
無明(むみょう)
百八つ、八万四千・・・いろんな煩悩があるわけですが、諸悪の根源は、この無明なのだと仏さまはおっしゃっています。
むかしからこのことばはあったようで、よこしまな考えや、深い欲望のために、仏法の真理を悟ることができない状態を、酒の酔いにたとえたようです。もとは空海の「徒らに忘想の縄に縛られ、空しく無明の酒に酔う」という言葉から広まったようですが。
善導大師はこの無明について「無明煩悩のわれらが身にみちみちて、欲も多く、いかりはらだち。そねみねたむこころ多くひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」ーーーという強烈な一文を残されておりまして、それこそが「凡夫」だとおっしゃってくださるのであります。いやあ、もう、どうにもこうにも、ここまでいわれたら。口のききようがないといった感じでありまして、それなら、サッと酔いがさめるかといえば、またまた、もう一杯・・・。

悪作(あくさ)
「これ! そんなワルサしてはいけません」と、小さいころおばあちゃんによくいわれたものです。あれも、悪作からきているんでしょうね。
蓮如上人の言葉に「神にも佛にも馴れては手ですべきことを足でするぞ」というのがあります。
むかしから、敬うべきもの、尊ぶべきものはたくさんありました。浄土真宗では弥陀一仏といわれますが、世の中では、神、仏、太陽、月、じいさん、ばあさん、父や母など。それにいまでは学校の先生やお医者さま・・・と、いろいろあるわけですが、近頃は、どうもなれなれしくて、こうしたものに手を合わすどころか、逆にアゴでつかっているみたい。
なお、この悪作というのは、身体の行為による罪悪という他に、それこそワルサなんだから、悪いことをしたとして、悔い改めれば、罪はなくなる程度の小悪であるともいわれています。

愚痴(ぐち)
グチとは、無智なものからこぼれ出るものだそうです。すんだあとで、しまったというのは、智恵がないからなんですね。はじめにわかっていれば、失敗なしですもんね。
あらゆるものは、ご縁によって成り立っている。深く因果の道理をわきまえて、善い因をつくって、善い結果をうる、これが智恵というものなんですが、とにかく、これがわかったようでわからない。名利に目がくらむと因果の道理もあればこそ、あれもこれもとうつつを抜かし、すんだあとで、しまった、となる。
台所にある植木鉢だって、枯れる前に水をやり、正しい育て方を知っていれば、美しい花を咲かせてくれます。そんなこと、よくよくわかっているはずなんだけど、じつは、ちっともわかっていない。いつまでたっても、グチばかり。花ならもう一度ですむけれど、わが人生は一回こっきりなんですがねえ。・・・

不和合(ふわごう)
接着剤ーーーボンドっていうんですか。すごいですね。何でもくっついちゃうんですね。むかしなら、小麦粉こねたようなもので、なかなかくっつかなかったけど、いまや、紙でも布でも、木でも鉄でも陶器でもなんでも、ペタン一発なんですね。
でもどうしてもペタンとくっつかないで、これにつけるボンドはないというものがあるんですってね。
そう、人と人、これですね。不和合です。仲良くくっつかないんです。さっきのお母さんとお隣りの奥さん。嫁と姑、その他モロモロ・・・自分にとって都合のいいものとなら、それこそいつでもどこでも、すぐにペタンなんですが、一つ都合の悪いことがあると、もうくっつかない。ペタン変じて、ドタンバタンと、ケンカです。
好きですねえ。火事とケンカは江戸のなんとかっていうけれど、江戸だけじゃないよ。どこだって、我と他がガタガタ。彼と此がピシピシ。ガタピシガタピシ、やかましいこった。

戒禁取見(かいこんしゅけん)
もっけのさいわいという言葉があります。このもっけのさいわいというのは「勿怪」と書いて、つまり物の怪、もののけこことなんだそうです。で、もののけですから、思いがけないことという意味になって「物怪の幸い」と使われるようになったんです。
ところで、戒禁取見。聞きなれない言葉ですが、戒禁とは、仏教以外の外道の立てた戒律や禁則のことでありまして、そういう誤った教えを、ありがたくいただいて、これこそしあわせの道、さとりの道とうれしがっている人のことを戒禁取見の人というわけです。
そんな人、見たことないって? 冗談でしょ。茶ばしらが立ったとよろこんで、今日の運勢は吉とか凶とか、星座があっち向いたとか、キツネがついたとか、ヘビがそうしたとか、三りんぼうだ、友引だとか、交通安全のお札で事故がないとか・・・
みんなやってるじゃないですか。因果の道理に反するものは、みな誤りなんだけど、世の中、本当に勿怪がワイワイだねー。

貪(とん)
鎌倉に幕府があったころは、天下の一大事となれば、とにかく、カマクラに駆け参じたものだそうです。
で、いまはどうかというと、カマクラでなくて、カネ倉。バクフでなくてサイフ、ですからねー。
貪というのは、迷いの生存の根元としてのむさぼりのことなんですが、字を調べてみたら「貪」は「今」と「貝」から成っています。で「今」はなにかというと、家の屋根の下ということなんです。そして「貝」はといえば財産のこと。つまり家の中に金をためているという字なんですって。
新聞見たって、社会面をにぎわすもの金、金、金、そして、なぜか近頃、どこの新聞も、経済面を増ページして、政治や社会より、カネを売り物にしているみたい。あいさつ、より、万さつ、という時代なんでござんすねー。

