ご本願の願い/梯實圓

このテキストは、平成3年9月29日、善巧寺の慶讃法要記念講演の法話を一部抜粋して寺報に掲載したものです。語り口調のまま文字起こしをしています。

今日お話させていただきたいと思いますのは、阿弥陀さまのご本願のお心についてでございます。浄土真宗の教えというものは阿弥陀さまのご本願を離れてはございません。むしろ阿弥陀さまのご本願のことを浄土真宗というんだとご開山(親鸞聖人)はおっしゃっているんですね。本願というのは難しい言葉でございますけれども、お願いということでございます。阿弥陀さまが私たちの1人1人にかけられた願いでございますね。その仏さまの願いを聞かしていただくということが浄土真宗のご法義に逢うということでございます。その仏さまのご本願というものがどういう事柄であるのかということをお話させていただきたいのでございます。

私は今、本願寺で教学研究所におるんでございますけれど、そこで浄土真宗聖典の編纂主幹をしておりまして、今ちょうど「七祖聖教」の原典版を編纂しているわけでございます。「七祖聖教」と申しますのはみなさんはご存じかと思いますけれど、浄土真宗のみ教えをお釈迦さまから親鸞聖人に至るまで二千年にわたってずっと伝えてくださった7人の高僧方がいらっしゃるのでございます。みなさん、お正信偈のなかに7人の高僧方のお名前とその事跡が述べてございますのでご存知と思います。龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信和尚、法然聖人、この7人を7高僧と呼ぶのでございます。この7人の高僧方がお書き残しになった聖教のことを「七祖聖教」と申しているのでございます。それの新しい編纂を今やっているのでございます。実は本願寺でも、「七祖聖教」はすでに江戸時代からご蔵版はあるのでございます。しかし、これは本願寺が中心になって編纂したのではなく大阪に長円寺というのがございまして、この長円寺を中心にいたしまして大阪の学者達が集まって、編纂いたしました「七祖聖教」なのです。これは非常によくできております。今私たちが拝読いたしましても、ほとんど文句のないくらい大変よくできておるのでございます。それで本願寺の方も、これは大変よくできている、というので本願寺にお買い上げになりまして、それで本願寺のご蔵版という形で本願寺の名で出版しているのでございます。もともと本願寺のやった仕事ではないのでございます。ちょうどこちらの明教院僧鎔和上、空華学派の派組になられた明教院和上などが編纂をしてくださった真宗の和語のお聖教の全集がありまして、これが「真宗法要」という名前で伝わっておりますのがございます。この明教院僧鎔和上は真宗学ももちろんでございますけれど、その当時では最高の文献学者でもあったわけで、なかなか厳密な文献的研究によって真宗の和語の日本語で書かれたお聖教を編纂して下さった。僧樸和上と、その一の弟子であった明教院僧鎔師、その他が中心になって編纂して下さった。これは本願寺の名で編纂したものであります。だけど「七祖聖教」はもともとは本願寺がやった仕事ではございません。ことに、200年もたちますと、新しい資料もでてきますし、文献的な研究もどんどん進んでおりますので、新しい文献学的な視野に立ったお聖教の編纂というものを本願寺がやっておるわけでございます。これは今年度中にやりあげなければならないので、今一生懸命やっているのです。

これはご門主の名において行うものですから、1つ1つご門主に報告をし、そしてご指示を得るわけでございます。だいぶ前でございますけれど、この「七祖聖教」の底本と対校本がだいたい編纂委員会の方で決まりましたので、ご門主に報告に行きました。その時のことですが、ご門主はこういう学問的な話は非常に好きな方でございまして、こんな話をしかけたら、いつまででも話をしていらっしゃる。予定は1時間だったのに気が付いたら2時間くらい経っておりまして、内事の部長がいらいらしておりまして、「あの、もう時間なんですけど」というとご門主は「まあいいじゃないですか」ということでとうとう2時間あまりになってしまったんです。その時にいろいろお話をお聞かせいただいている時に、「このごろお説教の中で阿弥陀さまのご本願のお言葉をストレートにお話をするということは、ちょっと少なくなったんじゃないですか」と指摘されました。これはえらいことをおっしゃったなと思いまして、そういわれればそういう傾向があると思いまして、「これから気を付けさせてもらいます」と申したことでございます。

