わかってはいるけれど

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画像は善巧寺門徒会館の外壁です。光っている文字は、今回の話に出てくる「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう)」のサンスクリット語です。

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


上品な人といわれるために心がけなくてはならない条件を、お経には第一「慈心」、第二に「不殺」と説いてありました。人のためを思い、いのちを大切にする-なるほどそんな人は間違いなくりっぱな上品な人であります。

そして、もうひとつ、りっぱな人は「具諸戒行」なのだとある。グショカイギョウってなんだといえば、もろもろの戒律を守るということ。でその戒律とは身体と心をコントロールしてよい習慣をつけることでありまして、それは単に宗教的な戒律にとどまらず、法律や経済やさらにはからだの健康面にいたるまで、その理想に反することのないように努力することなのであります。

まあ、かんたんにいえば、この世の中の、いろんなルールをキチンと守って、なるべく悪いことはしないようにし、よいことはすすんでするようにしましょう-という戒めであります。
「なーんだ、そんなことか。そんあことなら小学校、幼稚園、いや、三歳のこどもだって知ってることじゃないの」
あなたも、わたしもそう思う。いや、われわれだけじゃなくて、いまから千年もっと前の中国でも、われわれと同じことを思った人がいるんです。お酒が大好きな詩人、白楽天(はくらくてん)がその人。

当時、西湖という所に、道林という和尚がいて、この坊さんなぜかいつも松のしげにも中に、鳥の巣ごもりのように棲んでいる。アダ名も「鳥窠(ちょうか)」といわれる変わりものだったそうです。この噂を聞いた白楽天が面白い遊び友達だとばかり、道林和尚をたずねていわく-
「和尚さん、あなたM、ずいぶん、危険なところに住んでいますなあ。松の木の上なんて」
すると道林ー
「そういうあなたも安住の地ではなく、ここよりもっと危険だと思わぬか」
ご両人、ジャブの応酬というところ。そして、白楽天、本題にはいる。
「ところで、仏法とはそも何ですか」
すろと道林、たったひとこと、
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」
悪いことはしないようにして、よいことはすすんでするようにする-これ仏法とやったわけです。
そしたら、ほれ、さっきの私たちのように白楽天さんも思ったわけで、
「そんあこと三歳のこどもでも知っている。わかりきったことを!」
とことばを返した。そしたら道林、答えていわく-
「三つの子供でも知っとることじゃが、八十になっても出来んことじゃ」
これでには白楽天、二の句がつけず。以後、長く道林の教えをうけたということであります。

知っていることだけど、出来ないこと-そういえばたくさんありますね。日常生活の中でも、例えば、健康のため、吸いすぎに注意しましょうとか、食べすぎに注意しましょうとか、危険防止のため、交通ルールは必ず守りましょうとか、おとしよりを大切にしましょうとか、まあ、いいこといっぱいあるけれど、なぜか、わかっちゃいるけどやめられない。そう、そのわかっちゃいるけどやめられないのは、なぜなのか。なぜ、上品になれないのかを見つめてゆくのが仏法なんですね。


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
>> https://www.zengyou.net/?p=5702