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「他力」の「他」はだれのこと?

僧侶は思わず二度見する名前

ミュージシャンの「ちゃんみな」さんがプロデュースしているガールズグループ「HANA」に注目しています。「かわいい」「きれい」という概念が画一化されつつある中で、彼女たちは多様な美しさを見せてくれています。デビュー早々、紅白にも出場したのでご存じの方も多いと思います。

そのメンバーに、「他力 千佳(たりき ちか)」さんという方がいます。初めて知った時は、思わず二度見してしまいました。え?他力?と。気になったので、お坊さん仲間に聞いてみると、九州地方には数件ある苗字ということがわまりました。

一般的に「他力」といえば、「人任せ」や「自分では何もしないこと」と誤解されがちです。仏教を少し学んだ人なら、それが「阿弥陀仏の力」を指す言葉だと知っているでしょう。しかし、それだけではまだ不十分です。

実は、他力の「他」とは、阿弥陀仏から見た「私」自身のことでした。

中心を「私」から「仏さま」へ

通常、私たちは自分を「自(じ)」、自分以外を「他(た)」と定義します。つまり、「私」が世界の中心にいます。しかし仏教の視点は異なります。世界の中心を「私」ではなく「仏さま」に置きます。

  • 自(中心):阿弥陀仏
  • 他(対象):私たち

阿弥陀仏が「自」であり、その仏さまから見て「他」であるのが、私たち。この視点の転換こそが、他力の真髄です。

「仏さまの前に座らせてもらう」という感覚

自分中心でしかものを見られない私にとって、この転換を理解するのは容易ではありません。しかし、お寺に長年通う人たちの姿には、そのヒントがあります。

本堂に入ると、まず仏さまにごあいさつ。「私の前に仏さまがいる」わけですが、その視点を逆にすると、「仏さまの前に、私が座らせてもらっている」。事柄は同じでも、受け止め方が違います。お経はみんなで仏さまのほうを向いておつとめをし、講師がそのお経の心を法話としてお話します。

ほんの一瞬でも、肩書きや役割を一旦脇に置いて、凝り固まった「自分」という枠から離れ、仏さまの大いなるはたらきに身を委ねてみる。そのとき、常日頃いかに自分に固執しているかが知らされ、大きな慈悲に包まれているという感覚が生まれてきます。

ベテランの参拝者は、そのような心持ちで仏さまと対峙しているように私にはうつります。

利他力(りたりき)としての他力

「自」である仏さまが、「他」である私たちを救おうとはたらきかける力。これを「利他力(りたりき)」といい、略して「他力」と呼びます。つまり「他力」とは、仏さまが「他」である私を利益(りやく)し、導こうとする慈悲の力そのものを指していたのです。

おかげさま

そのような理由で、他力の本来の意味は「人任せ」ということではなく、どんなに努力を積み重ねたとしても、それを我が力と誇らず、「おかげさま」であったと手を合わせて生きていく。また、努力が続かず、すぐに怠惰になってしまう自分に対しても、決して見捨てずに包み込んでくれるはたらきに、「もったいない」と頭が下がる。これが実生活での「他力」の受け取り方のひとつです。

お仏壇やお寺にお参りの際は、ぜひこの「自他」の入れ替わりと、包み込まれている温もりを思い出してみてください。

あなたのために

善巧寺の伝統的な法要は、大きく縮小し厳しい状況にあります。かつて、お寺を第二の家のように感じ、行事参加が当たり前とされた時代がありました。私が生まれた頃の記録では、報恩講に380名のお名前が記されています。それが平成に入り200名台となり、平成20年代には100名を切り、現在は60名前後という状況になりました。

参拝の減少を食い止めようと模索してきましたが、思うような成果に結びつかず、力及ばない日々です。かつては親戚の法事に招かれれば自然に集うのと同じように、お寺参りは「行くのが当たり前」でしたが、いまは「親が世話になった場所」という認識にとどまり、「自分が参加する場」として受けとめる方は少数となりました。当事者意識を持っていただけないのは、こちらの伝道不足としか言いようがなく、住職として身の縮む思いを抱いています。