愛着(あいじゃく)
「長く使っていると、愛着がわいてくるもんだわね~」
なんてよくいいます。物をいとおしむ心なんだからいいじゃないか、何事も愛着を持たねば・・・とおっしゃるかもしれませんが、仏法ではこれを、むさぼりの心でもって、ものにとらわれる、いやらしい心だというんです。同じ意味で「渇愛」という言葉がありますが、ノドが乾いて水を求めるごとく、貪ってとどまるところを知らないのがわたしたちだといわれます。
ハラがへったら、食いたい食いたいという愛着がわいてきます。で、ガツガツと食べる。終わったら「ああ、うまかった、もう死んでもいい」なんていったりするけど、あれで死ぬ人はいませんね。またハラがへって、もうちょっと、もうちょっと・・・物でも、人でも、なんでもかんでも、気に入ったら、トコトン、もうちょっともうちょっと・・・いまの日本、これで世界中からきらわれているみたいです。

悪見(あっけん)
むかしからこのことわざはありましたが、当時はビンボーな人が、高い物や本物が買えないで、安物を買い、そのため、長持ちもしないので、また安物を買うこと、結局、ビンボーヒマナシということになる、とまあこんなことだったかと思います。
ところが、近頃はちょっと違うみたい。売り手の方がとにかく上手で、安物や偽物をいいものだ、本物だといって、高い値段で売りつける。これをまた、コロリとだまされて買うんだよねー、なさけないかぎりです。
ところで、悪見ーーーこれは、ものごとの真実を見る目を持たないことでありまして、細かく分けると、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見と、五つあるといわれます。その説明は、あとの項へちりばめておきますが、とにかく、買い物で安物や偽物をつかまされたのなら、訴えもできますが、人生の本物と偽物も区別がつかず、一生、偽物で終わるとしたら、こりゃあ、とり返しがつきませんぜ。

こんじん
心のめいること。ふさぎこむことを(昏)沈といいまして、ドローンとしちゃって、もう何もやる気なしという状態です。
で、やる気がないから静かにしているかといえば、これだけは達者で、朝から晩まで不平不満不服をタラタラ・・・
「あーあ、やんなっちゃうなあ。もう少し寝かせてくれないのかねえ。ほら、これだろ、朝ごはん。もうちょっとましなものないのかねぇ。ああいやだいやだ。このラッシュ。もっと人口減らないもんかねぇ。それにしても、会社もきついよなあ。これだけ働かせといて、ちっとも給料あげないんだものなあ。ちぇっ今夜も屋台のおでん屋か。酒、うすいんじゃないのかい。それにしてもあの上司・・・。あーあ、帰るか、うちじゃ女房がふくれているんだろうなあ・・・ただいまー」
と奥さんが、
「また飲んできたのォ。かせぎもないのによくやるわねえ」と、またブツブツ・・・。

放逸(ほういつ)
気ままに遊ぶこと。怠惰なこと。心が散漫で、善い行いに専心しないこと。これを放逸といいます。
「ちょっと、遊んでばかりいないで、勉強したらどうなの? あなた、何年生になったの。少しは将来のこと考えて、自覚をもってやらなきゃあ」
ドラクエかなんかうつつを抜かしてピコピコやってる子供に、むずかしい顔をして小言をいっているお母さん。自分はテレビの娯楽番組でバカ笑い。
お父さんはといえば、昼間の仕事でぐったり、家へ帰れば、一杯飲んで、寝るか、ウサを晴してステテコでカラオケ。
「困ったもんだなぁ、ばあさん。わしらの若いころは・・・」
なんていいながら、することなくて、これまたテレビでうつらうつら・・・
いまや、こんな放逸家族が日本中に何百万何千万・・・。豊かになったからなんでしょうねーーー。

嫉(しつ)
ねたみ心でありまして、わが身の名利を求めるが故に、他人の繁盛しているのを見たり聞いたりすると、くやしくてならないというあれです。
だいたい、わたしたちは、他人の幸福をすなおによろこぶこころがありません。
隣がりっぱな家を建てた。
「まあ、よかったわねーーー!」
なんて、口ではいうけど、ハラの中は煮えくり返っていて、なんとか慢心でもって、相手を引きずり下ろして、安心したいと願います。ところが、どうあがいても勝ち目はない、となると、こんどは、この嫉です。ねたみです。
「そりゃ、いいわよ、あちらさんは、地位もあるし、財産もあるし・・・それにしても、ああ、グヤジー」となる。困ったもんです。
あそうそう。なぜねたむかというと、自分も、その気があるからなんですよ、その気がなかったら、ちっともクヤシくないもんね。

悼挙(じょうこ)
悼挙というのは、心が軽躁なことなんだそうで、軽はフワフワと浮いている感じ。躁はザワザワ落ち着かず、さわがしいという感じであります。
お医者さんに聞くと、これは一種の病気でありまして、病名を「マニア」というんだそうでありす。
つりマニア、カメラマニア、パチンコマニア・・・いろいろあるようですが、俗にいうマニアが高じると、もう、のぼせちゃって、他人のいうことはちっとも聞こえない。ペラペラペラペラ、わが自慢をいうだけいわなきゃ気がすまないってことになるようです。
お経には、この悼挙と、後に出てくる恨沈(こんじん)とを合わせて、心のフタの一種であると説いてあります。じゃあ他のフタは何かといいますと、一に先の「欲貪」二に「瞋恚」三に「睡眠」四にこれ、そして五は「疑」のフタでありあます。こいつがしまると、とにかく”プッツン”だそうです。

諂(てん)
他人に気に入られようとする心を、諂といいます。いまの言葉だと、おべっかとか、お追証(ついしょう)とか、へつらいとか、なんだか聞くだけで、いやーな感じがですね。
そうそう、ゴマをする、なんてのもありますね。なんでゴマをするというのかというと、あれ、ゴマをすると、すり鉢にもすりこぎにも、そこらじゅうにくっつくんですね。で、だれにでもくっつくというところからきたんだって。
それから、ごきげんとり、なんて言葉もあります。これは仏教語でして、譏謙と書きます。譏は、そしる。謙は、きらう。つまり、そしられたり、きらわれたりしないようにするにはどうするか、という戒律から出た言葉なんです。で、そうするには、ゴマすって、おべっかつかって、へつらうのかといえば、そんなことしたら心に鉄火、自分の心に怒りや卑屈さが残ります。要は、悪い事をせず、物を貯めず、ぜいたくしない、これなんですと。

