住職コラム」カテゴリーアーカイブ

カフェ愚禿

善巧寺の門徒会館は、平成二年の建立から今年で三十五年になります。。近年は老朽化が目立つようになり、外壁や屋上の防水工事を終えたところです。

平成二年の寺報には、祖父俊之が次のように記しています。

今度の会館には、まず、善巧寺サロンがあります。誰でも何時でも気軽に入って話し合える場所です。老人は目の前に迫る死について、壮年層は世界の環境破壊の現状について、婦人層は世代間の断絶や家庭崩壊の恐れについて、話し合うのも結構でしょう。次に善巧寺ライブラリー、図書館です。本は読まれるためにあるもの。経蔵の奥に眠っていた仏書を、皆様の手の届くところへ持ってきます。最後に善巧寺ホール。ここは十分なスペースをとって、お寺座、雪ん子劇団、門徒全体を収容できる食堂など、多目的なホールの役割を果たします。

この「食堂」は、法事後のお斎の場として想定されていましたが、二階に料理を運ぶ手間や、お寺での会食自体が減少したこともあり、活用には至りませんでした。

こうした経緯をふまえ、今年四月よりスタートした「カフェ愚禿」では、「善巧寺サロン」と「ライブラリー」の構想を受け継ぎ整えました。お寺は人々が集いお茶を飲み語り合う場―つまり、喫茶やカフェのような要素が古来よりあります。その在り方を現代のかたちで再定義し、どなたでも立ち寄れる場所として開いたのが、今回の週末カフェです。どうぞお気軽にお立ち寄りください。

雪山俊隆(寺報194号より)

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何者でもない

NHK「こころの時代」特集「こう生きた どう生きる 山折哲雄 現在を問う」にて、善巧寺の親鸞聖人像(清河北斗氏作)が紹介されました。昨年十一月、ほんの一場面の映像を撮影するために東京から三名のスタッフが富山まで足を運ばれ、強い熱意を感じました。

番組冒頭では、宗教学者・山折哲雄さんが心を揺さぶられた言葉として、服部之総著『親鸞ノート』の「呪われたる宗門の子」が紹介されました。宗教的理想と現実のはざまで葛藤する人間の姿に、山折さんは自身の人生を重ね、親鸞聖人の生き方に深く共鳴している様子が伝わってきました。

聖人像とともに放送されたのは、親鸞聖人の和讃「愚禿悲嘆述懐」の一節です。

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

浄土の真実の教えに帰依したが、この私にまことの心などない。嘘や偽りばかりの我が身で、清らかな心などありはしない。そんな厳しい自己認識が語られています。これはただの自己否定ではなく、そんな自分をまるごと引き受けて救おうとする阿弥陀如来の願いに照らされた時にこそ起きる、深い気づきといえるでしょう。

非僧非俗の説明では、「僧侶でも俗人でもない。自分は何者でもない」とナレーションが語り、「自分は何者でもない」という受けとめ方は、山折さん自身の言葉によるものでした。阿弥陀如来の大いなる願いの前で、何者でもなかった自分自身に安堵している姿が、とても印象的でした。

雪山俊隆(寺報193号より)

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いつのまにやら

コロナ騒ぎになったのが四年前、ほっこり法座をはじめたのが六年前、本堂を修復したのが十二年前、お寺の音楽会を開催したのが十八年前、住職を継職したのが二十六年前、得度したのが三十四年前。

いつのまにやら子供も高校生と中学生になり、自分だけが時が止まっているような錯覚を起こします。これは七十才、八十才になったとしても同じような気持ちになるのかもしれません。

歌手の二階堂和美さんの曲に「いつのまにやら現在(いま)でした」という歌があります。

気づいたような気になって
案外それも的外れ
時は過ぎ 時は過ぎ
現在(いま)の私がありました 

お葬儀の折りに拝読している蓮如上人の「白骨の御文章」には、「この世の始中終、幻の如くなる一期なり」とあり、この世の始まりも途中も終わりも「幻のごとく」とお示しくださり、この世の儚さをこれでもかというほどに説かれています。そして最後に「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と締めくくられています。
 自分の人生がどのようであったとしても、ただ念仏ひとつが私の救いであったと多くの先人たちが口にしています。念仏ひとつとはどういうことなのか。私は何を求めどこに向かっているのか。私の救いとは何か。それを示してくださったのが親鸞聖人でした。そのみあとをしたい、報恩講をつとめます。