浄土真宗のお話なんですからいつどこでどなたがお話されていましても第18願を離れたお話はないはずでございます。また阿弥陀さまのこの本願を離れた話をしてもらったんじゃ真宗のお説教にはならないのでございますから、どんなお方がお話なさっても、それが浄土真宗のお話である限りは阿弥陀さまのご本願のお心をそれぞれにお伝え下さっておるには間違いないのでございますけれど、ただその本願のお言葉、阿弥陀さまの本願のお言葉に即して正確に如来さまの願いをお伝えするということがちょっと少ないのではないか、と大変大切なご指示をいただきました。それからあといろんな住職研修会とか布教師の先生方の講習会であるとかというふうな時には、まずそのことを申して皆さんにご本願のお心をストレートにできるだけお話をしていただくようにということを申しておるんです。今日も与えられた時間わずかでございますけれど、やはり阿弥陀さまのご本願のお心を皆さんにお話させていただきたいと思うのでございます。

さて阿弥陀さまの願い、ご本願は、お釈迦さまのお説きあそばした「仏説無量寿経」のなかに説かれています。先程「仏説無量寿経」作法のお勤めがございまして、その中でこの阿弥陀さまの願いが読経されておりましたから皆さんご縁に逢われたんでございますが、あれが阿弥陀さまの願いでございます。全部で48通りに誓ってありますので、これを48願と申しております。「設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚」という言葉で始まっておりました。先程あげておられたのは聞いていらっしゃったでしょう。
「設我得仏---不取正覚。設我得仏---不取正覚」というふうに何回も同じような定型句がでてくるのを聞いておられたと思います。最も漢文で読まれるんだから、なんのこっちゃさっぱりわからんと思われるか知りませんが、よく聞いてますと「設我得仏(せつがとくぶつ)」という言葉で始まって「不取正覚(ふしゅしょうがく)」という言葉で終わる、一連の言葉が何回も何回も繰り返されております。「設我得仏」というのは「たとえわれ仏を得たらんに」と読み下すのでございますが、「たとえ私が仏になり得たとしても」ということです。「不取正覚」とは「正覚を取らじ」ということで、「こういうことを実現することができないようなら、私は仏になりません、正覚を取りません」こう誓われているわけです。正覚というのは、仏という言葉を中国語に翻訳した言葉です。「仏」というのはインドの言葉ですが、サンスクリットではブッダという言葉です。「ブッダ」は永遠な真実に目覚めた者ということです。そして、人々を目覚めさせるもの、それをインドの言葉ではブッダと呼ぶ。中国語では「覚者」とか「正覚者」といい、それを「正覚を取らじ」と書いてあるのは、私がたとえ目覚めた者となったとしてもこういう願いを実現することができないようならば私は本当に目覚めた者と呼ばれる資格がないんだ、こういうふうにおっしゃっているんです。私が真に目覚めた者となった以上は、ここに述べたような願いごとをきっと実現してみせる。こういうふうに仏さまが自らの願いに誓いをこめて仰せられておるんです。(寺報63号)