邪慢(じゃまん)
智恵もない。徳もない、真実まことのかけらもない。困ったものですねえ、最近のテレビ。なのに世の人みなすべて、テレビのいうこと真にうけて、わかったような顔をして、
「ああ、あの問題ね。そう、あれはね、そもそも・・・」なんてのたまう。聞けば、ほとんでテレビの受け売り。なさけないったらありゃしない。
それに、ほら、よくあるじゃない。テレビじゃないけどおうわさで「これ、体にいいのよ」とか「ゼッタイ効く!」なんてたぐいの、よこしまな情報。
さらに、近頃多いのは、深く因果の道理をわきまえず、占いやら、まじないやら、現世祈祷やらに、うつつを抜かし、自分だけバカ見るのならまだしも、したり顔で、他人をそそのかし、悪い仲間を引きずり込むやから。許せないね。
いいですか。よこしまでない、正しい教えの基本は、なんといっても「深く因果の道理をわきまえる」ということ。忘れないでね。

失念(しつねん)
「あーそうですか。ハイ、ハイハイ、うん、なるほど、そうですね。ハイハイ、わかります。いやあ、そう! ごもっとも!」
よく人の話を聞いて、相づちをたくさん打つ人、いますよね。あれ、全部聞いているのかしら? ひょっとしたら、いいかげんに話をやめろといっているのかもしれないし、相づちうちながら、自分のいうことを考えているのかもしれない。よくあるでしょ。テレビのインタビューなんかで、同じこと何度も聞いてるの。あれも結局、聞いてないんだよね。
それに、お酒飲んだりしたら、もう、ポーッとしちゃって、忘れるどころか、自制心まで失ってしまう。昔、おしゃかさまの弟子で、酒を飲んで、ボーっとして、聞いた戒律みな忘れて、近づいてきた女性にウソをつき、ものを盗んで、犯して、これは大変と、殺してしまったという事件があったそうです。それから、不飲酒、酒に飲まれるなという戒律ができたそうです。お経の名は・・・忘れた。

悪口(あっく)
うわさ、という字、尊い口 なんて書くけど、どうしてなんでしょうねえ。わたしたちの口から、尊いものなんて、出てくるわけがないと思うんだけど・・・。
そりゃあ、最初はいいんです。
「ほら、奥さん、あの方ご存知でしょ」「ええ、いい方よねえ」「そう、とってもいい方ですねえ」とくる。で、ここで終わればいいけど、実はここからがはじまり。
「けどさあ、なかなか、あれで、いろいろあるそうなのよォ」
「でしょ。わたしも聞いたのよ、それ」
なんてことになると、止まるところを知らず、ドドドドーッと、悪いおうわさの数々。いやですねえ、なんていいながら、結局は、すきなんですねえ、他人の悪口をヒソヒソやるのが・・・。そういえば、シャバ=娑婆の元の意は、他人の足を引っぱる所、なんですってね。

我慢(がまん)
じっとガマン・・・のもとの意は、自分だけは変わらないと思い上がることなんですって。
「青葉の候、お変わりございませんか?」
などというお便りをいただいて、
「有難うございます。相変わらずの毎日で・・・」
などというお返事を書いたりしていますが、変わらないわけがないですよ。諸行は無上でありまして、時々刻々、生滅変化しているんです。どれくらいの速さで?なんて聞いた人がいるんでしょうね。お経にちゃんと出ている。刹那無常。その一刹那とは、まばたき一つ。時間でいえば、七十分の一秒ぐらいの速さで、すべてが変化しているとある。
いまなら、もっと正確な時計があるから、百分の一秒、いやもっと短い時間かもしれない。なのに、です。世の中が、そして、他人さまが、どう変化しようと自分はちっともかわらないと思っている。ガマンならんだろうね、仏さまは。

卑下慢(ひげまん)
「りっぱな家が建ちましたねえ」
「いやいや、ほんのウサギ小屋で。」
このとき、あなたがこう答えたらどうなるか?
「なるほど、そういえばウサギ小屋だ」
「まあ、奥さん、ステキなお着物」
「あらいやだ、安物、安物!」
このとき、あなたがこう答えたらどうなるか?
「あら、ホント、安物ねえ」
まあ、おそらく、しばらくは絶交ということになるでしょうね。そうなんです。こちらがオメたら、日本人はすぐ卑下する。これを美徳のように思っている。しかし、仏さまにいわせると、品性下劣。卑下したら、もうひと回り大きなホメことばが返ってくることを期待しているだけなんだ。これを卑下して自慢する卑下慢というんです。よくあるよなぁ。

慢(まん)
驕慢心を細かく分けると、まず、この「慢」です。どんな思い上がりの心かというと、他人と比べて思い上がるという心です。
「みんな仲良くしましょうね」などと口ではいいながら、わたしたちはいつでも、他人と比べて、自分が一番よい子だと思い込んでいるものなんです。「凡夫は自他の差別を見る」とある和上がいってますが、ほんとうにそんなものなんですね。
山根の源左さんは、これとまったくさかさまで「いっち(一番)悪いでしあわせだぁ」といいました。ろくでもないのは他人ではなくて、このわたしだったと気づかれたのです。そして、そんなわたしに、如来さまはご苦労くださっているのだと、よろこばれたのです。
なかなか、源左さんのマネは出来ないんじゃないですか?「なによ わたしはちっとも悪くないわよ。悪いのはまわりの人でしょッ」いつでも、これですものねえ。

不正知(ふしょうち)
不正知というのは、不完全な自覚のことでありまして、やるべきことは何なのか、また、やってはいけないことは何なのかが、わからない状態をいうんだそうです。
こんなことをいうと、あの、ハムレットの名セリフを思い出す方もいらっしゃるでしょう。
「トゥ・ビー、オア・ノット・トゥ・ビー、ザット・イズ・クエッション」(長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ)という、第3幕1場のセリフ・・・いいですね。え、ローレンス・オリビエやら、芥川比呂志を思いだしちゃう。
まあ、それはさておき、ここで注目すべきは、ザット・イズ・クエッションでありまして、どうすべきかそれが疑問だという。問題意識をもっている。彼は狂気に走ったけれど不正知ではなかったみたいですね。それに比べるとわれわれは、やっぱり「馬の耳・・・」?

