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「不殺」二千年の島へ

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「行きませんか?」
どこへ?
「スリランカ」
ええ?!
「いいとこだそうよ。南国の島、緑の島・・・」
それをいうなら仏教の島、そう、一度はお参りしてみたいと思っていたので、その気になって、急なことだったので会合やら講演やらをおことわりして、門徒まわりのお参りも日のべしてもらって、バタバタと用意をはじめたら、
「若ハン、大阪のお母さんと遠いとこへ行くんやってね。私も南の島へいっぺん行ってみたいと思っとったん。一緒に連れてってくらっしゃいよ」
と、門徒のおばあちゃん。
「そんならおらも・・・」
と、寺の総代さん。この人は以前、インドへ一緒に行った人。トントンと話はまとまって、じつはきのうまで1週間余り行ってきました。
で、今日は、本場のセイロンティでも飲みながら、みやげ話を聞いてもらおうと思って・・・。茶の間には、お経の会のメンバーが集まっている。

地図でみると、インドの右下に、なみだのしずくのような島がありまして、これがスリランカ。以前はセイロンといっていた国で、ここはインドからお釈迦様が直接仏教を伝えた国といわれ、その教えが二千年余り、脈々と息づいているといわれます。

雪国を長ぐつで出て、大阪でくつをはきかえて、お坊さんや信徒の方など18人のグループにまじっての仏跡参拝旅行となったわけですが、むこうへついたらとにかく、摂氏30度、湿度70%こりゃもうなんともいえないうれしさで、門徒のおばあちゃんは、「わぁーわぁー」と胸をはだけてあられもない。

母親は、いやじつはこの欄のさし絵を描いてくれているんですが、スケッチブックを出して、写生に余念がない。総代さんは、乳牛を10数頭飼って、田んぼの何町か持っている酪農家で、1年に3度も米のとれる姿を見せつけられて、真剣に永住を考えはじめる。「牛は肥えているし、この緑のすばらしさはなんともいえませんなあ。インドと違って米だって果物だって、何だって、ちょっと工夫すれば、まだまだ収穫はのぞめますなあ」

で、私はどうかといえば、行く前に読んだ早島鏡正博士の一文に、とにかくスリランカの人たちは、底抜けに明るく、生きものすべてが光り輝いている。これは、2千年余りかかって培った、仏教精神の具現である、といったことばが気になって、とにかく、生きものすべてに目を見はってみたんです。そしたら、ほんと、輝いているんだなあ。お経には、浄土の池には蓮があって、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光と説かれてあるけど、それに緑色緑光を加えてみたい気分。花々、動物、そして人・・・。

早島先生は、この明るさは、仏教精神、とくに不殺生の戒律を守りつづけたたまものであろうとおっしゃるが、なるほどなあ、とうなずける。生きものを殺さない。もののいのちを大切にする。体にとまった蚊も殺さない。タテマエや説教や理屈じゃなく、それが生活にとけ込んで、2千年余り、代々受け継がれてきて、はじめて生まれたのが、この顔。光顔巍々(こうげんぎぎ)とはこのことなんでしょうね。
「若ハン、負けたねー。2千年かかるっちゃ」と、門徒のおばちゃんは無邪気であります。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ほっこり法座Q&A

8月1日に行われた「ほっこり法座」のアンケートで質問をいただきました。それに対して、講師の日下賢裕先生よりご返答を掲載します。



お釈迦様が仏教を作られたと初めて聞いた時はちょっとびっくりしました。阿弥陀様かと思っていたので。

仏教をひらかれたのは、お釈迦様です。阿弥陀様(阿弥陀仏)という仏様は、お釈迦様が説かれた教えの中に出てくる仏様で、「仏説無量寿経」というお経では、この阿弥陀仏という仏様について説くことが、私(お釈迦様)がこの世に生まれた本当の目的であったと言われています。


この世の全てのものは、それ単独で存在するものはなく関係性によって成立しているといいますが、苦が生じるということは、私という存在があるからであり、私という存在がなくなれば苦は生じないのではないでしょうか?(もちろん死を望んでいるわけではありませんが)

おっしゃる通りで、お釈迦様も、煩悩を滅し、苦から解放された「涅槃」の境地に至られましたが、生身の肉体を持っている以上は、そこから生じる苦から完全に離れることはできなかったのでは?と言われています。ですから、そのような状態を「有余涅槃(うよねはん)」といい、肉体からも完全に解放された先にこそ本当の涅槃「無余涅槃(むよねはん)」がある、という考え方もあります。

