みんな、みんなご縁です


縁起というのは、きっかけとか、かくぁり合いとか、条件とかいった意味のことで、すべてのものは、たった一つで、コロンとあるのではなくて、いろいろなものがかかわり合って、存在している。条件がそろったら、どのように変わるかもしれない。で、それはだれが動かしているかというと、神さまでも仏さまでもない。あるがままに、かかわり合って生起している、それがすべてのものの存在の原理だと、おしゃか様がおっしゃる。

例えば、おばあちゃん、ほれ、この急須と湯呑茶わん、いいでしょ。わたしがつくったの、最近のは水切りもよくて、評判もいいんだよ。
「ほりゃ、若ハンの焼き物自慢がはじまった」
と、コタツのおばあちゃん、クスリと笑う。いや、今日は違うの。だから、例えばの話ですよ、この茶わん、何から出来たか知ってるでしょ。そう、土から生まれたのよね。たまたま、近くの陶芸センターで、粘土を買って、コネコネやって、また、センターで焼いてもらったわけ。ところで、わたしの買った粘土の隣の粘土はどうなったかなあ。ひょっとしたら、老人クラブの趣味の会の方へいって、ぐい呑みか、灰皿になっているかもしれない。そのまた隣の・・・いや、センターのオケに入らなかった山の粘土は、まだそのまま、山の土のままのはず。いや、これもどこかの陶芸家がヒョイとすくって、何百万の大作をこしらえたかもしれない。
「ハハハ、若ハンのとこへきた粘土が一番かわいそう!」
ちょっと、そら、いいすぎだよ。でもね、これがご縁なんだな。私のヘナチョコ茶わんと、老人クラブのぐい吞みと、陶芸家の芸術作品は、皆同じ粘土-つまり前世は、兄弟なんです。

で、この茶わんになったときが、私たちの人として生まれて生きているときと同じなのでありまして、これが、いつこわれるか、というと、今日とも知らず、明日とも知らず。いや、評判悪くて、だれも使わなかったら、200年、300年、1000年もつかもしれん。そうなったら、国宝もの・・・かも知れない。

で、結局、生あるものは必ず死に帰すわけだから、茶わんもわれて、粉々になって、土に帰って、今度はセメントの材料にでもなって、どこかのビルに生まれ変わるかもしれない。そう考えると、面白いね「世界はみな兄弟」はほんとだね。人類だけじゃない。みんな兄弟!

ところが、残念ながら、そうはすんなりいかない。展望台に立って景色をながめるように、生々流転のありさまが、この私にわかるかといえば、私も、この茶わんと同じで、自分がどこからやってきたのか、わからない。どこへゆくのかもわからない。

ついでにいっておくと、さっきおばあちゃん、私のところへきた粘土が一番かわいそうなんて冗談いってたけど、ものの値打ちなんてものは、人間の煩悩できまるもんだから、あてにはならんのよ。いや、これはちょっと、弁解みたい。煩悩の話はまたあらためて。

で、縁起でありますが、この茶わんをみるにつけても、山の土が、粘土になって、ひねられて、焼かれて、形ができて、使われて、よろこばれたり、いらないものにされたりして、欠けて、こわれて、捨てられて、また土にもどり、河を流れ・・・みんあみんな、ご縁なんですね。見えないけれど、私たちもまた同じように、縁起の中にあるんだなあ。焼かれにゃわからんのかも知れんけどさあ。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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