慳(けん)
あの人はケチだから、出せといっても、舌も出さん、なんていい方ありますね。
「おい、悪いがトンカチ貸してくれないか? え、だめだって? 持ってるんだろう? それでもダメ。ちぇっケチ。へるもんじゃなし・・・。お前みたいなケチ、はじめてだ。仕方がない、俺のを使おう」
いやまあ結局、みんなケチなんですなあ。そういえば、目蓮尊者のお母さんもそうでしたってね。とってもいいお母さんだったんだけど、ある時、乞食がやってきた。施してやろうと思ったけど、息子、目蓮のことを考えて「これを乞食にやったら、目蓮の分が減る・・・」と思って断った。そのケチの報いで、お母さんは餓鬼道に落ちた・・・というお話、お盆によく聞くでしょう。あれも目蓮尊者のお母さんだけじゃありませんよね。世界中のお母さん、みんな子供のために、餓鬼になっちゃうんですよねえ。乞われて、なんでも出せる人、いないよねぇ。

偸盗(ちゅうとう)
中国の善導大師という方が、その書物に、「わたしは無始よりこのかた、この身に至るまで、一切の三宝、師僧、父母、六親眷属、善知識、法界の衆生の物を盗み取ったことは、数を知ることができない」と書いておられる。びっくりしましたね。
「他人さまのものを盗んではいけません」といって育てられたわたしは、はじめて、この善導大師のことばを聞いて、この方、そんなに悪い人だったのかと思ったものです。
しかし、考えるまでもなく、わたしたちはみんな、他人さまのものを盗んで生きているのです。もちろん、それをいただきものだと手を合わせ、おかげさまとよろこんでいるなら別ですが、ほとんどは、どっかからふんだくって自分のものとして、それこそ「盗んだもので、わがもの顔」。「盗っ人たけだけしい」とはこのことじゃないですか。一度指折り数えてみてはいかがでしょう。なにもかもが他人さまからのいただきもののはずです。

驕慢(きょうまん)
「差別の根源は、衆生の驕慢心にあり」とおっしゃったのが、おしゃかさま。わたしたちの思い上がりの心が、世の中に多くの差別を生んでいるというわけです。
国民の意識調査なんかを見ますと、近頃はほとんどの人が、中流気分だそうですが、じつはこれ、アンケートに答えた適当なタテマエなんじゃないですか?ホンネはやっぱりなんてったって、自分が一番よい子だと思っているはずです。
とにかくわたしたちは、それくらい思い上がっていなくては、安心して生きてはいられないんじゃないですか。もちろん、そんなこと、他人に言えたもんじゃないですが、心の奥底をさぐってみれば、それこそ、内心ひそかに、後生大事に、こんな煩悩をかかえ込んでいるわけです。
ところがね、この驕慢心というヤツは、他人を傷つけたあげくに、なんと自分まで苦しめてしまうというおそろしい煩悩なんですよ。

無慚(むざん)
無慚とは、はじらいのないこと。自分自身に対して、罪を罪として恥じないこと、でありまして、この無慚のものは、迷いの六道をぐるぐるとめぐる、輪廻するといわれています。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上ーーーという六つの世界でありまして、迷いの衆生はこれをへめぐるんだそうです。
ところで、いま、迷いの衆生といいましたが、これは仏さまがおっしゃるお言葉で、私たちは、じつは、迷いを迷いと知らずに迷っているのであります。迷いを迷いと知ったら、「こらえらいこっちゃ」という気になりますから、次ぎからは迷わぬようにしようと心掛けたりもします。ところが、知らずに迷っているのがわたしたちでありますから、それこそ身のほど知らず、なのであります。
「二つの黒法あり。無慚と無愧なり。この二つ、よく世間を破壊す」と仏さまはおしゃってます。世の中悪くするのはこの心です。

辺見(へんけん)
辺見というのは、片寄った極端なことに執着する心でありまして、日常生活の中でもよくあることです。
「だれが何といおうと、こうだ!」
などと両極端がぶつかり合ってカンカンガクガク。○か×か、是か非か、黒か白か、ピンポーンかブブーか・・・なんてこと、しょっ中ありますよね。
そこでその極端の最たるものはというとーーー。
「死んだらしまい。なんにもなし。灰になったら、ハイ、それまでよ」という考え方。これは仏法では「断見」といって、これに片寄ることは誤りだといいます。
で、もう一つありましてーーー
「死んでも、霊魂は不滅だろ。このわたしのタマシイは、永久不滅なんだよ」という考え方。これは「常見」といってやはり誤り。
じゃあ一体どっちなんだと仏さまに聞いたら、黙して語らず、だったそうです。