その願いが、48通りあるんでございますけれど、しかし、この48通りの願いの中で1番中心になる所がある。要になる所がある。それが第18番目に誓われた願である。これを第18願と呼んでおります。皆さんもお説教を聞かれると第18願ということを何回も聞かれると思います。ちょうど48通りの願いの中の18番目に誓ってあるから、第18願と呼ぶんです。この第18願が阿弥陀さまのご本意、仏さまの本心がここに表れている、この誓いに如来さまは自らの命をかけていらっしゃる、というのでこの第18番目に誓われた願を根本の願というので本願と言われてきたのでございます。そういうふうに48願の中で、第18願が如来のご本意なんだと、しっかりと見抜いて私たちに教えてくださった方が7人いらっしゃったのでございますね。龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信和尚、法然聖人、この7人が阿弥陀さまのご本願の中では第18願にその仏さまの本心が表れる、これが阿弥陀さまのご本意だよっていうことを表してくださった方なんです。これを7高僧というんです。もっと言いかえますと、仏教にはたくさんの高僧方が出現されたけれどもこの第18願にこそ阿弥陀さまのご本意があるんだと言うことを見抜いてくださった方々は7人しかいらっしゃらなかった。それで、親鸞聖人はこの7人を浄土真宗伝統の祖師として仰がれたんです。これがお正信偈に「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といわれるのがそのことなんですよ。「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓 機に応ぜることを明かしたもう」と、こうおっしゃってお釈迦さまは様々な経説をお説きあそばしたけれどもご本意は第18願の救いを説くことにあったということを私どもに知らせ、阿弥陀さまのご本願こそ私ども凡夫にふさわしい救いの法であるということを教えてくださったのがこの7高僧である。私はこの7人の高僧方のみ教えに従って、阿弥陀さまの親心を知らしていただくことができたんだ、こう言って喜ばれているのです。私たちもこのご開山のみ教えに従って、阿弥陀さまのお心を味わわしていただくのでございます。

何でもないことのようですが、実は48願の中で第18願が中心だということを見られた方は今申しましたようにほんのわずかしかいらっしゃらなかったんですね。他の人はそうはご覧にならなかった。例えば、私が自分の力で「大無量寿経」を読ませていただき、48願を読ましていただいても、まず第18願が阿弥陀さまのご本意を表したものだとは、とても読み取れません。あの程度の漢文だったら、ちょっと勉強なさった方なら誰だって読めます。けれども、仏さまのご本意がどこにあるかということを、見定めるっていうことはそう簡単に出来るものじゃないんでございます。読めば分かるというものではないんですね。

ちょっと余談になりますがね。今からちょうど1000年前、比叡山に慈恵大師良源という方がでられました。元三大師とも申しております。比叡山で1番大切な方はいうまでもなくご開山の伝教大師最澄です。その次に大切な方は、と言いますとこの比叡山を中興くださった慈恵大師良源という方なんです。比叡山の横川へおいでになりましたら元三大師堂というのがございます。その元三大師堂の裏をずーっと行きますと御廟と申しまして、この元三大師のお墓がございます。比叡山の聖地と言われるものは伝教大師最澄のお墓のある浄土院と、この元三大師の御廟なんです。元三大師というのは、元日三日に亡くなったというんで、元三大師といいます。この方が、浄土の教えについて書かれた書物があるんです。これは「仏説観無量寿経」の注釈書です。「仏説観無量寿経」に九品段という一段がございまして、そこを注釈されたので「極楽浄土九品往生義」という書物がある。この中に阿弥陀さまの48願を解説していらっしゃるんです。1つ1つの願に名前を付け1番最初の願は無三悪趣の願である。その次は不更悪趣の願である。その次は、というふうに願に名前を付けられまして、そして阿弥陀さまはこういうことを願っていらっしゃるんだ、ということを解説をしていらっしゃる。その中でこの阿弥陀さまの48願の中で1番中心になるのは何か、どの願が仏さまのご本意であるかということを問題にしまして、それは第19願である、とあの方はおっしゃっている。第19願が中心だと。なんでかというとこれは菩提心をおこしてもろもろの行をおさめ、清らかな功徳を積んで、そして浄土へ迎えとってくださいという願いを起こした人は、阿弥陀さまがその人の臨終にたくさんの聖者をひき連れて、お迎えに来てくださると書いてある。これが第19願です。これが阿弥陀さまの本意であるといっている。なんでかといったら阿弥陀さまがわざわざ臨終に迎えに来てやろうとおっしゃっている、これは阿弥陀さまのお心にかなった行者であるからだとこう言うんです。そう言えばそうかいなとも思います。