雪山俊隆(寺報191号より)

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領解文

浄土真宗の教えの要を端的にあらわした「領解文(りょうげもん)」という蓮如上人の文章があります。善巧寺では拝読していないため馴染みはないと思いますが、日常聖典にも掲載されていますのでご覧ください。

領解文の冒頭には、「諸々の雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力の心をふり捨てて」とあります。浄土真宗の救いは南無阿弥陀仏に集約しているため、さまざまな修行は一切必要ないとします。誤解されやすく注意が必要な内容で、救われるために修行をするのではなく、救いに預かっていることを着目していく教えです。

赤ん坊が親の名を呼ぶようになるのは、子が親かどうかを確かめてから呼び始めるのではなく、親のほうが呼んで欲しい名前を用意して、「ママよ」「お母さんよ」と繰返し伝えることによって、それを真似て呼び始めます。呼ばれるほうが用意して子に渡すのが呼び名です。アミダさまは、「ナモアミダブツ」という呼び名を用意してくれました。だから、呼び名はただの名詞ではなく、ありったけの願いが込められた名前です。アミダさまの場合、その願いは四十八個あると仏説無量寿経にあらわされています。

私がどうなればよいのかという視点ではなく、仏さまの願いを聞いていく教えです。私を中心にするのか、仏さまを中心にするのかの違いです。その願いを受け入れた上での行いは、仏になるための修行ではなく、ありがとうの気持ちでつとめましょうと勧めています。

雪山俊隆(寺報190号より)

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人間 親鸞聖人

昨年は親鸞聖人のご誕生八百五十年にあたり、今年は浄土真宗が開かれて八百年の年です。

改めて親鸞聖人のことを想う時、私が真っ先に思い浮かぶのは、お馴染みの正信偈も含まれている主著「教行証文類」の末尾に記されたお言葉です。そこには法然聖人のもとにいた頃、不当な念仏弾圧を受けて法然聖人をはじめ門下生が処罰を下されたことに対して強い怒りが滲み出た文章で記されています。念仏弾圧は親鸞聖人が三十九才の頃の出来事です。四十年以上の時を経てもつい先日の出来事のように記されているのは、その怒りが動機となり、法然聖人の教えの正当性を証明するために、この書を長い年月をかけて書き上げたからなのでしょう。この怒りを転じて大著を書き上げたことにとても感動します。

通常の仏教では、怒りは鎮めるものであり、いかにして取り除いていくかが重要ですが、それら煩悩を抱えてしか生きられない道を説く浄土教において、親鸞聖人は、怒りを転じる道を示してくださいました。並大抵な事ではありませんが、この生き方に私はとても共感します。

怒りをあらわにして記された文章の後には、法然聖人の書「選択集」を書き写すことが許され、釈綽空という名を頂いたことで結んでいます。ここには喜びが満ち溢れています。文章は多くの引文を用いて学術的に記されていますが、最後には、怒りや喜びが滲み出た文章で締められていることに、人間味の溢れる聖人の姿を思い浮かべます。煩悩の中に生きる私の道しるべです。

雪山俊隆(寺報189号より)

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しんらんさま

昨年は親鸞聖人のご誕生八五〇年という節目の年でした。せっかくのご縁、何か出来ないかと手掛けたのが親鸞聖人像マップづくりです。一般的に銅像と言えばまず名前があがるのが二宮尊徳さんで、銅像をまとめているホームページでもそのように扱われており、親鸞聖人の名前はありませんでした。主にお寺の境内にご安置されているため、多くの人にとってはあまり目にしない像のようですが、全国には二万ヶ寺以上の浄土真宗寺院があり、また関連する学校や保育園も多くあるため、きっと親鸞聖人像が二宮尊徳像以上にあるはずだと、収集を始めたのでした。