現在は、良くも悪くも、かなりフラットな状態になったのかもしれません。強制力が弱まった分、参拝者は自発的に行動する方々が集まり、当事者意識の中で法要が営まれています。その輪を少しずつ広げていきたいです。

法事や法要を営むということはどういうことなのか。手を合わせるとはどういうことなのか。私のこころの拠り処は何なのか。灯火はどんなに小さくなろうとも絶やしませんので、今一度、法要は誰かのためのものではなく、「あなたひとりのために営まれている」ということを受取っていただきたく、お誘い申しあげます。

雪山俊隆(寺報195号より)

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寺報・カフェ愚禿

善巧寺の門徒会館は、平成二年の建立から今年で三十五年になります。。近年は老朽化が目立つようになり、外壁や屋上の防水工事を終えたところです。

平成二年の寺報には、祖父俊之が次のように記しています。

今度の会館には、まず、善巧寺サロンがあります。誰でも何時でも気軽に入って話し合える場所です。老人は目の前に迫る死について、壮年層は世界の環境破壊の現状について、婦人層は世代間の断絶や家庭崩壊の恐れについて、話し合うのも結構でしょう。次に善巧寺ライブラリー、図書館です。本は読まれるためにあるもの。経蔵の奥に眠っていた仏書を、皆様の手の届くところへ持ってきます。最後に善巧寺ホール。ここは十分なスペースをとって、お寺座、雪ん子劇団、門徒全体を収容できる食堂など、多目的なホールの役割を果たします。

この「食堂」は、法事後のお斎の場として想定されていましたが、二階に料理を運ぶ手間や、お寺での会食自体が減少したこともあり、活用には至りませんでした。

こうした経緯をふまえ、今年四月よりスタートした「カフェ愚禿」では、「善巧寺サロン」と「ライブラリー」の構想を受け継ぎ整えました。お寺は人々が集いお茶を飲み語り合う場―つまり、喫茶やカフェのような要素が古来よりあります。その在り方を現代のかたちで再定義し、どなたでも立ち寄れる場所として開いたのが、今回の週末カフェです。どうぞお気軽にお立ち寄りください。

雪山俊隆(寺報194号より)

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何者でもない

NHK「こころの時代」特集「こう生きた どう生きる 山折哲雄 現在を問う」にて、善巧寺の親鸞聖人像(清河北斗氏作)が紹介されました。昨年十一月、ほんの一場面の映像を撮影するために東京から三名のスタッフが富山まで足を運ばれ、強い熱意を感じました。

番組冒頭では、宗教学者・山折哲雄さんが心を揺さぶられた言葉として、服部之総著『親鸞ノート』の「呪われたる宗門の子」が紹介されました。宗教的理想と現実のはざまで葛藤する人間の姿に、山折さんは自身の人生を重ね、親鸞聖人の生き方に深く共鳴している様子が伝わってきました。

聖人像とともに放送されたのは、親鸞聖人の和讃「愚禿悲嘆述懐」の一節です。

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

浄土の真実の教えに帰依したが、この私にまことの心などない。嘘や偽りばかりの我が身で、清らかな心などありはしない。そんな厳しい自己認識が語られています。これはただの自己否定ではなく、そんな自分をまるごと引き受けて救おうとする阿弥陀如来の願いに照らされた時にこそ起きる、深い気づきといえるでしょう。

非僧非俗の説明では、「僧侶でも俗人でもない。自分は何者でもない」とナレーションが語り、「自分は何者でもない」という受けとめ方は、山折さん自身の言葉によるものでした。阿弥陀如来の大いなる願いの前で、何者でもなかった自分自身に安堵している姿が、とても印象的でした。

雪山俊隆(寺報193号より)

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いつのまにやら

コロナ騒ぎになったのが四年前、ほっこり法座をはじめたのが六年前、本堂を修復したのが十二年前、お寺の音楽会を開催したのが十八年前、住職を継職したのが二十六年前、得度したのが三十四年前。

いつのまにやら子供も高校生と中学生になり、自分だけが時が止まっているような錯覚を起こします。これは七十才、八十才になったとしても同じような気持ちになるのかもしれません。