ただし、だからといって自ら死を選ぶことを勧めているわけでもなく、お釈迦様も生涯、伝道に励まれたように「生き切る」ことの大切さを、そのお姿をもって教えてくださっているのではないでしょうか。苦とともにあることを悲嘆することも一つの執着ですから、苦とともにあるけれど、苦とともに生きる、ということが、仏道を歩む、ということになるのかもしれませんね。


無自性、空ということで、煩悩というものは存在せず、だから滅すべき煩悩もないという話を聞いたことがありますが、どうなのでしょうか?

なんとなく筋が通った説のように感じられますね。無自性、空、ということは、今回お話しましたような「諸行無常・諸法無我」ということを発展させていった先に、龍樹菩薩という方によって示された論になります。「縁起」という言葉でも表現されますが、つまりは物事は、因(直接的原因)と縁(間接的条件)によって生じている、という説です。ですから、無自性とか、空、ということが示すのは、「無い」ということではありません。「常一主宰」というようなそれ単独で成り立っているのではなく、様々な条件によって成り立っている、ということを表しています。ですから、無自性・空、だからといって、「無い」ということに繋がるというわけではありません。

「煩悩」というものも、「煩悩」という言葉を当てることによって、私たちの心の中にそういうなにか固定的なものがあるようにイメージされますが、そういう固定的なものとしてあるのではなく、様々な条件によって生み出されている、私の心の作用の在り方のことを、仮に「煩悩」と名付けているに過ぎません。ですから、煩悩も無自性・空であると言えますが、それは煩悩が無い、ということとイコールではない、ということになるのだと思います。


物に執着することで苦が生まれるが、では執着をなくすにはどうすればよいのでしょうか?

執着をなくしていくということについては、これからの「ゼロから味わう仏教」の中でお話していきたいと思いますので、またどうぞお参りいただけたらと思います。

無明に始まり 無明で終わる

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無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)-おしゃか様が菩提樹の下で、おさとりを開かれたその中身がこの12因縁だといわれています。コタツのおばあちゃんに聞いてみたら、「ムミョーというのと、生、老死というところだけ、ちょっとわかる。愛なんかわからん」という。

ムミョーって何ですか?
「だから、明るくないんでしょ。私みたいに、目はくらい、頭はうすい、智恵がない」
大当り!いや、失礼、そのォおばあちゃんだけでなくって、みんなそうなんだから気になさらなくてもいいんだけど、とにかく、その無明というのは、あなたのおっしゃる通りなんです。

で、行はどうかというと、その智恵のないまま行うわけで、うまくゆけないわなー。だから、その行いが認識され、色、香、味などの名色が生じ、眼、耳、鼻、舌、身、意という六根(ろっこん)が生まれ、その六根あるゆえに、感覚、知覚(触)が目覚め、この触(そく)によって、苦や楽や、不苦不楽を感受する。このあたりで愛がムクムク・・・といっても愛してるというようななまやさしいものでなくって、渇愛(かつあい)というか、ものすごい欲望がわいてくる。で、その欲から実際の行動をするんだから、これはもう、殺生、盗み、妄語(もうご)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)、綺語(きご)、邪婬(じゃいん)と、とどまるところをしらない。そしてその余力が存在(有)するかぎり、また新しい生を生み、ついてには、老死へ至り・・・で、もともと、無明から出発しているのだから、もとのもくあみ、無明へもどってまた迷いの流転(るてん)をくり返す―これが私たちの行く末、来し方だとおしゃか様がおっしゃる。

「なんとも、なさけない。あわれ無常の一生か-ナンマンダブ」
おばあちゃん、自分の行く末が見えたのか見えないのか、ちょっと悟った気分になって世の無常に、タメ念仏。

いや、タメ息つくのは私も同じだけど、そこでフイッと、ごまかすか、ごまかさんか、ここが大事なところなんです。どうせ私ら、生まれてきたんだから、死なにゃあならん。けど、それはハハハッ死んだらしまいじゃと、わからんままにごまかすか、生老死は世の常だけど、この私のこの一生、今日一日のこのいのちを、いかに精一杯生き切るか、ということに努力するか、しないか・・・このあたりに、人として生まれてきた私たちの人生の送り方の別れ道があるのかもしれませんね。