結果、現在までに約二九〇〇体見つかり、日本一多い人物像と言っても問題のない数になりました。銅像が多く作られるようになったのは、高度経済成長の時代です。現在は所有者も代替わりしているため、その思い入れは忘れられていますが、ほとんどの像は寄贈によるものなので、そこには様々な願いが込められているはずです。善巧寺の親鸞聖人像も、長らく草木に覆われて普段お参りされる方の目にもあまり留まらない環境になっていましたが、節目の年をご縁に改めて見直すようになりました。

銅像は安くありません。安価なものでも二~三白万、大型の像は五百万を超えるものもあります。高価だからいいというわけではありませんが、その背景には「私のお寺」という意識がとても高かったことが伺えます。改めて先人の願いに向き合うご縁にしたいです。


雪山俊隆(寺報185号より)
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しんらんさま

昨年は親鸞聖人のご誕生八五〇年という節目の年でした。せっかくのご縁、何か出来ないかと手掛けたのが親鸞聖人像マップづくりです。一般的に銅像と言えばまず名前があがるのが二宮尊徳さんで、銅像をまとめているホームページでもそのように扱われており、親鸞聖人の名前はありませんでした。主にお寺の境内にご安置されているため、多くの人にとってはあまり目にしない像のようですが、全国には二万ヶ寺以上の浄土真宗寺院があり、また関連する学校や保育園も多くあるため、きっと親鸞聖人像が二宮尊徳像以上にあるはずだと、収集を始めたのでした。

結果、現在までに約二九〇〇体見つかり、日本一多い人物像と言っても問題のない数になりました。銅像が多く作られるようになったのは、高度経済成長の時代です。現在は所有者も代替わりしているため、その思い入れは忘れられていますが、ほとんどの像は寄贈によるものなので、そこには様々な願いが込められているはずです。善巧寺の親鸞聖人像も、長らく草木に覆われて普段お参りされる方の目にもあまり留まらない環境になっていましたが、節目の年をご縁に改めて見直すようになりました。

銅像は安くありません。安価なものでも二~三白万、大型の像は五百万を超えるものもあります。高価だからいいというわけではありませんが、その背景には「私のお寺」という意識がとても高かったことが伺えます。改めて先人の願いに向き合うご縁にしたいです。
(写真:菅原智之さん)

雪山俊隆(寺報188号より)

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立ち止まる

前向きにいろんなことに挑戦することは、とても力が必要な分、やりがいや生きがいになり人生を豊かにすると思います。一方で、立ち止まることもとても大事なことです。これまでのことを振り返り、自分自身を見つめて、これから先のことを想像していく。そこにはマニュアルはなく、人それぞれの環境や精神状態によって向き合っていく問題だと思います。

親鸞聖人は九才から二十九才まで比叡山の生活でした。団体生活には規則があり、やるべきプログラムがいくつも用意されています。その生活に区切りを付けて山を降り、ひとり六角堂へ向かいました。六角堂は、日本仏教の祖である聖徳太子が建立した寺院です。家庭生活を営む中で仏教を支えに生きた第一人者でもある聖徳太子を通して、自分自身と向き合う時間であったと思います。そこへ百日間通うことを決意して九十五日目に聖徳太子の夢を見ます。その夢を元に、法然聖人の元へ同じく百日間通います。

言葉で言うのは簡単ですが、自らの意思で向き合う百日間は相当な時間だと思います。親鸞聖人にはどのような気持ちの変化が起こっていたのでしょうか。この時間があったからこそ、確かな支えを持って生きてゆかれたと思います。

その後、不当な処罰を受け仲間を殺される事態が起こり、流罪の生活を送られました。晩年には息子と絶縁する自体まで起きています。しかし、どのような環境になろうとも、変わらぬ願いに支えられて人生を歩まれました。

※画像は昨年11/28撮影

雪山俊隆(寺報187号より)
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50歳

五十歳になりました。ちょうど父親が往生した歳です。平成二年九月十七日、当時高校二年生の私はその一ヵ月前に得度をしました。頭を丸めて得度から帰ってきた私を見てとても喜んでいたことを思い出します。

父が亡くなってからは祖父と母が住職の役を担い、私も帰省を繰り返していました。そのうち祖父も療養生活に入り、平成八年に往生しました。その翌年、私は善巧寺へ入り住職となります。意気込んでいたものの、現実の厳しさに打ちのめされながら三年を過ごし、いつの間にか心が閉じ切ってしまい再び京都へ行きました。その間、お寺は弟と母が代わりをつとめてくれました。

