ご冥福をお祈りします

亡くなった方に対する「ご冥福をお祈りします」という慣用句は、浄土真宗においてたびたび問題にしてきました。何が問題なのか、冥福とはなにか、「冥」という字にはどんな意味があるのか。これまではネガティブな意味だけを強調されてきましたが、ポジティブな意味もあります。

まずは文字の意味から。


①死者の面を覆う面衣
②くらい、ふかい、おくぶかい、めにみえぬ
③とおい、はるか、かくれる、しずか、だまる、たちこめる、よる
④おろか、まよう
⑤めがくらむ、めくるめく

字通/白川静

文字の象形からくる意味は「①死者の面を覆う面衣」です。他にポジティブな意味としては「ふかい、おくぶかい」という意味があり、ネガティブな意味では「くらい、おろか、まよう」とありました。使う場面によって両方の意味が見られます。

次に一般的な意味として広辞苑を見てみましょう。


目には見えない神仏の働き

冥福
①死後の幸福
②人の死後の幸福を祈るために仏事を修すること

広辞苑

「目には見えない神仏の働き」というのは、だいぶポジティブな意味合いとして見受けられます。そして「冥福」は、「死後の幸福」ということなので、亡くなった人の幸福を願う言葉となっています。

では、仏教辞典ではどうでしょうか。


①闇黒。くらやみ。無知にたとえることから、無知と同義語として用いられる。仏はこの闇黒なる無知を滅したものとされる。
②冥合。ぴったり合う。一致する。
③冥々のうちにまします神仏。

仏教語大辞典

冥福
冥界(死後の世界)における幸福。また、死者の冥界での幸福を祈って仏事をいとなむこと。「魏書」崔挺伝に「八関斎を起し、冥福を追奉す」と見える。また、冥々のうちに形成される幸福の意で、前世からの因縁による幸福、かくれた善行によって与えられる幸福をいう。「毎(つね)に国家のために、先づ冥福を巡らす)

岩波仏教辞典

「冥界」=「死後の世界」と位置づけられ、その幸福を祈る意味なので、広辞苑とほぼ同じ説明です。続けて、中国の魏書にこの言葉が見られることが紹介されています。一説には冥福という言葉は、仏教から生まれた言葉ではなく、中国から伝わり様々な文化が入り交じっているとも言われます。

では、お経にはどのように使われているのか、浄土真宗の聖典から「冥」の字を含む箇所を抜き出してみました。

ポジティブな表現
・冥に加して、願わくは摂受したまえ(帰三宝偈)
・冥衆護持の益(教行信証 信巻)
・冥衆の照覧をあおぎて(口伝鈔)
・諸天の冥慮をはばからざるにや(口伝鈔)
・冥衆の照覧に違し(改邪鈔)
・祖師の冥慮にあいかなわんや(改邪鈔)
・三世諸仏の冥応にそむき(改邪鈔)
・冥加なきくわだてのこと(改邪鈔)
・冥眦をめぐらし給うべからず(本願寺聖人伝絵)
・聖人の弘通、冥意に叶うが致す所なり(嘆徳文)
・真実に冥慮にもあいかない(御文章)
・冥加の方をふかく存ずべき(蓮如上人御一代記聞書)
・冥慮をおそれず(蓮如上人御一代記聞書)
・冥見をおそろしく存ずべきことなり(蓮如上人御一代記聞書)

ネガティブ表現
・三垢の冥(無量寿経)
・窈窈冥冥(無量寿経)
・矇冥抵突して経法を信ぜず(無量寿経)
・悪気窈冥して(無量寿経)
・幽冥に入りて(無量寿経)
・苦より苦に入り冥より冥に入る(無量寿経)
・世の痴闇冥を除く(無量寿経優婆提舎願生偈)
・除世痴闇冥(無量寿経優婆提舎願生偈)
・無数天下の幽冥の処を炎照するに(教行信証 真仏土巻)
・世の盲冥を照らす(教行信証 真仏土巻)
・このさかい闇冥たり(執持鈔)
・闇冥の悲歎(口伝鈔)
・五道の冥官みなともに(浄土和讃)
・よろずの神祇・冥道をあなずりすてたてまつる(親鸞聖人御消息集広本)
・閻魔王界の神祇冥道の罸(親鸞聖人血脈文集)