おしゃか様というお方は、そのあたりの現実の問題と、真っ向から取り組んで修行され、瞑想されて、お悟りをひらかれたんですね。そして、縁起の理法をあきらかにされ、生、老、死の悲しみ、苦しみ、おそれを乗り越えて、心豊かに生き、心豊かに死んでいかれたんですな。素晴らしいと思う。いや私らが評価すべき、次元の問題じゃないが。というのは、なにしろこちらは、無明の凡夫でありながら、凡夫と気づかないばかりか、おしゃか様と同じ修行をするほどの根気はないし、悟りのすべてをお経によって聞かせていただいても、チカッと目が覚めるなんてこともないナマケモノですからね。そんな私に、気付けよ、目覚めよと、働いて下さっておるのがこれまた、阿弥陀如来という仏様なんだけど・・・このへんの話は本堂でしたほうがよさそうだ、おばあちゃん、行こか?
「若ハン、外は雪やぜ、本堂は寒い」
ん?!


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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みんな、みんなご縁です

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縁起というのは、きっかけとか、かくぁり合いとか、条件とかいった意味のことで、すべてのものは、たった一つで、コロンとあるのではなくて、いろいろなものがかかわり合って、存在している。条件がそろったら、どのように変わるかもしれない。で、それはだれが動かしているかというと、神さまでも仏さまでもない。あるがままに、かかわり合って生起している、それがすべてのものの存在の原理だと、おしゃか様がおっしゃる。

例えば、おばあちゃん、ほれ、この急須と湯呑茶わん、いいでしょ。わたしがつくったの、最近のは水切りもよくて、評判もいいんだよ。
「ほりゃ、若ハンの焼き物自慢がはじまった」
と、コタツのおばあちゃん、クスリと笑う。いや、今日は違うの。だから、例えばの話ですよ、この茶わん、何から出来たか知ってるでしょ。そう、土から生まれたのよね。たまたま、近くの陶芸センターで、粘土を買って、コネコネやって、また、センターで焼いてもらったわけ。ところで、わたしの買った粘土の隣の粘土はどうなったかなあ。ひょっとしたら、老人クラブの趣味の会の方へいって、ぐい呑みか、灰皿になっているかもしれない。そのまた隣の・・・いや、センターのオケに入らなかった山の粘土は、まだそのまま、山の土のままのはず。いや、これもどこかの陶芸家がヒョイとすくって、何百万の大作をこしらえたかもしれない。
「ハハハ、若ハンのとこへきた粘土が一番かわいそう!」
ちょっと、そら、いいすぎだよ。でもね、これがご縁なんだな。私のヘナチョコ茶わんと、老人クラブのぐい吞みと、陶芸家の芸術作品は、皆同じ粘土-つまり前世は、兄弟なんです。

で、この茶わんになったときが、私たちの人として生まれて生きているときと同じなのでありまして、これが、いつこわれるか、というと、今日とも知らず、明日とも知らず。いや、評判悪くて、だれも使わなかったら、200年、300年、1000年もつかもしれん。そうなったら、国宝もの・・・かも知れない。

で、結局、生あるものは必ず死に帰すわけだから、茶わんもわれて、粉々になって、土に帰って、今度はセメントの材料にでもなって、どこかのビルに生まれ変わるかもしれない。そう考えると、面白いね「世界はみな兄弟」はほんとだね。人類だけじゃない。みんな兄弟!

ところが、残念ながら、そうはすんなりいかない。展望台に立って景色をながめるように、生々流転のありさまが、この私にわかるかといえば、私も、この茶わんと同じで、自分がどこからやってきたのか、わからない。どこへゆくのかもわからない。

ついでにいっておくと、さっきおばあちゃん、私のところへきた粘土が一番かわいそうなんて冗談いってたけど、ものの値打ちなんてものは、人間の煩悩できまるもんだから、あてにはならんのよ。いや、これはちょっと、弁解みたい。煩悩の話はまたあらためて。

で、縁起でありますが、この茶わんをみるにつけても、山の土が、粘土になって、ひねられて、焼かれて、形ができて、使われて、よろこばれたり、いらないものにされたりして、欠けて、こわれて、捨てられて、また土にもどり、河を流れ・・・みんあみんな、ご縁なんですね。見えないけれど、私たちもまた同じように、縁起の中にあるんだなあ。焼かれにゃわからんのかも知れんけどさあ。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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すべてありのままに生じる

