人間の死亡率

テレビを付けると「人間の死亡率100%」と見出しがあって、誰かが話している。NHKではなく民法で、バラエティ番組のよう。話し手は解剖学者の養老猛さん。氏が言うには、現代は「死」を隠し過ぎたと。もともと生と死は切り離すことは不可能なもの。それが今は、死を遠ざけ、生だけに偏るようになった。その原因の一つとしてここであげられていたのは、土葬から火葬に変わり、その同時期にあるものが全国に普及したと。ひと昔前は、人が死を迎えると土に返す土葬が主流だったが、法律が変わり、火葬が当たり前の時代へとなった。そしてその同時期に、水洗便所が全国に普及した。人間にとってマイナスイメージのもの、「死」や「排泄物」を隠す時代へ。確かにその流れは強くある。お年寄りや障害者は施設へ、病院で死を迎えるのは当たり前、最近では、お墓も外観を乱すとかなんとかで、自分の土地へ勝手に作ることすら許されない。見事に老病死をスミへ追いやった。でももしそれが本当にマイナスなら、すべての人間はマイナス、最悪の方向へ向かっていることになる。養老氏は、今こそ「死」を見直そう云々ということで、そこに出したのが樹脂でミイラ化された人間の標本。タレントさんたちが感嘆の声をあげながら見ていた。所要があったので、ここまでしか見れなかったが、全体の感想としては、民法のしかもバラエティ番組でこんな重いテーマをあげたことは、評価されるものかもしれないけど、いかんせんテレビ。やたら薄っぺらく見えるのはなんでだろう。おそらく、養老氏も他に言いたいことは山ほどあるだろうし、現場ではもっと話しているだろうが、それを超コンパクトにわかりやすくまとめあげるテレビ。そして、さらにわかりやすくするため、テロップでいちいち話していることを強調し、効果音や照明で演出、感嘆の声や笑いなどを足していて、こちらに考える余地を与えず、ここで驚け!ここで笑え!という感情操作。マスコミ出身の父からテレビの言うことは99.9パーセント嘘だと思え、と育てられたぼくだけが感じることではないと思う。

批判出来るほど教養も知識もないし、薄っぺらさでは負けていないので、多くは言えないけど、「死」という大きな問題を取り上げながら、それが随分と軽く写る様子は、なんとも切ない気持ちになった。とは言っても、死をあまり重く考え過ぎると、余計に考えないようになるかもしれないので、こういうのも一つなのかもしれないとも思う。

ガンの死亡率何パーセント、肺炎の死亡率何パーセントといくらいったところで、

「人間の死亡率は100%」

これは父の口ぐせだった。蓮如上人という方も、御文章というお手紙で「後生の一大事」を何度もくり返し言われている。後生とは、いのち終えた後の行き先。帰り処を聞くことこそが人生の最大の一大事だと言われる。帰る家をもつことで、今安心して歩くことが出来る。

だれもが楽しく可笑しく人生を過したいと願うが、絶対に訪れる老病死。お金も名誉も健康もボケ防止も一発で吹っ飛ばす老病死。

仏教を説かれた釈尊は、もと一国の王子だった。体にも頭脳にも恵まれ、欲しいものは何でも与えられ、何不自由なく育った王子も、老病死の隠された世界で育った。そしてある時、老病死をまのあたりにし出家したと伝えられる。釈尊と比較するのはあまりにもおこがましい話だが、ぼくら現代人も状況は似ているのかもしれない。恵まれた状況にありつつも、欲望の無限ループの中、満たされない想い。ここに疑問を持つか持たないかで、大きく人生は変わるのかもしれない。

(2005年のブログより)