二年の時を経て、再び善巧寺へ帰り着きました。その二年後に祖母が往生しました。それからまた三年、ある程度は身のほどを知るようになった頃、妻と出会い結婚しました。その後もいろいろありましたが、なんとか生き延び今に至ります。

人生五十年は、ひと昔前ならば締切りの年です。現代の感覚では働き盛りかもしれませんが、川の流れが海に向かうように、あきらかに下流にいます。大海へ向かっている自覚を持たねばならないと感じています。

二十代に心が閉じ籠っていた頃、生死について取り憑かれたように考えていました。この想いはどんなに忘れようとしても、きっとある日突然に襲い掛かってくるはずだと思っていました。あの頃からするとだいぶ鈍感になりましたが、今まさにその時が来ています。

雪山俊隆(寺報186号より)
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「慶讃法要ご親教」に寄せて

本願寺では、親鸞聖人のご誕生850年、宗派が開かれて800年の慶讃法要が、3月から5月にかけて30日間行われました。その折に、毎回、本願寺の代表・大谷光淳門主(専如門主)よりご親教(法話)が読まれていました。問題となっている「新しい領解文」に関しても述べられているので、その箇所を抜粋して思うところを書いておきます。ブルー背景の箇所が専如門主のお言葉です。


今日、核家族や少子高齢化、過疎化など社会構造が急速に変化し、従来のように地域社会のなかで、また世代間を通して、み教えが伝わっていくことが非常に困難になってきています。

おっしゃるとおりです。核家族化は50年以上前からはじまり、少子高齢化は20年以上前から言われ始めました。この期間に我々はなすすべもなく時を過ごしてしまったことに、慚愧の想いと無力さを痛感しております。

このように社会状況や人々の意識が変わるなか、み教えを誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉で伝えていくことが、伝道教団である私たちの使命であると言えましょう。

そのような取り組みはとても大事だと思います。しかし、「新しい領解文」は、「誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉」にはなっていません。「弥陀のよび声」「愚身」「自然の浄土」「仏恩報謝」など、一般用語ではない言葉が使用され読み方もままならず、誰もが理解はできません。誤解を生みやすい表現も多用されているので、わかりやすくありません。また、唱和を推奨するという手法が時代と大きくズレていると思います。

以前、教育勅語を保育園児に読ませていることが社会問題になっていましたが、本願寺においても、数年前から「私たちのちかい」を本願寺派の関連学校に唱和させていると聞いて愕然としました。「新しい領解文」も各所で唱和が推進され、次代を担う僧侶たちの得度でも暗唱が義務付けられたと聞いています。これは、経典のように確立した言葉を儀礼として唱和することとは全く違います。若い人たちへ半強制的に読ませる行為は、重々気を付けていただきたいです。

石上智康前総長が若かりし頃は唱和ブーム真っ只中、一体感や全体の士気を高めることが強く求められた時代で、唱和には一定の力があったと思います。しかし、多様性が進んだ現代においては、個々の同意がない限り反発を生む可能性も高く、よほど慎重に進めないと支持されないでしょう。今まさに、その反発が起こっています。

親鸞聖人は『御消息』の中で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と述べられています。大乗のなかの至極とは、大乗仏教の根本精神である智慧と慈悲、自利と利他が、究極的に一つのこととして成り立つ根底にまで至ることであり、このような立場が、「生死即涅槃」とか「煩悩・菩提体無二」といった仏智の側の言葉で語られます。そして、ここにおいて、名号による阿弥陀如来の「そのままの救い」が、煩悩を抱えた私の身の上で成り立っているということができます。

ご説明のとおり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という表現は丁寧な解説がないと誤解されやすいです。解説が必須という時点で矛盾していますが、その解説も「誰もが理解できるようにわかりやすく」するのはかなり困難で、余計に混乱を生む可能性があります。勧学寮による解説と同様に、この説明もいったいどれほどの人が理解できるのでしょうか。