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縁起というのは、かついだり祝ったりするものじゃなくって、縁によって生ずるという因果の道理そのもののことでありまして、ウリのつるにはナスビはならん。そういえば、おもしろいお経がありましてね、「仏説稲芋経」という。イネやらイモやらのことが説いてあるみたいで、富山のコシヒカリにも関係あるかと思ってちょっとひらいてみたんです。

「かくの如くわれ聞きぬ。あるとき、おしゃか様が、王舎城で多くのお弟子達を前にしてこんなことをおっしゃった」
という決まり文句からはじまって、おしゃか様のさとりの根源がのべられてある。
「因あり。縁あり。これを因縁法と名づく。この法はすべての存在のあり方であって、この法をみるものは、仏をみる」
このあと、例を引いてこの道理を説明してくださっているんです。
「例えば、稲の種モミはよく芽を生じ、芽はよく葉を生じ、葉より節、節より茎、茎より穂、穂より花、花より実を生ず」
当たり前のことですな。その通りですよね。で、次にね、もし種モミがなかったら、どうなるかっていわれる。これももう知れたこと。種モミがなかったら、芽もなく葉もなく、節もなく、茎も穂も花も実もならない。このあたりになると、こたつでコックリのおばあちゃんもうなずいて、「そうそう、その通り」と相づちを打つ。

さあ、そこで大事なことだけど、この種モミは「よーし、大きくなって芽になるぞ」と思うだろうか?葉が「節になりたい」とか穂が「花を咲かせたい」とか思いますかね。そんなこと聞かんでもわかってるという顔をしている、でしょ。なのに、種モミは順々に成長して、穂になってゆく。いったい、だれがそうさせるのだろうか?
「そら、若ハン、神や仏のおかげでしょうが」
困ったな。お経にはそうは説いてない。土や水や、太陽や、風や時節が縁となって稲は育つと書いてある。
「そうそう、その土や水の神さん!」
いや、だから、その土や水や風だって、すべて因縁生で、我というものがないんだです。ですから、この種モミを育ててやろうとか、あっちの種モミは育ててやらないとか、そんなこと、ちっとも思っていないのよ。お経には、すべてがありのままに、因と縁によって生じたもの(人を含めて)であって、自在天-つまり、おばあちゃんのいう神さまね、そういう方が、この世のすべてを創造されたのではない、と、おしゃか様はおっしゃているんでんです。おわかりですか?ことばが足りないけれど、これが因果の道理というものなんですよ。

だからね、早い話が、神社の鈴鳴らしても景気はよくならんし、交通安全のお札をもらったって事故がなくなったりするわけない。それに、どこやらでお百度参りしたら入学やら就職やらがうまくゆくなんてことあるわけない。みんな因果の道理に反するでしょ。それから日を選ぶというの、あれもいけませんなあ。今日という日は、私にとってもう二度と戻らない日でしょ。それをなにやら、仏滅や友引や大安やとやっている。昭和のはじめにあれ一度禁止されたはずなんだけど、近ごろは、かしこそうな人まであれをかついで、今日は日が悪い、なんてやってる。どうして、ああいうことになるのかねーことしゃ春から、なんとなく、ハラ立つなー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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続・お茶の間説法 -目次-

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」は、昭和54年に書籍として出版。病気で自宅や病院から出られない人のために、本人の音声で朗読している。ニフティ主催のポッドキャスティングアワード2006で審査員特別賞を受賞。

「続・お茶の間説法」
著者:雪山隆弘/印刷所:百華苑/昭和58年発行
良い子 悪い子 普通の子
縁によって育つ
テレビでやっていた
お説教好きですか?
上品 中品 下品
命日より誕生日
ニワトリのいのち
わかってはいるけれど
わが心のカースト
心の健康診断
自分の欲深さには、気付かない
どっちが欲深いか
ずーっとよろこべるか
別れたとたんに愛着病
1日1年の悩みに気をとられ・・・
男の世界は名利の修羅場
女人に五力
1番の願い 美しくありたい
帰りどころ
「子の痛み」を「わが痛み」として
食べてくれるよろこんでくれる
ひたすら守る安全
心の体操
欠点だらけの人間だから
指差す相手はまず自分
身勝手な反省ではなくて
心の底の黒い化物
スポーツ上達法
カッカしそうになったら
無心になるむずかしさ
ルールを破り、曲げるもの
仲良くなるための精進努力
集中力-「三昧」の境地
行動に移してチエがつく
笑いについて
幸福だから笑える
幸せだから、健康だから
大口あけて、不用意には
何を笑ったかで、器量がわかる
笑ったあとに本当の顔が
Q&Q
みんな賢くなりすぎて
心にJISマークを
ゴメンだね…祈とうにおはらい
迷っているのは自分自身