ポジティブな表現としては、「冥加」「冥慮」「冥見」などが見られ、特に浄土真宗において絶大な影響力をもつ蓮如上人に多く見られます。ここでは、「冥」を目に見えぬ働きの意味で使われ、諸仏や菩薩、阿弥陀如来の力をあらわす言葉として使用されています。一方で、ネガティブな表現は、「闇冥」「盲冥」など、「くらい」「まよい」の意味を含み、苦しみの世界(地獄、餓鬼、畜生)をあらわす場合があります。

浄土真宗においては、「念仏者はいのち尽きた時に阿弥陀如来の極楽浄土に生まれる」と説かれるため、「死後の幸福」を祈る必要はないと考えられています。だから、「ご冥福をお祈りする」という言葉を使用せずに「哀悼の意を表します」と置き換えることが推奨され、門徒さんたちや葬儀社にもそのように説明してきた歴史があります。結果、現在では、浄土真宗のみこの表現は使わないことを注意書きしている葬儀社が多く見られます。
※「祈る」という言葉にも反応する浄土真宗ですが今回は省きます。

私も知らない間にそれが当たり前だと思っていました。そして、「冥」という字のネガティブな意味を強調して教わってきたため、それを知らない方たちには伝えていく必要があると考えていました。亡くなった人は暗いとこにいってないよ!と正義感にかられて説明してきました。しかし、それは浄土真宗の中だけの話でした。一般的には常識的な言葉として使用され、天皇陛下や総理大臣も「ご冥福をお祈りします」という言葉で弔意をあらわしています。

何よりも、故人を想って弔意をあらわしている方に、表面的な言葉のダメ出しをすることは、それこそ失礼なことでしょう。相談されればこちらの考え方を伝えますが、その場合も、「冥」にはポジティブな意味もネガティブな意味もどちらも含まれた言葉で、仏さまのご加護をあらわす言葉としても受け取れることを踏まえていきたいです。その上で、浄土真宗の信仰を大事にされている方は、言葉を置き換えるだけでなく、故人に対して、心からの想いを自分の言葉で伝えることが何より大切でしょう。

最後に、私個人の受け取り方として、過去の喪主挨拶を掘り起こして添えておきます。今年、父の33回忌、祖父の27回忌、祖母の17回忌をつとめました。

父の葬儀より
父は最後に「やりたいことは全てやった。人生50年思い残すことはない。いい人生だった」と言っていました。くやしいし、哀しいけれど、あれだけ満足してお浄土に行き、8月に亡くなられたお父さんとも再会して、最高の笑顔で私達を見守ってくれていると思えば、何も言うことはありません。私達もこういう世界を支えに、短くはかない人生だけれど、精一杯生きて、今度お浄土で父に逢う時には、父の大好きだった言葉で、「逢えてよかったね」と言ってもらえるような素晴らしい人生をつくっていきましょう。
(平成2年9月21日 喪主挨拶)

祖父の葬儀より
思い返して見ると、入院までの祖父は、僧侶というより文学者としてのイメージがありました。そんな祖父が、入院してからはたびたび口から念仏がこぼれ、ある時は、蓮如上人や親鸞聖人の夢を見たと話してくれました。そういう夢を一度も見たことがない僕は、とてもうらやましく思い、同時にうれしくも思いました。

人間は人が亡くなった時、その人と関係が深ければ深いほど悲しみも深く、浅ければ浅いほど悲しみも少ない。そういう眼しか持ち合わせていない僕が、死ということを、生きるということを考えさせてもらえるのは、やはり、自分と関係の深い人の死に会う時かもしれません。しかし僕は、祖父の死を目の当たりにした時、自分には感情というものがないのか、とさえ思いました。身近なものの死にあいながら、自分も死ぬということを頭ではわかっていても、実感できないでいる。しかも、そういう中での悲しみさえ、時間とともに忘れてゆくのです。そんな僕も、葬儀までの間に、いろいろと考えさせられ、「いのち」を見つめることができました。

利井明弘先生がお通夜の法話の中でこういうことを言われていました。

「今、こうやって私達は本堂に座っておりますが、これを自分の力で座っておると思ったら大間違いや。私達は、目には見えない、言葉では言いあらわすことができない、大きなご恩の中で生かされておる。皆さん、それをよう味わってください」

流されている生活からは決して気付くことが出来ないことを、祖父のおかげで、今気付かせてもらっています。祖父と深く話すことが出来なかったことは悔やまれますが、今、家族と心から話し通じ合えることをうれしく思っています。念仏が口からこぼれながら死んでいった祖父をもてて、僕は幸せものです。
(平成8年寺報81号)