すべてありのままに生じる

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縁起というのは、かついだり祝ったりするものじゃなくって、縁によって生ずるという因果の道理そのもののことでありまして、ウリのつるにはナスビはならん。そういえば、おもしろいお経がありましてね、「仏説稲芋経」という。イネやらイモやらのことが説いてあるみたいで、富山のコシヒカリにも関係あるかと思ってちょっとひらいてみたんです。

「かくの如くわれ聞きぬ。あるとき、おしゃか様が、王舎城で多くのお弟子達を前にしてこんなことをおっしゃった」
という決まり文句からはじまって、おしゃか様のさとりの根源がのべられてある。
「因あり。縁あり。これを因縁法と名づく。この法はすべての存在のあり方であって、この法をみるものは、仏をみる」
このあと、例を引いてこの道理を説明してくださっているんです。
「例えば、稲の種モミはよく芽を生じ、芽はよく葉を生じ、葉より節、節より茎、茎より穂、穂より花、花より実を生ず」
当たり前のことですな。その通りですよね。で、次にね、もし種モミがなかったら、どうなるかっていわれる。これももう知れたこと。種モミがなかったら、芽もなく葉もなく、節もなく、茎も穂も花も実もならない。このあたりになると、こたつでコックリのおばあちゃんもうなずいて、「そうそう、その通り」と相づちを打つ。

さあ、そこで大事なことだけど、この種モミは「よーし、大きくなって芽になるぞ」と思うだろうか?葉が「節になりたい」とか穂が「花を咲かせたい」とか思いますかね。そんなこと聞かんでもわかってるという顔をしている、でしょ。なのに、種モミは順々に成長して、穂になってゆく。いったい、だれがそうさせるのだろうか?
「そら、若ハン、神や仏のおかげでしょうが」
困ったな。お経にはそうは説いてない。土や水や、太陽や、風や時節が縁となって稲は育つと書いてある。
「そうそう、その土や水の神さん!」
いや、だから、その土や水や風だって、すべて因縁生で、我というものがないんだです。ですから、この種モミを育ててやろうとか、あっちの種モミは育ててやらないとか、そんなこと、ちっとも思っていないのよ。お経には、すべてがありのままに、因と縁によって生じたもの(人を含めて)であって、自在天-つまり、おばあちゃんのいう神さまね、そういう方が、この世のすべてを創造されたのではない、と、おしゃか様はおっしゃているんでんです。おわかりですか?ことばが足りないけれど、これが因果の道理というものなんですよ。

だからね、早い話が、神社の鈴鳴らしても景気はよくならんし、交通安全のお札をもらったって事故がなくなったりするわけない。それに、どこやらでお百度参りしたら入学やら就職やらがうまくゆくなんてことあるわけない。みんな因果の道理に反するでしょ。それから日を選ぶというの、あれもいけませんなあ。今日という日は、私にとってもう二度と戻らない日でしょ。それをなにやら、仏滅や友引や大安やとやっている。昭和のはじめにあれ一度禁止されたはずなんだけど、近ごろは、かしこそうな人まであれをかついで、今日は日が悪い、なんてやってる。どうして、ああいうことになるのかねーことしゃ春から、なんとなく、ハラ立つなー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
>> https://www.zengyou.net/?p=5702

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