懈怠(けだい)
すべての善い事を、おこたり、なまけることを懈怠といいます。
近頃、とくに、豊かになって、一生懸命、精進努力するなんてのがはやらなくなってきました。仏道修行をなまけるどころか、日暮らしのなまけ志向も大したものです。世にヒット商品などといわれるものがありますが、ほとんどは、便利というより、楽を売る商品のようです。
なんでもかんでもスイッチポンのリモコン付、全自動という電器製品から、ほかほか弁当、宅急便、数えあげればきりがありません。
でも、そのラクチンを手に入れるには、やはり、それなりに働かなくてはなりません。ところが、仕事となるとーーー
「あーあ。疲れるなあ。もうちょっと楽な仕事で、もうちょっと金をたくさんくれないかしら・・・」
おしゃかさまの遺言は「つつしんで懈怠することなかれ」なんですが・・・。

瞋恚(しんに)
「俺も、これで、ずいぶんガマンはしてきたんだ。しかし、今日という今日は、もうガマンにもほどがある。とうとう堪忍袋の緒が切れた!」
お不動さんみたいな顔をして、ついに怒り爆発! なんてこと、よくありますねえ。本来、それからもう一ペン、辛棒する、それが堪忍、あるいは、忍辱(にんにく)というんですが、だいたい、人のガマンの程度というのはタカが知れていて、堪忍袋にヒモがついていたのかしら? と思うほどです。
人は、自分の意のままにならないことにはハラを立てます。そして憎みます。その心はエスカレートして、しまいには、都合の悪いヤツは消えてなくなれ、という気にまでなってしまいます。はっきりいって、これは心の中で殺人を犯しているのです。おそろしい心です。三毒の煩悩の一つです。そして、その心のままが、地獄だといってもいいでしょう。わたしたちは、心の中に地獄を持っているのです。

疑(ぎ)
行ったこともないし、見たこともない。地獄や極楽あるやら、ないやら・・・こんな疑いを持つ人、けっこう多いんですよねえ。
わたしのひいじいさん、鮮妙という和上の前に、元気な男があらわれました。
「和上、わたしは、仏法聴聞してはおるけど、どうもあの地獄や極楽というのは、ないのと違うか?」
「あるぞ。たしかに」
「まさか、そんなら地獄はどこにある」
「お前の足の下じゃ」
「足の下は床じゃ」
「その下じゃ」
「その下は地べたじゃ」
「その下じゃ」
「そんなら一ぺん掘ってやろうか」
「そうそうそれじゃ、そのお前の心と姿が地獄じゃ」
では、極楽ってどんなところ? 仏さまってどんな方? 左様、疑わずに後編の本願カルタをご覧あれ。

見取見(けんじゅけん)
聞きなれない煩悩ですね、けんじゅけん。誤った見解を正しいと執着すること。あるいは愚劣な知見をすばらしい考えであると思い込む心、こんなのを見取見というんです。
いまや情報ラッシュの時代ですから、誤った情報はいくらでもあります。いや、ほとんどといっていいくらい、真実なる情報などというものにはお目にかかりません。
なのに、わたしたちときたら、その情報を真にうけて、
「間違いありませんったら。だってテレビでいってたもん」
とやります。テレビでいってりゃ、みんな本当だと思っているというのは、とっても、こわいことだと思います。
最近では、健康に関する耳より情報とか、困ったものでは、宗教に関する邪悪な情報がずいぶん多い。ニュースだってあぶないもんだ。気をつけて下さいね。 自分でこうだと思っていることも、じつは見方はたくさんあるんですからね。これ、ホントの情報です。

両舌(りょうぜつ)
これはどこやらの、ことわざ辞典で見つけたもので、その解説にはーーー
「言うことはやさしく、おだやかであるが、内心は陰険なことをいう。この種の人間には腹黒い政治家肌の人もいるが、とにかく一種の変質者で、女性のように柔かい外見とことば使いだが、一たんその本性を出すと、氷のような残酷なことや惨忍なことを平気でやるものである」
とありました。読んでいて思ったんだけど、腹黒いのは政治家肌の人だけかしら?
そしてまた、こういう人は一種の変質者なのかしら? そんなことありませんよね。わたしたちみんな、これですよ。みんな口で甘いこといってるけど、ハラの中はまっ黒。
で、仲のいい二人を見たりすると、ハラに剣でありますからして、片方づつによからぬことを告げて親好を破る、なんてことは日常茶飯。でもね。こういうの地獄に落ちたら、抜かれるんだって、舌を。一枚、二枚、三枚・・・。

闘(とう)
<先の「諍」という字は、力のはいった腕を強く引きとめるところから、まあ、引っぱり合って相争うという意味になったそうですが、この「闘」というのは、そのものズバリで二人が手で打ち合っている形からきた字だそうです。
「コノヤロー!」
「なにィ!!」
だいたい、自分の気に入らないことには、ハラが立つ。ハラが立ったら、ケンカになって、とっ組み合いになる。で、弱者救済どころか、強い者が勝ち、となる。
人はもともと闘争心を持ち合わせた生き物でありまして、放っておくと必ずケンカになるわけです。
「ケンカをして、勝ったキミ。できたら、少し、負けた相手のことを考えてみよう。もしそれができたら、キミは、ほんとうに強い子だ」(永六輔)「ハッハッハッ ざまあみろ!(増上慢)」では困るのです。

妬(と)
前と合わせて、嫉妬。やきもち。
この妬の字は、もとは、(女+戸)と書いて、他の男女が仲良くやっているのをねたんで、女が石をもって、戸口に立っているココロだ、とかなんとかいってますがね、どうしてここで二文字とも女ヘンになるのか、なんてこと、こだわり出したらキリがないけど、ねえ、男だって、シット心、あるよねえ。
で、このやきもちやきのことを、近頃は、トーストなんていうそうだけど、知ってました?
まあ、そんなことどうでもいいけど、どうでもいいついでに、じゃあなんで、やきもちやきなんていうの? と聞いたら「これはね、否気持、つまり、イヤキモチ、からきたんです」といった方がおられたが、なんだか当たってる感じですね。他人のしあわせは、イイキモチになれないで、イヤキモチ、つまりヤキモチになっちゃうってわけ。どう考えたって、みんなイヤキモチ、持ってるよねーーー。

