いつのまにやら

コロナ騒ぎになったのが四年前、ほっこり法座をはじめたのが六年前、本堂を修復したのが十二年前、お寺の音楽会を開催したのが十八年前、住職を継職したのが二十六年前、得度したのが三十四年前。

いつのまにやら子供も高校生と中学生になり、自分だけが時が止まっているような錯覚を起こします。これは七十才、八十才になったとしても同じような気持ちになるのかもしれません。

歌手の二階堂和美さんの曲に「いつのまにやら現在(いま)でした」という歌があります。

気づいたような気になって
案外それも的外れ
時は過ぎ 時は過ぎ
現在(いま)の私がありました 

お葬儀の折りに拝読している蓮如上人の「白骨の御文章」には、「この世の始中終、幻の如くなる一期なり」とあり、この世の始まりも途中も終わりも「幻のごとく」とお示しくださり、この世の儚さをこれでもかというほどに説かれています。そして最後に「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と締めくくられています。
 自分の人生がどのようであったとしても、ただ念仏ひとつが私の救いであったと多くの先人たちが口にしています。念仏ひとつとはどういうことなのか。私は何を求めどこに向かっているのか。私の救いとは何か。それを示してくださったのが親鸞聖人でした。そのみあとをしたい、報恩講をつとめます。

雪山俊隆(寺報191号より)

> 住職コラム
> 寺報PDF