連続再生プレイリスト 


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

迷っているのは自分自身

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「モシモシ、おたく、水子、やってくださいます?」
―?!(ナンノコッチャ)
「近頃、体の調子がおかしくて困ってましたら、知り合いが、みてもらえっていうんです。それでみてもらったら、私には何か迷った霊がついているとかで、それをなんとかしないかぎり、不幸がつづくといわれましたの。それで、もし、おたくのお寺でお経読んで下さるんでしたら、わたし、これからうかがおうかと・・・」
―あなた、いま、どちらから?
「東京なんですけど」
―アホかいな。宇奈月の温泉につかりにくるのならまだしも、わけのわからんことで私のお経を聞きにきても、なんにもなりませんよ。それより、体の調子が悪いのなら、お医者さんへゆきなさい。病気になったら医者へ行け、とおしゃか様もいっておられます。
「でも、みてくれた人が・・・」
―ほれ、またはじまった。みてくれた人がっていったって、その人一体どんな人なの?あなたのことをあなた以上に知っている人なの?なに?なんでもよく当たる人?バカおっしゃい。クイズの王さまでもあるまいし。いまの日本中の女性のほとんどが、その水子の霊とかいうと、思い当たることになっているんでしょ。あなたそんなもの信用してどうしようというの?
「ですから、このなにかモヤモヤしたものをスッキリさせたくて・・・」
―バカタレ!(面と向かってならいいにくいが、電話だと、つい、こういいたくなっちゃう)あんたのモヤモヤをスッキリさすために、水子の霊をしずめるなんて、因果の道理に合わんじゃないですか。私は浄土真宗の坊主だから、ハッキリいいますがね、あなたの気持ちもわかるような気はするが、いま世間でいう水子供養なんてものは、ほとんどがインチキだよ。何万円かでコケシみたいなの売りつけて、あんなもので浮かばれたとかなんとかいうのかね。冗談じゃないよ。自分の責任を上手にすりかえて、水子に押しつけ、おまけに、その供養を坊主にたのむとはいったいどういうこと?あなた何もしてないじゃないの。ただ自分のモヤモヤをスッキリさせたいため、迷っている子供を・・・なんていってる。子供は迷っていません。ええ、ゼッタイあなたが思っているような迷い方してませんよ。いいですか。迷っているのは、奥さん、あなた自身なんですよ。他人のせいにしちゃいけないよ」
「・・・やっぱり・・・そうなんですね」
―?
「じつは、私もそうじゃないかと思ってたんですが、やっぱりそうだったんですね」
―なんだ、わかってるんじゃないの。
「ええ、でも、そういうふうにいってくれる人はいなかったんです。だれに聞いても、たたりだとかついてるとか、ひどいことにはお医者さんでも、おはらいしてもらえなんていう人いるんです。それで、もう、わたし、わからなくなって・・・」
―あなたも悪いが、まわりも悪いなあ。
「ハイ、子供の命の分までなんとか精一杯がんばります」

そう、迷っているのは、霊とかなんとかいういいかげんなもんじゃなく、じつは、わたしたち自身だってこと、気づかなくっちゃあね。


「お茶の間説法」(37話分)
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ゴメンだネ・・・祈とうにおはらい

