖人の650回忌の折に、前回からお話しております「総序の御文」を読誦用にしてご本山でおつとめになったことをたいへんよろこんで文章に残しておるのですが、それ以来でしょうか、私たちの行信教校(ぎょうしんきょうこう)では、授業がはじまる前のおつとめで、必ずこの「総序の御文」をみんなで声をそろえて読むしきたりになっております。
 で、この御文の最初に「ひそかにおもんみれば」とあるわけですが、前回夏にここの味わいをお話ししたようですので、

 難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は
 難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)
 無碍(むげ)の光明(こうにょう)は
 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する慧日(えにち)なり

 というご文に入らせていただきます。ではこれは、法蔵菩蕯が阿弥陀仏となって下さる因果と、そこへ参らせていただく衆生往生の因果が説かれてあるわけで、仏説無量寿経全二巻のおいわれが、この短かなお言葉の中にこめられてあるのでございます。
 余談になるようですが、私は先哲の害物等を読ませていただいておりまして、思うのですが、一字一句の語句の解釈もありがたいのですが、この無量寿経に関して、なぜ上下二巻あるのかということについて、ある和上が「それは説くともつきないいわれだから、三巻にも四巻にも百巻にもなろうが、三巻を超えたら両手で持てない。落としてしまう。だから、わが両手でいただけるようにちょうど二巻にまとめて下さってあるのじゃ。ありがたいことじゃ」とおっしゃっている。こういう話がまた、ありがたいなあ、と思うんです。 
 さて、その大経のおいわれは、私たちに真実そのものを与えてはとうていわかることができないから、真実のよってきたるところ、つまり、真実の因果をあらわして下さっているわけであります。
 因だけあらわされてもまたわからないものでして、因果をあらわして下さるからうなずけるんです。
 たとえばね、私はお百姓さんのことあまりわかりませんが、あのイネの葉とヒエの葉と、見分けがつくかどうか、素人ではなかなかわかりません。だけど、果が出てくるとわかります。これは私でもわかります。
 いま、その因のとこで説かれたのが「難思の弘誓」であります。仏さまは私たちを救うために法蔵菩蕯となって、世自在王仏(せじざいおうぶつ)のみもとで、そこへ往く手だてもこのように仕上げるぞとおっしゃって下さる。その果が「難度海を度する大船」であります。弥陀の弘誓の因が衆生を度する果となるのであります。
 そう、ここの明教院和上の百回忌のとき、先ほど申しました利井鮮妙の兄の明朗が、この善巧寺に参って導師をつとめております。で百回忌のときは、ご案内がなかったそうですが、私のじいの興隆が参ってきまして、お焼香をして、長講一席、大演説をして、ここの門徒衆が感涙にむせんだといわれております。昔の人はすごいですね。ご恩をうけた人の命日も忘れず、明教院和上の百五十回忌に案内なくても参ってくる。今の私たちには考えらないことであります。
 で、二百回忌の時は、弟のご縁私と父、興弘が参らせていただきましてね。法事がおわって、帰り道、父と話をしたんですが「これで、明朗さんや、興隆じいさんに、みやげ話ができましたなあ。お浄土のまいったら、まずあの二人に、この明教院さんのご法事のお話をせにゃならんなあ、じいさん、よろこぶだろうなあ」とね。
 まあ、こういう話ができるというのも「難思の弘誓」が「難度海を度する」からいえることなんですよ。帰る世界を仕上げて下さってあるからこそ、共に一処のところで会えるんです。そしてその手だての果は、無量の光明、六事の名号、南無阿弥陀仏なのであります。
 みなさん、お浄土は西にありますよ。こんなこというと、ほんとやろかという人があるが、私はあの曇鸞大師が西方浄土を指して下さったからこそ、東や、南や、北の欲の行列につながっている自分に気づかされるんだと思うんです。
 浄土がどこにあるかもわからん、真実に背を向けて、欲と二人ずれであっちの行列、こっちの行列にならぶわたしたち、だからこそ、「難思の弘誓」が「無碍の光明」の念仏となり、「無明の闇を破する恵日」とはたらき「難度海を度する大船」となってこの私をお救い下さるのであります。仏さまやお浄土に背を向けている私たちを、逃げるものを追いかけるがごとく、抱きとめてくださるのが、阿弥陀さまなのであります。