無愧(むき)
愧というのは、心を鬼にすることでありまして、この鬼というのは、ギュウッと縮めるということなんだそうです。で、つまり、愧とは、外に恥じ、天に恥、悪をおそれるという心になりまして、これが世の中を良くするすばらしい心の根本なのであります。
が、ここでは「無愧」であります。そういう心がまったくない、破廉恥(ハレンチ)極まりない心というのであります。この心は、世の中を破壊する元凶といえるでしょう。
さらに、お経には「棄恩背徳」とあります。恩を棄て、徳に背く・・・。
「悪いこと好きですか?」と聞かれたら
「嫌いにきまっている」
とおしゃるが、ほんとうかしら。
口ではいっても、心の奥底では、わたしたち、悪いこと大好き人間なんじゃないですか?。
で恩を忘れて、おかげさまより、お金さま、の毎日ですもんねー。

忿(ふん)
朝に礼拝、夕べに感謝ーーーという言葉がありますが、なかなかそうはいかないのがわたしたち。どうやら毎日、朝に乱心、夕べにカンシャクてなところではないでしょうか。
忿という煩悩は、自分の心にかなわぬ対象にに対して、怒りの情をいだくことだそうですが、それこそいつでも、フン!フン!プン!プン!、ばかりですよねえ。
山陰の妙好人、源左さんでしたか。
「あんさん、癇癪というのはな、かんしゃく玉ちゅうて、玉じゃ。宝物じゃ。じゃから、めったに他人さまに、見せはんすなよ」
といったそうです。うまいですねえ。わたしたちの心の中は、それこそ煩悩だらけで、どうにもならんですが、ハラの立ったときには、このことばを思い出してみなくてはいけませんねえ。なんといっても、癇にさわれば、筋肉がひきつり、気分いら立ち、癪にさわれば、キリキリカリカリ胃やら頭にきちゃうのがわたしたちなんですから・・・。

散乱(さんらん)
落ち着かないんです。じっとしていられないんです。じっとしていても、心は千々に乱れちゃって、なにやってんだかわからないんです。だれが? いえ、わたしが。そして、みなさんも、でしょ?
人の心って、どれくらいの速さで、コロッと変わるのか、コロコロというけど、その、コロとコロの間はどれくらいなのか、そんなことどうだっていいじゃないかと思っていたら、ちゃんと、お経に説いてあるんですね。
コロとコロの間は一刹那ーーーこの刹那というのは、ほら、刹那的なんていうでしょ。あれです。これはインドの時間の単位でしてね。
男の人が、パチンと指を鳴らすでしょ、あの時間を六十五刹那としたという説もあるくらいで、まあこれをいまの時間にしたら七十分の一秒ぐらいじゃないかというんですけど、ちょうど写真機のシャッター、そしてわたしの、あなたのまばたき一つで、コロッと変わっちゃう。そんなものですって。

欲(よく)
欲の皮がつっぱるなんていいますが、お経には欲のフタがしまるというのがあります。このフタがしまると、他人のいうことが聞こえないそうです。
で、それはどんなときかといいますとーーー
まず、女の人は、一に色香。美しくありたいと願う心でありまして、これにはどうも力が入ります。二に家庭。一家の主はとうさんかもしれないが、帰り所はおふくろのふところですものね。三に子供。チャイルド(子宮)というぐらいですから、子の痛みがわが痛み。欲も出ます。四に生活。わかりますねえ。亭主はみんな感謝してます。そして一から四までに一生懸命ですから五に安全、平和を願うわけです。女の欲はこの五つに関する事がほとんどです。
さて、男は? たった一つ。名利です。えらくなりたいが男の欲望ーーーそうかも知れませんね。まあ、そんなわけで男も女も、その道にまっしぐら・・・なのであります。

睡眠(ずいめん)
ねむくなるのは、生理現象だと思い込んでいたんです。お医者さんに聞いたら、ホルモンの分泌の関係だとおっしゃるし、聞かなくったって、疲れたら、ねむくなるんですからそれまで煩悩だといわれたら、ついてゆけない感じもします。
もちろん、仏さまだっておやすみになりました。必要最小限の睡眠は欠かせないものであります。しかし、いつもボンヤリ、アクビとコックリ・・・というのはいただけません。
仏さまがおっしゃるには、この睡眠ーーーつまりねむ気というのはどこからくるかといえば、なんと無智からくるんですって。智慧がないからよく眠る。つまり、アホはよくねむるんですと。まいりましたね。ハラが立つけど、当たってますね。ムズカシイことやわからないことを聞いていたら、それが大事なことでも、ウトウトですからね。どんな時にねむくなり、どんな事でチカッと目が覚めるかーーーこれであなたの智恵の程度が計れますよ。

慢過慢(まんかまん)
自分より秀れた、立派な人物を差して、先程は「俺くらい」と、自分と同等に見るという、思い上がりの心「過慢」を紹介しましたが、こんどはそれがさらにエスカレートして、「あれより自分が上」と思い上がるマンカマンというすごい慢心です。
お坊さんとか、先生とかによくある慢心で、たとえばこうです。
「ほら、今、テレビに出たり、本を書いたりしているあの人、有名になりましたね。りっぱな文化人ですねえ。そう、あの人、じつは私の教え子なんですよ」
本人はそういうつもりはないんでしょうけど、やっぱりマンカマン。
「そうそう、あの人は財界の大物になりましたねえ。ええ、あの方、うちの門徒なんですよ--」今風にいえば、カンケイナイッツーノ。自分がえらいわけじゃないし。とまあそんなわけで、カマン、ガマン、マンカマン・・・思い上がりの慢心には十分気をつけて・・・。