私は毎日本願寺の教学研究所に行っています。私が行っても別にご門主さまは迎えに出てこられません。あたりまえですよね。ただしかし、ご門主さまが迎えにお出になるということもあります。その人はよほどの大物でしょう。前にイギリスのエリザベス女王がおいでになった。前門さまの時代でございましたけれども、あの時は前門さまがちゃんとお出迎えになった。そしてご自身でずーっとご案内なさった。ご門主がわざわざ門まで迎えに来るというのはよっぽど大事な賓客の場合だけです。そうしますとね、阿弥陀さまがわざわざお迎えになる、これはただ者ではない。如来さまのお心にかなった人だから、阿弥陀さまがお迎えになるんだ。それはまず菩提心を起こしている方です。菩提心というのは自ら仏になろうという願いを起こすと同時にすべての人々を救って仏にならしめようという広大な願いを起こして、清らかな生活を送りながら、世のため人のために自ら命を投げ出して励む。そういうすばらしい行を積んだ人、こういう人だから仏さまのお心にかなう。それで仏さまが臨終に迎えにいってやろうとおっしゃる。これが第19願です。だから第19願が仏さまのご本意であるとおっしゃるんです。すると第18願はどうなるんだろうというと、これはたいしたものじゃないという。わずか10ぺん「南无阿弥陀仏・・・」とお念仏した位の人だからたいしたことではない。だから阿弥陀さまがわざわざ迎えに来てやろうとはいわれてないというのです。なるほどそういわれると18願には臨終に来迎するとは書いてない。しかしせっかく「南无阿弥陀仏」といっているんだから、ほっとくのはかわいそうだからせめて極楽のかたすみにでも連れてってやろうかというぐらいで阿弥陀さまが誓ってあるんだから阿弥陀さまのご本意と違う、こうおっしゃってる。極楽の片隅というとなんですが、程度の低い浄土のことです。仏さまのお救いというのはそれなりの功徳に対してのものだから、功徳のないものにはたいしたご褒美がないのは当たり前というのです。ところが、その慈恵大師良源僧正の一の弟子に、源信僧都という方がおられます。「源信広開一代教 偏帰安養勧一切」とお正信偈にいわれている源信僧都でございます。この源信僧都が「往生要集」という書物をお書きになったのですが、そのお聖教の中で、お師匠さま、慈恵大師良源の説を打ち破ってしまった。その「往生要集」を拝読しますと、48願の中で阿弥陀さまのご本意を表された願は第18願なんだと書いてある。48願の中で「念仏門において別して一願を発して曰く、乃至十念、若不生者不取正覚と誓いたまえり」とおっしゃっているんですね。48願の中で、特別に1つの願をおこして、たとえわずか10ぺんでも私の名をとなえてくれ、そして私の国に生まれることができると思ってくれ、必ずお浄土へつれてくぞ、と特別の慈悲をこめて阿弥陀さまがお誓いくださったのが第18願なんだ、ここに仏さまのご本意が表れているんだ。大悲の親心のすべてはこの第18願に表れているんだ、こうおっしゃった。これが源信僧都という方なんです。(寺報64号)