安心の目盛り/利井明弘

1998年夏 春夏秋冬■「一味」法話

 父が道を歩いていて、普請(ふしん)中の家の前にさしかかった。その時、頭の上から声が降ってきた。
 「オーイ、そこの坊主を取ってくれ」
 いきなり坊主と呼ばれて、父は驚いて立ち止まった。父の目に入ったのは、下にいた若い衆が、二階にいる棟梁(とうりょう)らしい男に、ハイッヨと、何かを放りあげる姿であった。
 見上げた父の目に入ったのは、二階の棟梁が片手に、ヒョイッと、受け取った曲尺(かなじゃく)だった。まさか自分が坊主だと知って言ったのではなかろうから、あの曲尺を坊主と言うらしい。そこで、父は棟梁に話かけた。自分は坊主だが、その曲尺も坊主と言うのかと。恐縮した棟梁が答えた。
 「ヘイ、曲尺を我々の符丁(ふちょう)では坊主と…」
 「何故そう呼ぶ」
 ますます恐縮した棟梁が答えた。
 「詳しくは知りませんが、師匠から聞いた話では、坊主も我々と同じで、欲で曲がっとる。しかし、同じ曲がっていても坊主は、我々と違って目盛りが付いているので曲尺を坊主と呼ぶんだそうで」
 「フム!」

 曾祖父の鮮妙の言葉が遺(のこ)っている。
 「蓮如上人の領解文(りょうげもん)は真宗の法律で、安心のさし金じゃ。これを離れて安心を説き、これを離れて聴聞(ちょうもん)するから、とかく大道を踏みあやまる。さし金なで決して立派な安心は成り立たぬ。さし金は不思議なもので、宮殿のような大きなものでもこれで計る。又、納屋のような小さなものでもこれで計る。大徳高僧の安心も、領解文のさし金でできあがれば、無善造悪の我等が信心も、やっぱりこのさし金でできあがる。しかし、さし金はすべての寸法の本であるから、一厘一毛狂っても、できあがった家の上には大きな間違いができる。領解文も同様で、一言一句違っても生死にかかわる大問題である。だからこそ蓮如上人は智慧を尽くし、信心をかたむけて、それこそ一生懸命でこの領解文を造られたのである。短いから何の造作もなく造られたように思っているかも知らぬが、この短い内に浄土真宗の一切のおきてを封じこめ、いかなる智者学者にも、いかなる一文不知(いちもんふち)の尼入道(あまにゅうどう)にも、火を見るよりも明らかに解って、少しの間違いも起こらぬように書き尽くされたのである。そのご苦心は、百部二百部の大きな書を造られるより余程きつかったであろう。早く領解文のお謂れを知って、安心を決定しておかねば、今に一大事になるぞ。」

 精密な計測器を製造している会社で聞いたら、温度が上がると、目盛りが伸び、下がると目盛りは縮むのだそうである。
 このごろの時代の温度で心の目盛りが狂ってはいないだろうか。その内、曲尺を坊主と呼ばなくなるのでは…。

(行信教校校長・常見寺住職)

立ち止まる

前向きにいろんなことに挑戦することは、とても力が必要な分、やりがいや生きがいになり人生を豊かにすると思います。一方で、立ち止まることもとても大事なことです。これまでのことを振り返り、自分自身を見つめて、これから先のことを想像していく。そこにはマニュアルはなく、人それぞれの環境や精神状態によって向き合っていく問題だと思います。

親鸞聖人は九才から二十九才まで比叡山の生活でした。団体生活には規則があり、やるべきプログラムがいくつも用意されています。その生活に区切りを付けて山を降り、ひとり六角堂へ向かいました。六角堂は、日本仏教の祖である聖徳太子が建立した寺院です。家庭生活を営む中で仏教を支えに生きた第一人者でもある聖徳太子を通して、自分自身と向き合う時間であったと思います。そこへ百日間通うことを決意して九十五日目に聖徳太子の夢を見ます。その夢を元に、法然聖人の元へ同じく百日間通います。

言葉で言うのは簡単ですが、自らの意思で向き合う百日間は相当な時間だと思います。親鸞聖人にはどのような気持ちの変化が起こっていたのでしょうか。この時間があったからこそ、確かな支えを持って生きてゆかれたと思います。

その後、不当な処罰を受け仲間を殺される事態が起こり、流罪の生活を送られました。晩年には息子と絶縁する自体まで起きています。しかし、どのような環境になろうとも、変わらぬ願いに支えられて人生を歩まれました。