害(がい)
生けるものに危害を加えて、快しとする心を「害」というんだそうです。
近頃はなるべく、この害をなくして、住みよい社会をーーーということが叫ばれるようになりまして、タバコの害なども、ずいぶんやかましくなりました。喫煙者もようやく気づいて、ちょっと遠慮するようになったようです。
で、これはまだ、あまりいわれてはいませんが、お酒、どうですか?
「ええ!? キミ 飲めないの」
「・・・」
「なさけないねぇ。大の男が。ちょっとぐらいつき合いなさいよ。さあ、一杯つぐからさあ、だめ? こんなうまいものが飲めないの? 不幸だねぇ」
なんて、お酒飲めない人をまるで罪人扱いしている風景をよく見かけますが、あれ、どうなんでしょうね。まあ、みんな好みが違うんだから、それぞれ認め合えばいいんだけどねえ。それがわかれば仏さまかーーー。

驕(きょう)
人の心は傷つきやすく、また、傷つけやすいものですね。自分ではまったく気づかずににっこり笑っているだけで人の心をつき刺していることがよくあります。家柄、財産、地位、健康、博識、美貌、能力などなどに関する思い上がりの心で、これは「慢」のように比べてよろこぶんじゃなくて、比べるものなく、喜ぶんだそうです。
でも、これが外に出たらどうなるか。
スマートな奥さまが、ちょっと太めの奥さまの前でーーー
「あたし、もう少しやせたくて、ホホホ」このホホホで相手は、グサッとくる。健康だってそうです。
「いやぁ、なんといっても健康が第一ですねえ。わたしはこの年になるまで医者の世話になったことないんですよ。ハハハ」
本人気づいていないけれど、これを病気や障害をもつ人間が聞いたら、どんなに心が痛むでしょう。

覆(ふく)
覆面の騎士、なんていうと月光仮面や、怪傑ゾロ、古いか。ならパーマン? まあ、どうでもいいや、とにかくあの人たちはみんな、面を覆していますよね。正体知れたらいけないんでしょうね。
で、あっちは正体かくして、いいことするんだけど、わたしたちはどうかといえば、顔をかすさず、心をかくす。自分のつくった罪をウソのカーテンでおおいかくすという、せこい根性を持ち合わせているんですね。
マルサの女ですか。とりあえず、名利のために、命をかけて財産かくしをやりますね。でっかいのでは、ロッキードかくしなんてのがありましたねえ。何か不利益なことがあると、国全体をおおいかくすことも、よくある手口のようですね。
他人事ではありません。わたしたちみんな自分の罪はかくしたい。知られたくない。その心が「覆」なんです。で、バレたら「わたしじゃないわ、あの人よ」と責任転嫁。

恨(こん)
だれだって、負けたら、ハラが立ちます。そのハラ立ちの心が高じると、この恨みというやつになりまして、うらめしやーなんてのは通り越しちゃって、子々孫々、末代に至るまで、ということになるみたい。
うちの近くで、イワシとタイで十五年、というケースがあります。
お母さんがお魚屋さんで、安くて栄養たっぷりのイワシを買おうとしたんですって。そうしたらお隣の奥さんが、横でちょっとつぶやいた。「何かおいしいおさしみないかしらン」。お母さんムッときたのか、イワシをさした指をグッとタイの方に向けて「これちょうだい」。
その夜の食事は、お母さんの恨みつらみの独演会。その息子が十五年たって、明かした衝撃の告白はーーー「以来、俺は学校で成績悪くても、隣りの子に勝ったといえば、おふくろニッコリ」だったそうです。
ヤーな事だけどこれが本当のわたしの姿。

諍(そう)
世の中、なんたって、競利争名の世界。利を競い合い、名誉を争う。試しに新聞を見るといい。1ページから最終ページまで、とにかく名利の競争ばかり。
「あいつがえらくなった」
「あいつとあいつがケンカした」
「もうかった、損した」
個人単位、町単位、県単位、国単位・・・どれをとっても競争のない所はないみたい。それもはじめは、なんだか殊勝な顔をして、「はじめまして」「よろしく・・・」なんていってるけれど、そのうち熱くなってくると乱、乱、乱、であります。それをまたお手本のように見せてくれるのが国会であります。その点、オリンピックはまだましですね。とにかく、聖火の下、参加することに意義があるってわけですからね。仰ぐものがあるってのはいいですね。まつりの良さはそれですね。でもなかなか、いつもそうはいかない。大戦争がないだけ、良しとしませんか。

綺語(きご)・妄語(もうご)
エー毎度バカバカしい、お笑いを一席・・・。
この落語というものは、お説教じゃございませんで、バカバカしいお話をして、お客様に笑っていただこうってんで・・・ええ”オイ、隣りの家に囲いが出来たね”。”ヘイ”。てんで一口ばなしでまあ、笑っていただく。でまあ、世の中にはバカな人がいたもんで、この話をマネしちゃってね、あわてて”オイ、隣りの家にヘイができたね”とやっちゃったもんだから、相手があわてて”かっこいい”なんちゃって、エーおあとがよろしいようで・・・。
とまあこんな具合で、綺語、妄語。綺語とは、つまらない冗談とか、真実味のない言葉とかで、妄語とはウソ。うちの寺にも毎年、ハナシ家さんがやってきて、本堂で落語会をやってるんですが、あの方たちは、ちゃんと、バカバカしいって断ってますよねえ。ところが聞いているお客や、わたしたちは、バカバカしいことをバカバカしいと断らないで、いつもチャラチャラ・・・。舌抜かれちゃうから。