これが「往生要集」の一番大切なところでして、ご開山は読み込んでいらっしゃる。親鸞聖人は源信僧都があらわそうとされた本願のみ心をお正信偈の源信章の中で「極重の悪人はただ仏を称すべし、我もまたかの摂取の中にあり、煩悩眼をさえてみたてまつらずといえども、大悲ものうきことなくして常に我を照らしたもうと言えり」と源信僧都の「往生要集」のお言葉をあげて讃詠されています。自らの力で自分を救うことも出来ず、自分で自分を整えることのできない私のような、死ぬるまで煩悩にまつわられたおろかな凡夫を見捨てたもうことなく、どうぞ助かってくれよ、どうぞこの親に助けさせてくれよ、と願いをこめて私たちのために立ち上がってくださったのが阿弥陀さまだ。だから阿弥陀さまは、誰でも、いつでも、どこでもいただいてとなえることのできる「南无阿弥陀仏」を選び取って、お願いだから私の名をとなえながら私の国に生まれてきてくれよ、と願ってくださった。「極重の悪人は他の方便なし、ただ阿弥陀を称して極楽に生まる」こう源信僧都は教えてくださったのでございます。私は妄念煩悩に狂わされて仏さまの姿を拝むことのできない愚かな者だけれども、仏さまの御名をとなえ如来さまの親心を仰ぐ私は、仏さまのお慈悲の光の中におさめとられておる。念仏の衆生を摂取して捨てないとお誓いあそばした「仏説観無量寿経」の言葉によれば、私もまた阿弥陀さまの光の中におさめられておる、愚かな私はその仏さまの光を拝むことはできないけれども、「大悲ものうきことなくして常に我を照らしたもうなり」こう源信僧都はおっしゃった。これが、ご開山のお心を打つんですね。

しかしこの源信僧都のお味いはお師匠さんの慈恵大師良源の意見をひっくりかえしています。阿弥陀さまの救いは、功績に対するごほうびとは違うんだ、と言われるんですね。親が子供の面倒を見るのは、子供が功績を上げたから面倒見るのと違う。生まれたての子供を面倒見ずにはおれない、その子供に全身全霊を注いで、その子供を育てずにおれない、見捨てておけないのは親心の必然なんだ。阿弥陀さまの救いというものは、功績に対する褒美じゃなくて、大悲心の必然として如来さまから賜るのがお救いなんだ、功績に対する褒美として阿弥陀さまのお救いを考えているのは間違いだ、そんな考え方で「大無量寿経」を読んでも阿弥陀さまのお心は分かりませんぞ、と言うた。これが源信僧都の「往生要集」なんです。だからご開山は、この源信僧都こそ日本の国では初めて阿弥陀さまの切ない大悲の親心を読み取ってくださった最初の方だといっておられる。それで、源信僧都を7高僧の1人として数えあげていらっしゃるわけです。

話が第18願の本文からはずれたようですがこれから本文を話します。「たとえ仏を得たらんに」たとえ私が仏に成り得たとしても、ということは前に申しました。「十方の衆生」とは十方世界に生きとし生ける全てのものよ、と如来さまは願いをかけよびかけていらっしゃることを示すことばです。この如来さまの願いを宿されていない者は、1人もいないということです。人だけじゃない、犬も猫も馬も牛も1匹の虫に至るまで如来さまの大悲の願いは宿されているんだ、これが十方の衆生よと願いかけられた言葉です。実に広い願いでございますね。そうしますと、あなたにも私にも如来さまの願いが宿されているんだな、ということにまず気付かせていただく。

次に「至心に信楽して我が国に生まれんとおもうて乃至十念せんにもし生まれずは正覚を取らじ」とお誓いになっています。「至心(ししん)」というのは真実ということ、「信楽(しんぎょう)」というのは疑いなくということ、ですから「ほんまに疑いなく」というのが「至心信楽」です。「欲生我国(よくしょうがこく)」我が国に生まれんとおもえ、我が国に生まれるんだと思ってくれよということです。これが仏さまの願いでございます。私にどう思ったらいいのかそれを指示してくださっているんですよ。「乃至十念せよ」すなわち十念に至るまでせよ、というのは、たとえわずか10ぺんでも私の名をとなえながらその人生を生きてくれよ、ということです。これが仏さまのお願いです。そして「もし生まれずは正覚を取らじ」もしお前をお浄土に生まれさせることができないようなら私はまさしく目覚めた者と呼ばれる資格はないんだ、わたしが仏になったら阿弥陀仏としての名にかけて必ずお前を浄土に生まれさせる、こうお誓いになっているんです。これが第18願でございます。このお言葉の中に自分の生きる意味と方向を聞き定めていく、これが浄土真宗を聞くということです。