※画像は昨年11/28撮影

雪山俊隆(寺報187号より)
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50歳

五十歳になりました。ちょうど父親が往生した歳です。平成二年九月十七日、当時高校二年生の私はその一ヵ月前に得度をしました。頭を丸めて得度から帰ってきた私を見てとても喜んでいたことを思い出します。

父が亡くなってからは祖父と母が住職の役を担い、私も帰省を繰り返していました。そのうち祖父も療養生活に入り、平成八年に往生しました。その翌年、私は善巧寺へ入り住職となります。意気込んでいたものの、現実の厳しさに打ちのめされながら三年を過ごし、いつの間にか心が閉じ切ってしまい再び京都へ行きました。その間、お寺は弟と母が代わりをつとめてくれました。

二年の時を経て、再び善巧寺へ帰り着きました。その二年後に祖母が往生しました。それからまた三年、ある程度は身のほどを知るようになった頃、妻と出会い結婚しました。その後もいろいろありましたが、なんとか生き延び今に至ります。

人生五十年は、ひと昔前ならば締切りの年です。現代の感覚では働き盛りかもしれませんが、川の流れが海に向かうように、あきらかに下流にいます。大海へ向かっている自覚を持たねばならないと感じています。

二十代に心が閉じ籠っていた頃、生死について取り憑かれたように考えていました。この想いはどんなに忘れようとしても、きっとある日突然に襲い掛かってくるはずだと思っていました。あの頃からするとだいぶ鈍感になりましたが、今まさにその時が来ています。

雪山俊隆(寺報186号より)
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「慶讃法要ご親教」に寄せて

本願寺では、親鸞聖人のご誕生850年、宗派が開かれて800年の慶讃法要が、3月から5月にかけて30日間行われました。その折に、毎回、本願寺の代表・大谷光淳門主(専如門主)よりご親教(法話)が読まれていました。問題となっている「新しい領解文」に関しても述べられているので、その箇所を抜粋して思うところを書いておきます。ブルー背景の箇所が専如門主のお言葉です。


今日、核家族や少子高齢化、過疎化など社会構造が急速に変化し、従来のように地域社会のなかで、また世代間を通して、み教えが伝わっていくことが非常に困難になってきています。

おっしゃるとおりです。核家族化は50年以上前からはじまり、少子高齢化は20年以上前から言われ始めました。この期間に我々はなすすべもなく時を過ごしてしまったことに、慚愧の想いと無力さを痛感しております。

このように社会状況や人々の意識が変わるなか、み教えを誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉で伝えていくことが、伝道教団である私たちの使命であると言えましょう。

そのような取り組みはとても大事だと思います。しかし、「新しい領解文」は、「誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉」にはなっていません。「弥陀のよび声」「愚身」「自然の浄土」「仏恩報謝」など、一般用語ではない言葉が使用され読み方もままならず、誰もが理解はできません。誤解を生みやすい表現も多用されているので、わかりやすくありません。また、唱和を推奨するという手法が時代と大きくズレていると思います。

以前、教育勅語を保育園児に読ませていることが社会問題になっていましたが、本願寺においても、数年前から「私たちのちかい」を本願寺派の関連学校に唱和させていると聞いて愕然としました。「新しい領解文」も各所で唱和が推進され、次代を担う僧侶たちの得度でも暗唱が義務付けられたと聞いています。これは、経典のように確立した言葉を儀礼として唱和することとは全く違います。若い人たちへ半強制的に読ませる行為は、重々気を付けていただきたいです。

石上智康前総長が若かりし頃は唱和ブーム真っ只中、一体感や全体の士気を高めることが強く求められた時代で、唱和には一定の力があったと思います。しかし、多様性が進んだ現代においては、個々の同意がない限り反発を生む可能性も高く、よほど慎重に進めないと支持されないでしょう。今まさに、その反発が起こっています。

親鸞聖人は『御消息』の中で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と述べられています。大乗のなかの至極とは、大乗仏教の根本精神である智慧と慈悲、自利と利他が、究極的に一つのこととして成り立つ根底にまで至ることであり、このような立場が、「生死即涅槃」とか「煩悩・菩提体無二」といった仏智の側の言葉で語られます。そして、ここにおいて、名号による阿弥陀如来の「そのままの救い」が、煩悩を抱えた私の身の上で成り立っているということができます。

ご説明のとおり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という表現は丁寧な解説がないと誤解されやすいです。解説が必須という時点で矛盾していますが、その解説も「誰もが理解できるようにわかりやすく」するのはかなり困難で、余計に混乱を生む可能性があります。勧学寮による解説と同様に、この説明もいったいどれほどの人が理解できるのでしょうか。