歌手の二階堂和美さんの曲に「いつのまにやら現在(いま)でした」という歌があります。

気づいたような気になって
案外それも的外れ
時は過ぎ 時は過ぎ
現在(いま)の私がありました 

お葬儀の折りに拝読している蓮如上人の「白骨の御文章」には、「この世の始中終、幻の如くなる一期なり」とあり、この世の始まりも途中も終わりも「幻のごとく」とお示しくださり、この世の儚さをこれでもかというほどに説かれています。そして最後に「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と締めくくられています。
 自分の人生がどのようであったとしても、ただ念仏ひとつが私の救いであったと多くの先人たちが口にしています。念仏ひとつとはどういうことなのか。私は何を求めどこに向かっているのか。私の救いとは何か。それを示してくださったのが親鸞聖人でした。そのみあとをしたい、報恩講をつとめます。

雪山俊隆(寺報191号より)

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領解文

浄土真宗の教えの要を端的にあらわした「領解文(りょうげもん)」という蓮如上人の文章があります。善巧寺では拝読していないため馴染みはないと思いますが、日常聖典にも掲載されていますのでご覧ください。

領解文の冒頭には、「諸々の雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力の心をふり捨てて」とあります。浄土真宗の救いは南無阿弥陀仏に集約しているため、さまざまな修行は一切必要ないとします。誤解されやすく注意が必要な内容で、救われるために修行をするのではなく、救いに預かっていることを着目していく教えです。

赤ん坊が親の名を呼ぶようになるのは、子が親かどうかを確かめてから呼び始めるのではなく、親のほうが呼んで欲しい名前を用意して、「ママよ」「お母さんよ」と繰返し伝えることによって、それを真似て呼び始めます。呼ばれるほうが用意して子に渡すのが呼び名です。アミダさまは、「ナモアミダブツ」という呼び名を用意してくれました。だから、呼び名はただの名詞ではなく、ありったけの願いが込められた名前です。アミダさまの場合、その願いは四十八個あると仏説無量寿経にあらわされています。

私がどうなればよいのかという視点ではなく、仏さまの願いを聞いていく教えです。私を中心にするのか、仏さまを中心にするのかの違いです。その願いを受け入れた上での行いは、仏になるための修行ではなく、ありがとうの気持ちでつとめましょうと勧めています。

雪山俊隆(寺報190号より)

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人間 親鸞聖人

昨年は親鸞聖人のご誕生八百五十年にあたり、今年は浄土真宗が開かれて八百年の年です。

改めて親鸞聖人のことを想う時、私が真っ先に思い浮かぶのは、お馴染みの正信偈も含まれている主著「教行証文類」の末尾に記されたお言葉です。そこには法然聖人のもとにいた頃、不当な念仏弾圧を受けて法然聖人をはじめ門下生が処罰を下されたことに対して強い怒りが滲み出た文章で記されています。念仏弾圧は親鸞聖人が三十九才の頃の出来事です。四十年以上の時を経てもつい先日の出来事のように記されているのは、その怒りが動機となり、法然聖人の教えの正当性を証明するために、この書を長い年月をかけて書き上げたからなのでしょう。この怒りを転じて大著を書き上げたことにとても感動します。

通常の仏教では、怒りは鎮めるものであり、いかにして取り除いていくかが重要ですが、それら煩悩を抱えてしか生きられない道を説く浄土教において、親鸞聖人は、怒りを転じる道を示してくださいました。並大抵な事ではありませんが、この生き方に私はとても共感します。

怒りをあらわにして記された文章の後には、法然聖人の書「選択集」を書き写すことが許され、釈綽空という名を頂いたことで結んでいます。ここには喜びが満ち溢れています。文章は多くの引文を用いて学術的に記されていますが、最後には、怒りや喜びが滲み出た文章で締められていることに、人間味の溢れる聖人の姿を思い浮かべます。煩悩の中に生きる私の道しるべです。

雪山俊隆(寺報189号より)

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しんらんさま

昨年は親鸞聖人のご誕生八五〇年という節目の年でした。せっかくのご縁、何か出来ないかと手掛けたのが親鸞聖人像マップづくりです。一般的に銅像と言えばまず名前があがるのが二宮尊徳さんで、銅像をまとめているホームページでもそのように扱われており、親鸞聖人の名前はありませんでした。主にお寺の境内にご安置されているため、多くの人にとってはあまり目にしない像のようですが、全国には二万ヶ寺以上の浄土真宗寺院があり、また関連する学校や保育園も多くあるため、きっと親鸞聖人像が二宮尊徳像以上にあるはずだと、収集を始めたのでした。