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「ごめん下さい!」
朝の6時に玄関に元気のいい青年が立っている。パリッと背広にアタッシュケース。(セールスマンかな?うちの門徒さんにこんなカッコいいのいなしなあ・・・)
―どなた?
「ハイ、私、今、東京から汽車で着いたばかりの、こういう者でありまして・・・」
名刺を見れば、東京証券取引所とある。(ははあ、株屋さんで、何か売りつけようというんだな)と、逃げ腰になりかかったら、いち早くそれを察知して、
「いえ、商売の話じゃないんです。先日、ちょっと調べてみましたら、ウチの3代前の本家がこの寺の門徒だということがわかりまして、一度、親代々の法事でもしていただかねばと思いまして、突然伺ったようなわけなんです。で、私、すぐまた汽車で東京へ引き返さなくてはなりませんので、とりあえず、お経の一巻でもと・・・」
―それはまたずいぶんとお急ぎなんですね。じゃまあ、お上がりなさいませ。と、部屋へ通してお茶をすすめて、お話をうかがってみると、これがビックリ。
「ええ、私、仕事の方はうまくいっているんですけど、親戚の者が最近、相ついで3人も交通事故起こしまして、どうもすっきりしませんので、ちょっとある人にみてもらいましたら、なんか迷った霊がおるとかで、お寺で法事をした方がいいと聞きまして、さあ、それからあちこち調べて、やっと、ここのお寺が檀家寺だということがわかりましたんで飛んで来たわけなんです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
―あのォ、申しわけないけど、ウチの寺は、そんな法事はしないんです。
「エエッ?!法事をしない寺なんですか」
―いえ、法事はしますが、ここは浄土真宗のお寺で、深く因果の道理をわきまえて、現世祈とうやまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらないことをモットーにしてますから、あなたのいうような法事はしないってことです。
「そんなこといわずにお経一巻・・・」
―浄土真宗では、お経を祈とうやおはらいの道具にはいたしません。
「弱ったなあ、ちょっとやって下さりゃいいんだけどなあ」
このちょいとってところがムカッときたんですが、相手の方は東京から夜汽車でやってきて、もっとムカッときているだろうから、とりあえず心落ち着けて、お経のかわりにお話ししたんです。
―あなた、みてもらったっていうけど、だれにみてもらったの?どんな考えを持った人で、その人はあなたのことを本当によく知っている人なの?
「さあ・・・」
―さあってずいぶんいいかげんだね。だれだかわからん人物に、それこそちょいとおどかされたぐらいで、よく富山の山寺まで来ましたね。親戚に事故がつづいたって、それには原因があるはずです。警察行って聞いてごらんなさい。そしてついでに、ひょっとしたらことわたしももうすぐ事故を起こすでしょうかって聞いてごらん。アホかっていわれますよ。あなた、自分の欲で、なんかこうサッとやってもらったら、いいことくるように思ったんじゃないの?現代の標本みたいなカッコしてるけど、頭は原始人だね。いやご無礼!


「お茶の間説法」(37話分)
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心にJISマークを

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


借金の証文に押す印鑑の証明がいるというので、先日役場の窓口へ行きました。
「ずいぶん年期の入った印鑑ですねー。まわりがひどく欠けていますよ」
窓口の女子職員の方、笑いながらこうおっしゃる。そういえば、水晶のハンコでいたみがひどく、周囲の丸がほとんどなくなっている。
「ほんとだ。こりゃボツボツ新しいのにしなくちゃいかんなあ」
「そうですよ。いまどき、こんな印鑑持ってる人、少ないですよ」
「へー、そんなもんですか」
「ええ、そりゃもう立派なものばかり。ホラ、あの・・・開運っていうんですか、みんな縁起かついで、一年に二度も三度もっていう人もいるんですよ」
「なんと!」
「おたくお坊さんだから、聞いてみるんですけど、やっぱり印鑑ひとつで運が開けるなんてことあるでしょうか?」
「あなたは、どう思います?」
「さあ、そんなこと、ないと思いますし、ひょっとしたら、あるのかなあ、なんて・・・」
「で、あなた、印鑑をかえられたの?」
「いいえ、まだ・・・」
「それなら、かえないほうがいいでしょ。いや、いいも悪いもないけど、少なくとも印鑑を新しくして幸運がくるのは、その印鑑屋さんだけじゃないかなあ」
「ハハハ、そういえばそうですね。わたし新しくするのやめとこ。もうかっちゃった。ハイ、証明書できました」
というわけなんです。いや、ほんとにすごいんですって。まったくバカバカしいことだけれど、わが町へ、印鑑のセールスマンが来たとたん、役場の窓口までがいそがしくなるくらいに、実印の変更が相次いだというんです。

ゾッとしませんか。冗談じゃないよっていいたい。いや、これは、私が浄土真宗のお坊さんで「深く因果の通りをわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」という教えを身につけているからいえるわけで、ちっともゾッとせず冗談どころか、本当に信じきっちゃってる人もたくさんあるんだから、あんまり、そういう人を傷つけたくないんですが、やっぱりちょっとおかしいなあと思ったほうがいいんじゃないかと思う。

だってそうでしょ。ハンコはあくまでハンコであって、あなたではない。そしてハンコの字は、ハンコ屋さんが彫るのであって、その人がいくら先生と呼ばれようが、字は字であって、あなたの運命とかを変えたりするものじゃないはずです。それが、因果の道理というものでしょ。じゃないですか?

