「私たちのちかい」に寄せて

浄土真宗本願寺派では、2018年11月23日、本願寺の秋の法要でのご門主ご親教において「私たちのちかい」というタイトルの言葉が示され、以来、本願寺関連施設や宗門学校などで唱和されています。全国の各教区や各組、各寺院でも唱和が推奨されました。その言葉や唱和推奨というアクションに関して、一部の若手僧侶の間では疑問の声があがり、私もその想いを2年前にFacebookにて記しました。改めてここに再掲します。

一、 仏の子は、すなおにみ教えをききます。
一、 仏の子は、かならず約束をまもります。
一、 仏の子は、いつも本当のことをいいます。
一、 仏の子は、にこにこ仕事をいたします。
一、 仏の子は、やさしい心を忘れません。

この言葉は、お寺の子供会「日曜学校」で推奨されている「ちかいのことば」で、善巧寺では年に数回の子供会で唱和していた。高学年になるとこれを読むのがとても嫌だった記憶がある。いつからか、「ひとつ、仏の子は、いつも本当のことを言いません!」と言い換えて友だちと顔を合わせて笑っていた。みんなで真面目に唱和することへの反抗心か、そう出来ない自分を突き付けられることへの反発だったのか。

先日、本願寺より新しい言葉「私たちのちかい」が発表された。冒頭に添えられた言葉には、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが…」とあるので、阿弥陀如来のお心をいただいている人限定のお言葉と受け取れるが、文末には、「中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたい」とあるので、ピンポイントに絞って作成した言葉を、多くの人に触れてもらいたいという願いがあるようだ。これをもって、浄土真宗とはこういう指針を持った教えですよということを伝えたいのかもしれない。ここにその言葉を紹介する。

「私たちのちかい」
一、自分の殻に閉じこもることなく、穏やかな顔と優しい言葉を大切ににます、微笑み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず、しなやかな心と振る舞いを心がけます、心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく、人と喜びや悲しみを分かち合います、慈悲に満ち満ちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき、日々に精一杯つとめます、人びとの救いに尽くす仏さまのように

中学生から大学生までに触れて欲しいというだけに、子供バージョンよりもかなり難易度があがっている印象だ。冒頭の「自分の殻に閉じこもることなく」という言葉で、自分の殻に閉じこもる私を突き付けられ、続けて、すぐに眉間にしわが入り、人をののしる私の姿があらわになる。一つ目の誓いからかなりハードルが高く、子供バージョンよりも、より具体的にそう出来ない自分を意図的に知らせている印象を受けた。子供の頃を思い出し、さっそく、言い換えの遊びをやってみた。

「本当のわたし」
一、 自分の殻に閉じこもり、眉間にしわを寄せて、人をののしり、そんなどうにもならない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 むさぼり、いかり、おろかさに流され、しなやかな心と振る舞いを持てない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 自分だけを大事にしてしまい、人と喜びや悲しみを分かち合えない私を、慈悲に満ちた仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 生かされているとは思えず、日々に苦しむ私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。

不思議なことに、反対に読んでみると阿弥陀如来の大きな慈悲の心が浮き彫りになり、浄土真宗の特長のひとつを端的にあらわしているように感じた。なるほど、これはもしかすると、こう読むべきものとして作成されたのかもしれないと思うほど。ただ、原文は、子供バーションとは比較出来ないほどに自分を突き付けられて「ダメな自分」という見方を与えてしまう可能性がある。元気な人向けの言葉で、苦しむ私を置き去りにされた気分になる。しかも、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たち」が主語になるので、様々な人が集まる場で唱和するには無理があると言わざる得ない。

奇しくも、本願寺では「若者の生きづらさ」に焦点をあてた研修会を開いたり、「寄り添う」という言葉を多用して、困っている人たちへ手を差し伸べていくことを推奨している。今まさに闇の真っただ中にいて、自分の殻に閉じこもらざる得ない人たちへは、この言葉はとても厳しい。やもすると、上司から部下への強すぎる指導のように受け取ってしまうかもしれない。あるいは、数多くある「ちかいのことば」と同様に、風景が流れていくのように言葉も流れていくのだろうか。

学校にも、会社にも、市町村にも、世の中には形骸化された理想や指針があふれている。おそらく、多数がひとつの方向を向いていた時代には有効なものだったのかもしれないが、声をあげられず置き去りになった人たちへ少しでも目を向けようとしているのが「いま」だと思う。本願寺も同様に、把握出来ないほどの「ちかいのことば」があるが、多様化という言葉が定着して、苦しんでいる人たちへの眼差しが重要視されつつある現代で、これらの言葉は「生きた言葉」になり得るのだろうか。時代に合わせる意図があるのならば、今だからこそ、「道徳」の先にある「どうにもならない私」に向けた救いの言葉を届けてほしいと切に願う。

雪山俊隆

<私たちのちかい関連サイト>
・浄土真宗本願寺派公式サイト
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_000322.html
・お西さん(本願寺公式サイト)
https://www.hongwanji.kyoto/know/chikai.html