人間 親鸞聖人

昨年は親鸞聖人のご誕生八百五十年にあたり、今年は浄土真宗が開かれて八百年の年です。

改めて親鸞聖人のことを想う時、私が真っ先に思い浮かぶのは、お馴染みの正信偈も含まれている主著「教行証文類」の末尾に記されたお言葉です。そこには法然聖人のもとにいた頃、不当な念仏弾圧を受けて法然聖人をはじめ門下生が処罰を下されたことに対して強い怒りが滲み出た文章で記されています。念仏弾圧は親鸞聖人が三十九才の頃の出来事です。四十年以上の時を経てもつい先日の出来事のように記されているのは、その怒りが動機となり、法然聖人の教えの正当性を証明するために、この書を長い年月をかけて書き上げたからなのでしょう。この怒りを転じて大著を書き上げたことにとても感動します。

通常の仏教では、怒りは鎮めるものであり、いかにして取り除いていくかが重要ですが、それら煩悩を抱えてしか生きられない道を説く浄土教において、親鸞聖人は、怒りを転じる道を示してくださいました。並大抵な事ではありませんが、この生き方に私はとても共感します。

怒りをあらわにして記された文章の後には、法然聖人の書「選択集」を書き写すことが許され、釈綽空という名を頂いたことで結んでいます。ここには喜びが満ち溢れています。文章は多くの引文を用いて学術的に記されていますが、最後には、怒りや喜びが滲み出た文章で締められていることに、人間味の溢れる聖人の姿を思い浮かべます。煩悩の中に生きる私の道しるべです。

雪山俊隆(寺報189号より)

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