運が開けるとか、幸福がやってくるとかいって売り込んでくるのも、ハンコだけじゃなくて、いろいろありますね。表札とか、掛け軸とか、なんとか、かんとか、そういうものをお買いになるときは、ぜひ、因果の道理に照合してみて下さい。それでうなずけるものならかまわないけど、アーラ不思議なんて道理に合わないものがあったら、なるべく近寄らないほうがおトクかと思います。キャッチフレーズ風にいうなら、因果の道理は、あなたの心のJISマーク、ということになりますか。年末は特に心の戸締まりをお忘れなく。


「お茶の間説法」(37話分)
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みんな賢くなりすぎて

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


ツーといえばカー、QといえばA。近頃、世の中、親切な人が多くなって、電話一本、ハガキ1枚で、どんなことにでも答えてくれる時代のようであります。人生相談、もめごと相談、心配ごと相談、人権相談、教育相談、育児相談、お料理相談、冠婚葬祭なんでも相談といった具合で、まあ、本当に便利な世の中ですね。

私もそのあおりをうけて、ひょいと遠くから、電話で質問されたり、手紙をいただいたり、なかには、うちの寺へこられたり・・・なんてことがよくあるんです。で、結果はうまくいくかといえば、これがまるで話にならない。Qとくれば、A、となればいいんだろうけど、私のはそうはいかない。Qと問われた問題を、さらにややこしくして、Qのまま返してしまうということが多いんです。Q&Aじゃなくて、Q&Q、になっちゃうんです。

こないだも、こんなことがありました。
電話の奥さん「モシモシ、あの、雪山さんですか?私、サンケイ新聞で拝見しているものなんですけど、ちょっとおうかがいしたくって・・・」
―どんなことでしょう?
「それが、じつは、娘の結婚のことなんですけど・・・私は賛成だし、相手も乗り気だし、うまくまとまればと思いまして、ついこの間あるところで見てもらったんです。そしたらなんと、この縁談はダメだ、不幸になるに決まっている、なんておっしゃいまして、私、どうしていいかわからなくなりまして・・・」
―それで?
「ええ、ですから、そんな占い師のいうことなんか信じなくていいかどうかと・・・」
―あなたはどうしたいんです?
「ですから信じたくないんですけど・・・」
―じゃあ、それでいいじゃありませんか。
「でも、占い師のいうことですし・・・」
―それならもう一度その占い師のところへ行って「あなたのいったこと信じたくありません」といってらっしゃいよ。私はあなたの顔も見てないし、娘さんのことも知らない。相手の男性がどんなハンサムかも知らない。電話一本で聞かれたって何もわからない。もちろん占いなんてものは、バカみたいなもんだけど、それを私があなたにいったら、あなたは、先の占い師を捨てる道具に私を使うでしょう。どっちにしてもバカバカしい。そんなことより、ご主人と娘さんと、みんなでよく相談なさったらいかがですか?

とまあ、こんな具合になっちゃって、相手の奥さんの聞きたいこともわかるんだけど、ごめんなさいって電話切ったんです。ずいぶん不親切な男だと思われたかも知れないけど世の中には親切な人がたくさんいるんだからやさしい答えがほしい方は、そちらへどうぞといっておきましょう。

ところで、このとき、ふと思ったんですけど、近頃の相談ブーム、こりゃあいったいどういうことかと考えるに、どうやら、日本中だれもかれも、かしこくなりすぎちゃったんじゃないか、と思うんです。つまり、そこら中からおだてられて、私達みんなうぬぼれのかたまりになっちゃって、ちょっとわからないことや、困ったこと、まわりの人にちょっと頭下げて聞けばいいのに、わからないということ知られるのがはずかしくって、こっそり電話やハガキで見ず知らずの人に聞いて、あとくされなくして、すましているんじゃないかしら。ねえ、そうじゃなあい?


「お茶の間説法」(37話分)
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