子の痛みをわが痛みとして

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女性が一生懸命に力を入れることには5つあって、1に美容、2に家庭ときて、3はといえば、これが「子供」である、と仏様はおっしゃってる。なにも仏様にいわれなくたって、母が子を思い、子育てに熱中することぐらい、本紙連載の山谷えり子さんの子育て奮闘記を読めばすぐわかるわけでありますが…。でも、どうして、母親はわが子のこととなると、父親を放ったらかにしてでも、がんばる気持ちになるんでしょうね。

そのあたりを、ひょっとしたら、こういうことなんじゃないかなあ、と感じたことがありますのでお話しいたいと思います。これは仏様じゃなくって、わたしの思いですから、たいしたものではありませんが…。

子供って、アチラのことばでいうと、チャイルドですよね。で、そのチャイルドというのは語源は何かと英語の先生に伺ったら、なんと、ラテン語で子宮ということばなんですと。つまり、母親と子供はつながっていて、それが切れて出てきたんだけど、まだまだおなかの中と同じようなものなんだということでありましょう。このことで、おどろいたのは、わたしの友人がある時、仕事でケガをしまして、機械に指をはさまれて、右の指3本なくしてしまいましてね、どうなぐさめていいのかわからず
「たいへんだったなあ、不自由だろう」
と、なんとも月並みなことをいっちゃったんですが、その時、友人がいうには-
「お前にはわからんだろうが夜寝ているとな、このなくなった指の先の方が痛むんだよ。それで、フト、手をやってみると、そこにはもう指はないわけだろ。神経の錯覚なんだろうけど、いやあ、なんともいえないものだぜ」
わたしは、これをただ不思議なこともあるものだなあぐらいに思っていたんですが、それからちょっと気になって、手をなくした人、足をなくした人などに聞いてみたんです。すると、みんな同じような痛みを感じ、なくなった手の先、足の先に手をのばすというんです。そんなものかなあ、とうなずいていて、ハッとしたのは、じつは、母と子というのはこの関係なんですね。

つながってたんです。それが切れて出たんんです。そしたら、ちょうど、なくなった指の先が痛んだり、切断した足の先にふと手がのびるように、子供の痛みが、わが痛みと痛める。子供の悩みが、他人事でなく、わが悩みと悩める、それが母親なんじゃないでしょうか。

うちの女房も同じで、はじめて、子供を医者に連れていって、大きな注射をされるとき思わず、痛い!と口に出てしまったといいます。自分が注射されるわけでもないのに、子供の痛みが、自分の痛みのように感じられる、ということでしょう。残念ながら、父親にはそれがない。いや、これは私だけかもしれませんが、子供がケガをして帰ってきても、傷口に手をやることをせず、まず「オイッ、たいへんだ、なんとかしてやれ!」と女房を呼ぶ。痛みが伝わってこないんです。なんとかしてやろうとは思うけど、口ばっかりなんです。これはやっぱり、つながってなかったからじゃないだろうか。男は名利、でカッコばかりつけていて、わが子の痛みをわが痛みと感じない。わが子の悩みをわが悩みと悩めない-というところが父親にはあるんじゃないだろうか…。

女人の第3力-母と子の絆に対しては、男としてただただ頭が下がるばかりであります。


「お茶の間説法」(37話分)
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