浄土真宗は他力回向の信心をいただいて、凡夫は凡夫のままに、そのお慈悲によって救われるという教えです。しかし、み教えに出遭う前と後で全く同じということではありません。如来のおさとりの真実に遇わせていただくことで、これまでとは全く違った新しい生き方が始まります。それは自分だけの安穏を願うような自己中心的な生き方から、全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方への転換です。そして、そこから仏恩を念報しつつ、そのお心にかなうよう精進努力する念仏者の生き方が開かれてくるのであり、その精進努力するままが、如来のお慈悲によって生かされている姿なのです。

今、多くの僧侶と門信徒が、「新しい領解文」をどのように受け取ればよいのかわからず苦悩しています。自分自身が受け取れない言葉は人にも勧められません。そのような状況においても、現場の声には一切耳を傾けずに推進しています。私の想いと本願寺の方針に大きなズレが生じて悩んでいます。この想いを人に伝えてよいものかどうかで悩んでいます。内部に声が届かないならば社会に訴えていくべきかどうかでも悩んでいます。

これらの苦悩は、「新しい領解文」の唱和を推奨する方たちにとって、「自らの苦悩」と受け取っていただけますか?受け取っていただけるならば、本願寺の教えを司る勧学寮、もしくは代表のご門主がご対応ください。渦中にお辞めになった前寮頭の徳永一道勧学にも真相をすべてお話いただきたいです。本来は、これらを主導している総長が答えるべきですが、石上智康前総長も池田行信総長も、責任放棄のスタンスを貫き、宗報6月号においても「門主と勧学寮をはじめ、まわりの責任」という内容を繰り返しおっしゃっているので、軌道修正する見込みは持てません。池田総長は「強制ではない」と公言されているので、ならば、得度での暗唱を義務付け唱和させることと、関連施設での唱和は真っ先に取止めてください。完全に強制的です。どうぞよろしくお願い申しあげます。

このたびの、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)が、従来の『領解文』の精神を受け継ぎ、智慧と慈悲という如来のお徳を慕いつつ、仏智に教え導かれて生きる念仏者の確かな指針となりますことを願っております。

従来の領解文の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」という信仰の在り方や、「後生の一大事」という視点が欠けているなど、その精神を受け継いでいるとは思えません。よって、確かな指針にはなりません。

そしてこれからも、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われた親鸞聖人のお言葉を胸に、すべての人々が心豊かに生きていける社会の実現に向け、ともどもに歩み進めてまいりましょう。

現在の本願寺の方向性に大きな不安があり、心豊かに生きられません。この私の苦悩は「すべての人々」に入れていただけますか?

「すべての人々」とおっしゃるならば、従来の領解文を大事にしてきた人たちにも思いを馳せてください。子どもの頃から日々読み続け、慣れ親しんでいる人たちがたくさんいます。浄土真宗にご縁のある者が正信偈に慣れ親しんでいるのと同様に、領解文で育った人たちがたくさんいます。

領解文は、普及している地域と、していない地域の温度差が激しく、石上前総長や池田総長の地域は普及していない地域ですね。本願寺においても、あまり使用されていないので、ご門主も領解文はさほど慣れ親しんでいないのかもしれません。

ちなみに、私のお寺も1つの会を除き領解文は使用していないので、あまり慣れ親しんでいません。それでも、大事にしてきた人たちの声を聞くと、その想いが伝わってきます。その憤りを少しだけ感じることができます。

「全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方」をほんの少しだけでも意識していただけませんか?

唯一の解決策はいたってシンプルで、「新しい領解文」を取り下げること。親鸞聖人が著書を繰り返し修正していたことを考えると、長年熟考された形跡もない言葉が、一発で完璧なものとして完成したとするほうがあり得ないことです。新しい試みをされたのならなおさらです。

それでも、どうしても制度上取り下げることが出来ないならば、取り下げられない制度自体を変えていくために、組織の構造を抜本的に変えていくしかないと思いますが、そのような時間をかけている猶予が我が宗門にはあるのでしょうか。

現在の状況を鑑みると、旧来のように黙して忘れられるまで待つという策は問題を悪化させるだけです。今回の出来事は忘れません。さまざまな経緯や対応もインターネット上と手元の資料として残り続けます。10年後も昨日の出来事のように情報が残っている環境です。問題意識を持っている人の多くは、軽率な発言や行動にならないように慎んで、耐え忍んでいる状況だと思います。身内の苦しみに目を向けてください。


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