結果、現在までに約二九〇〇体見つかり、日本一多い人物像と言っても問題のない数になりました。銅像が多く作られるようになったのは、高度経済成長の時代です。現在は所有者も代替わりしているため、その思い入れは忘れられていますが、ほとんどの像は寄贈によるものなので、そこには様々な願いが込められているはずです。善巧寺の親鸞聖人像も、長らく草木に覆われて普段お参りされる方の目にもあまり留まらない環境になっていましたが、節目の年をご縁に改めて見直すようになりました。

銅像は安くありません。安価なものでも二~三白万、大型の像は五百万を超えるものもあります。高価だからいいというわけではありませんが、その背景には「私のお寺」という意識がとても高かったことが伺えます。改めて先人の願いに向き合うご縁にしたいです。


雪山俊隆(寺報185号より)
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しんらんさま

昨年は親鸞聖人のご誕生八五〇年という節目の年でした。せっかくのご縁、何か出来ないかと手掛けたのが親鸞聖人像マップづくりです。一般的に銅像と言えばまず名前があがるのが二宮尊徳さんで、銅像をまとめているホームページでもそのように扱われており、親鸞聖人の名前はありませんでした。主にお寺の境内にご安置されているため、多くの人にとってはあまり目にしない像のようですが、全国には二万ヶ寺以上の浄土真宗寺院があり、また関連する学校や保育園も多くあるため、きっと親鸞聖人像が二宮尊徳像以上にあるはずだと、収集を始めたのでした。

結果、現在までに約二九〇〇体見つかり、日本一多い人物像と言っても問題のない数になりました。銅像が多く作られるようになったのは、高度経済成長の時代です。現在は所有者も代替わりしているため、その思い入れは忘れられていますが、ほとんどの像は寄贈によるものなので、そこには様々な願いが込められているはずです。善巧寺の親鸞聖人像も、長らく草木に覆われて普段お参りされる方の目にもあまり留まらない環境になっていましたが、節目の年をご縁に改めて見直すようになりました。

銅像は安くありません。安価なものでも二~三白万、大型の像は五百万を超えるものもあります。高価だからいいというわけではありませんが、その背景には「私のお寺」という意識がとても高かったことが伺えます。改めて先人の願いに向き合うご縁にしたいです。
(写真:菅原智之さん)

雪山俊隆(寺報188号より)

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立ち止まる

前向きにいろんなことに挑戦することは、とても力が必要な分、やりがいや生きがいになり人生を豊かにすると思います。一方で、立ち止まることもとても大事なことです。これまでのことを振り返り、自分自身を見つめて、これから先のことを想像していく。そこにはマニュアルはなく、人それぞれの環境や精神状態によって向き合っていく問題だと思います。

親鸞聖人は九才から二十九才まで比叡山の生活でした。団体生活には規則があり、やるべきプログラムがいくつも用意されています。その生活に区切りを付けて山を降り、ひとり六角堂へ向かいました。六角堂は、日本仏教の祖である聖徳太子が建立した寺院です。家庭生活を営む中で仏教を支えに生きた第一人者でもある聖徳太子を通して、自分自身と向き合う時間であったと思います。そこへ百日間通うことを決意して九十五日目に聖徳太子の夢を見ます。その夢を元に、法然聖人の元へ同じく百日間通います。

言葉で言うのは簡単ですが、自らの意思で向き合う百日間は相当な時間だと思います。親鸞聖人にはどのような気持ちの変化が起こっていたのでしょうか。この時間があったからこそ、確かな支えを持って生きてゆかれたと思います。

その後、不当な処罰を受け仲間を殺される事態が起こり、流罪の生活を送られました。晩年には息子と絶縁する自体まで起きています。しかし、どのような環境になろうとも、変わらぬ願いに支えられて人生を歩まれました。

※画像は昨年11/28撮影

雪山俊隆(寺報187号より)
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