 浄土真宗は他力回向の信心をいただいて、凡夫は凡夫のままに、そのお慈悲によって救われるという教えです。しかし、み教えに出遭う前と後で全く同じということではありません。如来のおさとりの真実に遇わせていただくことで、これまでとは全く違った新しい生き方が始まります。それは自分だけの安穏を願うような自己中心的な生き方から、全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方への転換です。そして、そこから仏恩を念報しつつ、そのお心にかなうよう精進努力する念仏者の生き方が開かれてくるのであり、その精進努力するままが、如来のお慈悲によって生かされている姿なのです。

今、多くの僧侶と門信徒が、「新しい領解文」をどのように受け取ればよいのかわからず苦悩しています。自分自身が受け取れない言葉は人にも勧められません。そのような状況においても、現場の声には一切耳を傾けずに推進しています。私の想いと本願寺の方針に大きなズレが生じて悩んでいます。この想いを人に伝えてよいものかどうかで悩んでいます。内部に声が届かないならば社会に訴えていくべきかどうかでも悩んでいます。

これらの苦悩は、「新しい領解文」の唱和を推奨する方たちにとって、「自らの苦悩」と受け取っていただけますか?受け取っていただけるならば、本願寺の教えを司る勧学寮、もしくは代表のご門主がご対応ください。渦中にお辞めになった前寮頭の徳永一道勧学にも真相をすべてお話いただきたいです。本来は、これらを主導している総長が答えるべきですが、石上智康前総長も池田行信総長も、責任放棄のスタンスを貫き、宗報6月号においても「門主と勧学寮をはじめ、まわりの責任」という内容を繰り返しおっしゃっているので、軌道修正する見込みは持てません。池田総長は「強制ではない」と公言されているので、ならば、得度での暗唱を義務付け唱和させることと、関連施設での唱和は真っ先に取止めてください。完全に強制的です。どうぞよろしくお願い申しあげます。

このたびの、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)が、従来の『領解文』の精神を受け継ぎ、智慧と慈悲という如来のお徳を慕いつつ、仏智に教え導かれて生きる念仏者の確かな指針となりますことを願っております。

従来の領解文の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」という信仰の在り方や、「後生の一大事」という視点が欠けているなど、その精神を受け継いでいるとは思えません。よって、確かな指針にはなりません。

そしてこれからも、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われた親鸞聖人のお言葉を胸に、すべての人々が心豊かに生きていける社会の実現に向け、ともどもに歩み進めてまいりましょう。

現在の本願寺の方向性に大きな不安があり、心豊かに生きられません。この私の苦悩は「すべての人々」に入れていただけますか?

「すべての人々」とおっしゃるならば、従来の領解文を大事にしてきた人たちにも思いを馳せてください。子どもの頃から日々読み続け、慣れ親しんでいる人たちがたくさんいます。浄土真宗にご縁のある者が正信偈に慣れ親しんでいるのと同様に、領解文で育った人たちがたくさんいます。

領解文は、普及している地域と、していない地域の温度差が激しく、石上前総長や池田総長の地域は普及していない地域ですね。本願寺においても、あまり使用されていないので、ご門主も領解文はさほど慣れ親しんでいないのかもしれません。

ちなみに、私のお寺も1つの会を除き領解文は使用していないので、あまり慣れ親しんでいません。それでも、大事にしてきた人たちの声を聞くと、その想いが伝わってきます。その憤りを少しだけ感じることができます。

「全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方」をほんの少しだけでも意識していただけませんか?

唯一の解決策はいたってシンプルで、「新しい領解文」を取り下げること。親鸞聖人が著書を繰り返し修正していたことを考えると、長年熟考された形跡もない言葉が、一発で完璧なものとして完成したとするほうがあり得ないことです。新しい試みをされたのならなおさらです。

それでも、どうしても制度上取り下げることが出来ないならば、取り下げられない制度自体を変えていくために、組織の構造を抜本的に変えていくしかないと思いますが、そのような時間をかけている猶予が我が宗門にはあるのでしょうか。

現在の状況を鑑みると、旧来のように黙して忘れられるまで待つという策は問題を悪化させるだけです。今回の出来事は忘れません。さまざまな経緯や対応もインターネット上と手元の資料として残り続けます。10年後も昨日の出来事のように情報が残っている環境です。問題意識を持っている人の多くは、軽率な発言や行動にならないように慎んで、耐え忍んでいる状況だと思います。身内の苦しみに目を向けてください。