過慢(かまん)
過ぎたる人をさして、じつは、その人も、自分と同じくらいだーーーと思い上がって安心するという慢心です。
よくあるでしょう。たとえば、受験生。「自分以外は、みんな敵!」なんちゃって、必勝のハチマキしめて、とにかくがんばってる。それ自体は、まあ、競争の世の中なんだから仕方がないかもしれません。けど、三月ごろになって、合格発表があって、新聞紙上にライバルの名が載る。自分がねらった大学に、相手が先を越してパスした。(チェッ、あいつも成績は俺と同じくらいなのに・・・)とか。
そのパパは、三月の人事異動の新聞とにらめっこ。「おっ、あいつ、部長になったか。ふーむ。おい、母さん、あいつ、とうとう部長になったぞ。ホラ、俺と同級生のあいつがさあ。えらくなったねえ。俺と同級生だぜ、あいつ」
同級生というところにずいぶん力が入っている。カンケイないと思うけど、それを強調しないと落ち着かないのよねー。

増上慢(ぞうじょうまん)
一番よい子はこの私で、ろくでもないのはみな他人・・・とくれば、もう天にものぼる気分になって、ハッハッハ!と高笑いもしたくなる。こんな心の状態を、増上慢といいます。要するに、のぼせて、増長して、手のつけようがないわけです。
こんな人を、昔から、日本では「天狗」といいます。鼻高々の赤ら顔、カンラカラカラと空を飛ぶ・・・。
「どう、あの人、天狗になっちゃって・・・」
で、この天狗といったら、お宮さんのまつりに出てくるので、仏教と関係ないように思っていた、という人も多いかもしれませんがじつはそうじゃない。天狗のもとは、インドのサンスクリット語でウルカーというんですって。これ、流れ星のことなんだそうですが、転じて、仏道修行をあやまって、俺ほどえらいものはいないという増上慢に陥ったものをさすことになったそうです。まあ、天狗になったらおしまいだけど、なるよなあ。

不信(ふしん)
娘の会話を聞いていると、これがやたら出てきます。
「エーッ、ウッソー」で、次ぎに続く言葉が「信じらンなーい」!
耳よりな話を、もう一度、確認するために使うんでしょうな。「そんなこといったってちゃんと、かくかくしかじかなんだから、間違いない」というと、「あーそうなんだ。ホントなんだねー」とくる。
日常会話なら、そうたいしたことではないし、また、あまりなんでも信じると、ダマされることもあるので、まあ、この不信の心、あるいは疑いの心を起こしてみて、確かめるのもいいかもしれませんが、仏さまのおっしゃることに不信を抱くのは、よくないことですね。
どうしてよくないかといいますと、信じないで、疑っている人間は、仏さまのおっしゃることが聞こえてこないからです。そういう人は救われませんよ。信心とはまことの心。仏さまのまことの心は、ハイと素直に聞くものです。

②不更悪趣(ふきょうあくしゅ)の願
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、迷える者は、この6つの世界をはてしなく輪廻して、はかりしれない苦を受けるのでありますが、阿弥陀仏は、そんな私を摂め取って捨てたまわず、でありまして、ひとたび浄土に生まれたならば、もう、地獄や餓鬼や畜生の世界にもどることは絶対にないのであります。
この願いの働きを「抜苦(ばっく)」といいますが、とにかく毎日三悪道や六道の只中にいて、苦しいとも思っていないのが私たち。迷いを迷いと知らずに迷っているんだから仕方がない。しかし、それを凡夫というんですと。ところで「不更(ふきょう)」とは、かえらないということ。ですから、この願い、言い換えると、バック(抜苦)オーライ・ノーリターン(不更)、ですね。

⑳至心回向(ししんえこう)の願
ちょっと変だと思いませんか?願文を読んだら、「離れよ自力、たのめよ他力」どころか「励めよ自力、たのむな他力」というふうに仏さまはおっしゃっているように見えますものね。そう思う人、とても多い。だから、「いやあ、まだまだ修行が足りません」とか「これを回向して、なき人を良き所へ」とかよく聞きますよね。
ところがどっこい。親鸞聖人は違うんです。この20願、自力念仏の願ともいわれているのに「念仏はこちらでつくった徳ではない。」さらに至心回向(ししんえこう)といえば、まごころこめてこちらからあちらへ回向するように読めるのに「至心に回向したまえり」と、すべてあちら(本願他力)のお手回しと受け取られた。ここがすごい!

㉟女人往生の願
仏さまは一切平等とおっしゃりながら、なぜわざわざ、女性を男性に変えて救うとおっしゃっているのですかッ。と、きッなる方もいらっしゃる。もとより浄土は差別のない世界。しかし人類の長い歴史の中では、女性が差別されていたのも事実。でも今はもう逆じゃないかと思うくらい。
だって女は五障三従(ごしょうさんしょう)なんていうけど、三従って親に、夫に、子に従うので三従なんでしょうけど、お父さん、あなたはどうですか。三従どころじゃないでしょ。会社では課長に従い局長に従い、外へ出たらお得意さまに従い、そして帰ってきたら、奥さんに従い・・・なさけないけど、そうじゃないですか。あら、男がグチってる。

⑱至心信楽(ししんしんぎょう)の願
一つののことに徹底して、それを全うすることが出来た方の事を仏さまといいます。東の方にいらっしゃる、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)という仏さまは、ハラを立てないという願いを起こして、それを全うじて仏さまになられたお方だと聞いています。
では、阿弥陀仏は一体どんなことに徹底されたのかと申せば48通りの願い、なかでも、とくに第18願。つまり、十方の衆生を、すべて浄土に生まれさせることができなかったら、自分も仏にはならないという願いを立て、そしてその願いを全うじて仏さまになられたのであります。つまり、この願いの成就によって、この私も、あなたも、間違いなく救われるに決まっちゃってるんですよ。
※煩悩カルタと本願カルタをランダム表示しています。
本願カルタ・煩悩カルタ
著者:雪山隆弘
発行:1989(平成1)年1月15日
発行所:百華苑