上品 中品 下品

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


自分が上で、他人は下-いつも上でありたいと願ってやまないのが本当の私なのですが、他人に問われると、なかなか正直にそうはいえない。ちょっぴりテレて「いえ、わたしなんか…」と引き下がる。

お経にこんなのがあります。人間を上、中、下にわけて、上品、中品、下品という。そう、良い子、悪い子、普通の子ですね。で、さらに、上品にも上、中、下、中品にも上、中、下、下品にも上、中、下とわけて、合わせて九品-一番りっぱな人間は上の上、最低を下の下というわけで、まあこの中に、すべての人間がふくまれているというんです。

さて、あなたはいったい、どのあたりの人間でしょうか?
むずかしいですね。答え方が。うちのお寺にくるおばあちゃんに、これと同じことを聞きますと、
「そりゃあ、仏さまからみりゃ、私なんぞ下の下でございましょう」
答えはりっぱだけど、本当にハラの底からそう思っているかといえば、そうでもないみたい。(下の下だという反省のある私は、あの人よりは、ちょっと上・・・)という心がどこかにうごめいている。

若い方に聞くと、軽い気分で「そうだなあ中の上ぐらいかなあ」とおっしゃる。日本人の生活意識もそれぐらいのところだというデータがありましたよね。でも、これだって、中の上なんていってるけど、となりに比べればもうちょっと上、と思っているんじゃないかしら。まあ、正直にいって、どんな生き方してようと、自分は自分、ちゃんと二重丸、三重丸をつけて、内心ひそかに、上の上だと思っていなきゃ、生きてられない・・・てなところじゃないですか。

ではいったい、りっぱな人間、上品な人間、上の上というのはどんな人のことをいうのか、ということをさっきのお経に聞いてみたいと思うんです。そうして出来ることなら、努力して、本当にりっぱな人になってみようと思う。上品な人、上の上の人の第一条件は、というと-世のため人のためを思い、世のため人のためにつくし、ものをいつくしみ、はぐくむ心をそなえた人-と説かれてあります。

いま流行のボランティア、福祉の問題にとりくむことも、りっぱなことなんだと、仏さまもおっしゃるわけです。大いにがんばりたいですね。ただね、がんばったからって、慢心をおこしちゃいけません。そこのところを、自分で実践しながら得た結論として、永六輔さんがうちの寺の本堂でこう話して下さった。
「みなさん、ボランティアとか福祉とか、めぐまれない人たちに愛の手を、なんて近頃とてもよく使われる言葉ですけど、いいですか、愛の手なんてだれも持っていないんですよ。持っているのは右手と左手だけ。もし人のためを思うなら、その手を求められれば貸せばいいの。愛の手なんて飾りたててさしのべて、相手がしあわせになるなんて考えていたら、それこそ大間違いです!」

胸にズシンとこたえました。この私がやってる世のため人のためはひょっとしたら自分の好みの押しつけで、人べんに為-つまり「偽」なんじゃないかと気付かされたことであります。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
>> https://www.zengyou.net/?p=5702