無明に始まり 無明で終わる


無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)-おしゃか様が菩提樹の下で、おさとりを開かれたその中身がこの12因縁だといわれています。コタツのおばあちゃんに聞いてみたら、「ムミョーというのと、生、老死というところだけ、ちょっとわかる。愛なんかわからん」という。

ムミョーって何ですか?
「だから、明るくないんでしょ。私みたいに、目はくらい、頭はうすい、智恵がない」
大当り!いや、失礼、そのォおばあちゃんだけでなくって、みんなそうなんだから気になさらなくてもいいんだけど、とにかく、その無明というのは、あなたのおっしゃる通りなんです。

で、行はどうかというと、その智恵のないまま行うわけで、うまくゆけないわなー。だから、その行いが認識され、色、香、味などの名色が生じ、眼、耳、鼻、舌、身、意という六根(ろっこん)が生まれ、その六根あるゆえに、感覚、知覚(触)が目覚め、この触(そく)によって、苦や楽や、不苦不楽を感受する。このあたりで愛がムクムク・・・といっても愛してるというようななまやさしいものでなくって、渇愛(かつあい)というか、ものすごい欲望がわいてくる。で、その欲から実際の行動をするんだから、これはもう、殺生、盗み、妄語(もうご)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)、綺語(きご)、邪婬(じゃいん)と、とどまるところをしらない。そしてその余力が存在(有)するかぎり、また新しい生を生み、ついてには、老死へ至り・・・で、もともと、無明から出発しているのだから、もとのもくあみ、無明へもどってまた迷いの流転(るてん)をくり返す―これが私たちの行く末、来し方だとおしゃか様がおっしゃる。

「なんとも、なさけない。あわれ無常の一生か-ナンマンダブ」
おばあちゃん、自分の行く末が見えたのか見えないのか、ちょっと悟った気分になって世の無常に、タメ念仏。

いや、タメ息つくのは私も同じだけど、そこでフイッと、ごまかすか、ごまかさんか、ここが大事なところなんです。どうせ私ら、生まれてきたんだから、死なにゃあならん。けど、それはハハハッ死んだらしまいじゃと、わからんままにごまかすか、生老死は世の常だけど、この私のこの一生、今日一日のこのいのちを、いかに精一杯生き切るか、ということに努力するか、しないか・・・このあたりに、人として生まれてきた私たちの人生の送り方の別れ道があるのかもしれませんね。

おしゃか様というお方は、そのあたりの現実の問題と、真っ向から取り組んで修行され、瞑想されて、お悟りをひらかれたんですね。そして、縁起の理法をあきらかにされ、生、老、死の悲しみ、苦しみ、おそれを乗り越えて、心豊かに生き、心豊かに死んでいかれたんですな。素晴らしいと思う。いや私らが評価すべき、次元の問題じゃないが。というのは、なにしろこちらは、無明の凡夫でありながら、凡夫と気づかないばかりか、おしゃか様と同じ修行をするほどの根気はないし、悟りのすべてをお経によって聞かせていただいても、チカッと目が覚めるなんてこともないナマケモノですからね。そんな私に、気付けよ、目覚めよと、働いて下さっておるのがこれまた、阿弥陀如来という仏様なんだけど・・・このへんの話は本堂でしたほうがよさそうだ、おばあちゃん、行こか?
「若ハン、外は雪やぜ、本堂は寒い」
ん?!


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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