お前一体誰なんだ、と言われた時に、お前は一体どっちに向かって生きているんだと言われた時に、即座に私は阿弥陀さまの子でございます、そして私は阿弥陀さまの所へ生まれさしていただきます。こうズバッと答える事のできるような、そういう心境を開いてくださるお言葉なんです。7高僧の伝統というものは、そして親鸞聖人が確立された浄土真宗の伝統というものは、この仏さまの願いの言葉の中に、自分の生きていることの意味と方向を聞き定め、思い定めてきた歴史なんですね。そのことをもっと詳しくお話させていただきたいと思うんです。考えてみますと、私の生きている意味と方向といいましたけれど、私は一体何者なのかっていうのは大変なことですよ。「お前は一体何者だ!」といわれた時に皆さんどう答えます?私は先程紹介していただいたように「梯實圓」というんです。私は梯實圓です、というたらこれは名前でございます。私そのものではございません。名前は他の人と区別する時に便利にするために付けただけなんです。私にとってこの名前は別に必然的なものではない。だって、私が生まれた時名前はなかったんだもの。生まれた時、名前がなかったらわたしでないのか?そんなことはない、私は私です。そうすると、お前誰だといわれて、名前を言ったって私の本体を示したことにはならん。名前でなしに本当のお前はなにものだと言われたら、あんた方返事できますか?これは大変難しい問題です、今から1300年程前インドにシャンカラというすごい哲学者、宗教家がでました。これはインドの哲学的宗教であるベーダンタ学派の大成者です。このシャンカラという人は、死んだのは30そこそこだったそうですが、そういう人が千何百年あのインド文化圏の思想信仰をリードしているということになりますとすごいと思うんです。命というのは長い短いはあまり関係ないですね。とにかくこのシャンカラは、弟子がやってきた時に必ず聞いたのが、「お前は誰だ」だったそうです。そしたら弟子が「私は何の某です。父は・・・母は・・・、そして家系は・・・でございます」こういうとシャンカラは「俺は名前を聞いているんでも家系をたずねているんでもない、お前がなにものだって聞いているんだ」と言われたそうです。そう言われると返事が出来なくなってしまう、私はなにものだかわかりませんと言った時に、それを学ぶんだ、それをしっかり学ぶんだ、と言うたそうです。そういえば道元禅師も「仏道を習うというは自己を習うなり」といっています。「お前誰だ」と言われた時に即座に返事ができるように、そういう人間になっておけというんです。そのシャンカラ自身が、10いくつで、ある師匠についたその時に、師匠がシャンカラに「お前は何者だ」と聞いたそうです。その時彼は即座に「私はブラフマンである」と言った。「ブラフマン」というのは、インドでは宇宙の根源的実在です。万物はそれによって在り、その万物をあらしめている根源的な実在である。そのブラフマンである、と言うたそうです。そしたらお師匠様が、インドはえらい人は高い所にいるんですが、その高い所から降りてきまして、そしてシャンカラの手をにぎって、私はあなたのような人が来るのを待っていた、一緒にそのブラフマンの心を学びましょう、といって師匠が手をとってくれたという有名な話があります。(寺報65号)

