どうしようもない私でも

「聞いて、思って、身につける。そら、その通りやけどさあ。なかなか、そう、うまいことゆきませんちゃあ。ねえ、人間やもん。ねえ」
さっきまで、うなずいて聞いていたおばあちゃん。お講の法座の中休み。こたつに足をのばしながら(そう、うちの寺では4月末まではこたつしてるの)仲間のおばあちゃんに「ねえ、人間やもん。凡夫やもん。できんっちゃねえ」と同意を求めている。

「そいが、そいが、凡夫やもんねえ。聞いて、思うまでもいかんわねえ。わたしら、聞く-忘れる、聞く-忘れる やもんねえ」
話し手も話しても、聞く-忘れるで、身につくなんて、とんでもない、という。大阪弁なら、まさに、せーないなー という感じ。
でも、やっぱり、おばあちゃんのいう通りでありまして、ホーキケヨ、のうぐいすの鳴き声を聞いたとたんに、チカッと目覚めて
「そうだ、世の中は無常なんだ。怠りなく努めねば…」
と、仏道修行に一歩踏み出す人ばかりだったら、阿弥陀如来さまなぞ、居なさらんでもよかったかもしれん。ところが、ほんと、おばあちゃんのいう通り、聞く-忘れる で、なんにも身につかん私たちだからこそ、阿弥陀さまというお方、お出ましになったんでしょうなあ。

「仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、これを聞という」これは親鸞聖人のおことばなんですが、どういうことかと申しますと、仏願は、つまり仏の願い。ここでは、阿弥陀仏というお方の願いであります。で、生起本末といえば、ことのてんまつ、一部始終ということ。ですから、阿弥陀仏というお方が、どういう願いを持ったお方で、どういう働きをしておられるお方かということを、疑いの心を持たずに、素直に聞くというのが、真宗でいう「聞く」ということなんです。上も中も下もない。ただただ、聞かせていただくばかりだという。

で、その願いでありますが、わかりやすくいうと、阿弥陀仏という仏様は、この私-つまり、欠点だらけの、うぬぼれのかたまりの、頭のテッペンから足のツマ先まで、どこさがしたってマルのつけようのない、ペケばっかりの、どうしようもないこの私でありながら、それにも気づかず、ふんぞり返って、オレがオレがと生きている-そんな私を見そなわして、そういうお前だからこそ、救わずにはおかない、目覚めささずにはおかないと立ち上がれられ、もし、その願いがかなわなかったら、自分も仏にはならないとおっしゃって、そして、その願いを全うして仏様になられたのが、阿弥陀仏というお方だというのであります。

仏様というのは、おしゃか様をふくめて、数限りなくいらっしゃるんだけど、その中で、十方の衆生、つまり、どうしようもないこの私を、救わずにはおかぬといってくださるお方が、阿弥陀さまなんだ。それも、聞いて思って身につけて、と、条件つけてではなくて、まったく無条件で、生きとし生けるものみなすべてを悟らしめる、とおっしゃって下さっている。こちらで何をどうするということもない。ただただ手を合わせて、ああ、そうでございましたか、と素直に聞かせていただいて、よろこぶほかはないのであります。
ホッ、なにやらちょっとありがとうなってきたみたい。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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