「慶讃法要ご親教」に寄せて

本願寺では、親鸞聖人のご誕生850年、宗派が開かれて800年の慶讃法要が、3月から5月にかけて30日間行われました。その折に、毎回、本願寺の代表・大谷光淳門主(専如門主)よりご親教(法話)が読まれていました。問題となっている「新しい領解文」に関しても述べられているので、その箇所を抜粋して思うところを書いておきます。ブルー背景の箇所が専如門主のお言葉です。


今日、核家族や少子高齢化、過疎化など社会構造が急速に変化し、従来のように地域社会のなかで、また世代間を通して、み教えが伝わっていくことが非常に困難になってきています。

おっしゃるとおりです。核家族化は50年以上前からはじまり、少子高齢化は20年以上前から言われ始めました。この期間に我々はなすすべもなく時を過ごしてしまったことに、慚愧の想いと無力さを痛感しております。

このように社会状況や人々の意識が変わるなか、み教えを誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉で伝えていくことが、伝道教団である私たちの使命であると言えましょう。

そのような取り組みはとても大事だと思います。しかし、「新しい領解文」は、「誰もが理解できるように、わかりやすく、時代に合った言葉」にはなっていません。「弥陀のよび声」「愚身」「自然の浄土」「仏恩報謝」など、一般用語ではない言葉が使用され読み方もままならず、誰もが理解はできません。誤解を生みやすい表現も多用されているので、わかりやすくありません。また、唱和を推奨するという手法が時代と大きくズレていると思います。

以前、教育勅語を保育園児に読ませていることが社会問題になっていましたが、本願寺においても、数年前から「私たちのちかい」を本願寺派の関連学校に唱和させていると聞いて愕然としました。「新しい領解文」も各所で唱和が推進され、次代を担う僧侶たちの得度でも暗唱が義務付けられたと聞いています。これは、経典のように確立した言葉を儀礼として唱和することとは全く違います。若い人たちへ半強制的に読ませる行為は、重々気を付けていただきたいです。

石上智康前総長が若かりし頃は唱和ブーム真っ只中、一体感や全体の士気を高めることが強く求められた時代で、唱和には一定の力があったと思います。しかし、多様性が進んだ現代においては、個々の同意がない限り反発を生む可能性も高く、よほど慎重に進めないと支持されないでしょう。今まさに、その反発が起こっています。

親鸞聖人は『御消息』の中で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と述べられています。大乗のなかの至極とは、大乗仏教の根本精神である智慧と慈悲、自利と利他が、究極的に一つのこととして成り立つ根底にまで至ることであり、このような立場が、「生死即涅槃」とか「煩悩・菩提体無二」といった仏智の側の言葉で語られます。そして、ここにおいて、名号による阿弥陀如来の「そのままの救い」が、煩悩を抱えた私の身の上で成り立っているということができます。

ご説明のとおり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という表現は丁寧な解説がないと誤解されやすいです。解説が必須という時点で矛盾していますが、その解説も「誰もが理解できるようにわかりやすく」するのはかなり困難で、余計に混乱を生む可能性があります。勧学寮による解説と同様に、この説明もいったいどれほどの人が理解できるのでしょうか。

浄土真宗は他力回向の信心をいただいて、凡夫は凡夫のままに、そのお慈悲によって救われるという教えです。しかし、み教えに出遭う前と後で全く同じということではありません。如来のおさとりの真実に遇わせていただくことで、これまでとは全く違った新しい生き方が始まります。それは自分だけの安穏を願うような自己中心的な生き方から、全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方への転換です。そして、そこから仏恩を念報しつつ、そのお心にかなうよう精進努力する念仏者の生き方が開かれてくるのであり、その精進努力するままが、如来のお慈悲によって生かされている姿なのです。

今、多くの僧侶と門信徒が、「新しい領解文」をどのように受け取ればよいのかわからず苦悩しています。自分自身が受け取れない言葉は人にも勧められません。そのような状況においても、現場の声には一切耳を傾けずに推進しています。私の想いと本願寺の方針に大きなズレが生じて悩んでいます。この想いを人に伝えてよいものかどうかで悩んでいます。内部に声が届かないならば社会に訴えていくべきかどうかでも悩んでいます。

これらの苦悩は、「新しい領解文」の唱和を推奨する方たちにとって、「自らの苦悩」と受け取っていただけますか?受け取っていただけるならば、本願寺の教えを司る勧学寮、もしくは代表のご門主がご対応ください。渦中にお辞めになった前寮頭の徳永一道勧学にも真相をすべてお話いただきたいです。本来は、これらを主導している総長が答えるべきですが、石上智康前総長も池田行信総長も、責任放棄のスタンスを貫き、宗報6月号においても「門主と勧学寮をはじめ、まわりの責任」という内容を繰り返しおっしゃっているので、軌道修正する見込みは持てません。池田総長は「強制ではない」と公言されているので、ならば、得度での暗唱を義務付け唱和させることと、関連施設での唱和は真っ先に取止めてください。完全に強制的です。どうぞよろしくお願い申しあげます。

このたびの、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)が、従来の『領解文』の精神を受け継ぎ、智慧と慈悲という如来のお徳を慕いつつ、仏智に教え導かれて生きる念仏者の確かな指針となりますことを願っております。

従来の領解文の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」という信仰の在り方や、「後生の一大事」という視点が欠けているなど、その精神を受け継いでいるとは思えません。よって、確かな指針にはなりません。

そしてこれからも、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われた親鸞聖人のお言葉を胸に、すべての人々が心豊かに生きていける社会の実現に向け、ともどもに歩み進めてまいりましょう。

現在の本願寺の方向性に大きな不安があり、心豊かに生きられません。この私の苦悩は「すべての人々」に入れていただけますか?

「すべての人々」とおっしゃるならば、従来の領解文を大事にしてきた人たちにも思いを馳せてください。子どもの頃から日々読み続け、慣れ親しんでいる人たちがたくさんいます。浄土真宗にご縁のある者が正信偈に慣れ親しんでいるのと同様に、領解文で育った人たちがたくさんいます。

領解文は、普及している地域と、していない地域の温度差が激しく、石上前総長や池田総長の地域は普及していない地域ですね。本願寺においても、あまり使用されていないので、ご門主も領解文はさほど慣れ親しんでいないのかもしれません。

ちなみに、私のお寺も1つの会を除き領解文は使用していないので、あまり慣れ親しんでいません。それでも、大事にしてきた人たちの声を聞くと、その想いが伝わってきます。その憤りを少しだけ感じることができます。

「全ての人の苦悩を自らの苦悩とするような生き方」をほんの少しだけでも意識していただけませんか?

唯一の解決策はいたってシンプルで、「新しい領解文」を取り下げること。親鸞聖人が著書を繰り返し修正していたことを考えると、長年熟考された形跡もない言葉が、一発で完璧なものとして完成したとするほうがあり得ないことです。新しい試みをされたのならなおさらです。

それでも、どうしても制度上取り下げることが出来ないならば、取り下げられない制度自体を変えていくために、組織の構造を抜本的に変えていくしかないと思いますが、そのような時間をかけている猶予が我が宗門にはあるのでしょうか。

現在の状況を鑑みると、旧来のように黙して忘れられるまで待つという策は問題を悪化させるだけです。今回の出来事は忘れません。さまざまな経緯や対応もインターネット上と手元の資料として残り続けます。10年後も昨日の出来事のように情報が残っている環境です。問題意識を持っている人の多くは、軽率な発言や行動にならないように慎んで、耐え忍んでいる状況だと思います。身内の苦しみに目を向けてください。


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