私はシャンカラと違いまして「大無量寿経」の教えによって、この阿弥陀さまの本願のお心によって、「おまえは何者だ」と言われた時には、「私は阿弥陀さまの子でございます」と即座に答えさしていただくことにしているんです。あなたたちもそうしたらどうですか。如来さまは私たち1人1人を「一子」のように、かけがえのない1人の子として私たちを念じてくださる。その思いがあの本願の言葉となって表れてきている。お経には如来さまは「衆生をみそなわすこと一子のごとし」「まさに知るべし一切の衆生は如来の子なり」とおっしゃっている。ご開山はこの言葉を「教行証文類」の信文類に引用してある。「如来は衆生のために慈父母となりたもう」如来さまは慈しみ深い父母となって私たちの前に立っていてくださる。「まさに知るべし一切の衆生は如来の子なり」皆仏さまの子なんだよ、如来さまから大切な我が子よと呼び掛けられている仏さまの子なんだよ、とご開山はおっしゃってますが、私はこのご開山の指示に従って、「お前は誰だ」と言われたら「私は阿弥陀さまの子だ」と言わしていただくことにしてます。死んでも、阿弥陀さまの子ならどこもよそへは行きません。阿弥陀さまの国に生まれさしていただく、阿弥陀さまの世界を我がふるさとといい切らしていただくことができる。私はお浄土から来たわけではありませんが、親のいますところが、私の帰るべき故郷なのです。それが如来さまの本願の言葉に逢った人の喜びなんでしょうね。私は阿弥陀さまの子として、阿弥陀さまの大悲を宿されて生きさしていただいている、そういうものなんだ、と自分の存在を、生きていることの意味を確認していくことです。阿弥陀さまから大切な我が子よと言われている存在なんです。大事にしましょうよ。年がいってもう私みたいなもんが生きとっても何の役にもたたん、早くお迎え来んかいなという人がいるけど、そんなこと言いなさんな。役に立とうが立つまいが、そんなことは関係ない。なんの役にも立たなくっても、如来さまは私の命に向かってお前はかけがえのない大切な仏の子なんだよ、こう呼んでくださるんだ。私たちは如来さまからやがて仏の徳を実現する大切な仏の子なんだよと言われていることに支えられながら生きさしてもらいましょう。世の中のすべての人からお前みたいな奴は死んでまえといわれたって、大きなお世話だ、私が存在していることは如来さまによって認められているんだ。こう言わしてもらいましょうや。如来さまによって認められている人生を大切に生きさしてもらうんです。その意味で自信を持って生きさせていただきましょう。

「煩悩具足の凡夫」というのは、どうにもならん悪い奴だ、ということと違います。ごみと違う、ただ悪いだけだったら、ただのごみだったら、捨てりゃあいいんだ。しかし、仏さまは私を捨てられんとおっしゃった。如来さまからは如来子といわれているものでありながら、しかし私たちは仏さまの子らしい生き方をしとるか、というたらいっこうにそれらしい生き方が出来ておらん。仏さまに背中向けて悪魔に魂を売ったような浅ましい日暮らししかしていない、そのことの申し訳なさを、「煩悩具足の凡夫」というのです。仏の子が仏の子らしからぬ生き方をしていることを申し訳ございませんと慚愧している。それがこの言葉です。ただつまらんもんだ、というのとは違う。これを間違わないようにしてください。私たちは如来さまから大切なものとして、如来さまにその存在を承認されているものなんだということです。そして、このこの仏さまの子として生きる私は、阿弥陀さまの世界へ、限りない命と光の世界に向かって歩みを運ばしていただいている人生であるといいきらせていただくことができます。こう言わしていただける心の視野を開いてくださるのは、この本願のお言葉ですね。「お願いだからほんまに疑いなく私の国に生まれることができると思ってくれよ」という如来さまの願いを聞き入れさえすればいい。話はそれでけりがつく。「私は何にもわかりませんけれども、あなたのお言葉のままにあなたの世界に生まれていく人生であると思い定めさしてもらいます」とこう仏さまの仰せをスイっと受け入れたらその瞬間に仏さまは、そうかお前私の願いを聞き入れてくれたか、それじゃもうお前も私の仲間やで、とおっしゃってくださる。私たちはこの瞬間から仏さまの仲間として生きさしていただくんですよ。それを親鸞聖人は「正定聚(しょうじょうじゅ)にいる」と言われたんです。仏さまのお言葉を如来さまの願いを聞き入れて、自分の人生を思い定めていくものが仏さまのお弟子でございます。真の仏弟子でございます。仏弟子というのは、どんな生き方をしているかではなく、仏さまの願いを聞き入れたかどうかで決まるんです。もう、ことわりを言わんようにしましょう。仏さまの言葉、願いのままに、あなたの世界に生まれさしていただくとこういただく。その瞬間に私たちの人生の方向が決まる。方向が決まった瞬間に私たちは放浪者じゃない確実な方向に向かう旅人になる。旅人というのは、方向が決まって行き先がわかっているから旅人なんです。行く先が決まっていなかったら放浪者だ。人生を放浪として終わるか、それとも帰るべき命のふるさとを約束していただいて生きるか、これはこの仏さまの仰せを聞き入れるかどうかの問題です。信心というのは、この仏さまの仰せをはからいなく聞き入れることなんです。如来さまの言うことを聞くことなんです。親鸞聖人は、はからいなく仰せを聞けよ、聞き入れよとおっしゃっていますから、仰せのままにお浄土に生まれさしていただく、こう思い定めさしていただく。

考えてみたら私たちはこの世に生まれた時、何にも知らんと来た。何の予備知識も与えられないまま、この世に生まれてきました。どこそこの家に生まれたいと思って生まれてきた訳じゃないでしょ。気が付いたら生まれてた。何しにきたのかもしらん。生まれたことも後になってわかった。そんなもんでしょ。そして、こうしろああしろ、こおでもないああでもない、と言われるうちにここまで育った。そのうちにふと気が付いたらもうお前の持ち時間終わりやで、というようなことになるんです。その時に行く先が決まっていなかったら、これは大変なことです。この命、いずこより来ていずこに去っていくのか何もわからない。実はこれが私たちの本音でございます。何1つ知らされないままこの世に生まれてきた、これは大変なことですよ。ジャンポールサルトルという哲学者がおりましたが、彼は人間ていうのは投げだされたようにこの世へ生まれてくると言っておりますが、まさにそうでしょうね。私だけわからんのか、と思ったらそうでもない。あの有名な弘法大師もわからんと言われている。この方は頭の良い人でね、「行くとして可ならざるなし」何をやらしても超一流、という人物だった。あの方の書物を読んでいると、才気煥発という確実にすごい頭脳の持ち主だったと思うんです。その弘法大師の書物の1つに、「秘蔵宝鑰」というのがある。その序文に「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで死の終わりに暗し」こういう言葉があります。この命いずこより来ていずこへ去っていくのか、何もわからない、ただ漠然とした命を今こうして営んでいる。身震いするような思いがしますな。そんな私が、仏さまのお言葉によって仏さまの教えによって、自分の命の生きている意味と方向を聞き定め、見定めたいと思うんだ、というのでこの書物を表されているわけです。しかし、大師は「金剛頂経」や「大日経」といったお経の中に、自分の命の方向を聞き定め見定めようとされていた。私は親鸞聖人のみ教えに従って「大経」に示された阿弥陀さまの願いの言葉の中に私の生きる意味と方向を聞き定めさしていただこうと思う。私の命には、如来の命が宿された命なんだ。そしてこの命は如来さまの世界に向かって歩みを運ばさしていただいている。やがて訪れる死はむなしい滅びじゃなく、永遠の命の中に帰っていく。永遠の生である。と言われるような自分の人生の意味と方向、それを本願のお言葉の中に聞き定めさしていただくのでございます。こうしてご縁に逢わしていただいて、そして阿弥陀さまの本願をずうーっと受け継いで伝えてくだすった多くの方々の御化導の伝統をいただきながら、私もまたあなた方と同じ世界へ生まれさしていただきます。同じ阿弥陀さまの願いを宿され、同じ阿弥陀さまの世界へ生まれさしていただきます。前と後ろとの違いはあっても同じ所で逢わしてもらいます、こういうことがズバッと言えるみ教えを与えていただいたということは、本当にありがたいことですね。ちょうどお時間になりましたのでこれでお話を終わらせていただきます。(寺報66号)