ほっこり法座Q&A

8月1日に行われた「ほっこり法座」のアンケートで質問をいただきました。それに対して、講師の日下賢裕先生よりご返答を掲載します。



お釈迦様が仏教を作られたと初めて聞いた時はちょっとびっくりしました。阿弥陀様かと思っていたので。

仏教をひらかれたのは、お釈迦様です。阿弥陀様(阿弥陀仏)という仏様は、お釈迦様が説かれた教えの中に出てくる仏様で、「仏説無量寿経」というお経では、この阿弥陀仏という仏様について説くことが、私(お釈迦様)がこの世に生まれた本当の目的であったと言われています。


この世の全てのものは、それ単独で存在するものはなく関係性によって成立しているといいますが、苦が生じるということは、私という存在があるからであり、私という存在がなくなれば苦は生じないのではないでしょうか?(もちろん死を望んでいるわけではありませんが)

おっしゃる通りで、お釈迦様も、煩悩を滅し、苦から解放された「涅槃」の境地に至られましたが、生身の肉体を持っている以上は、そこから生じる苦から完全に離れることはできなかったのでは?と言われています。ですから、そのような状態を「有余涅槃(うよねはん)」といい、肉体からも完全に解放された先にこそ本当の涅槃「無余涅槃(むよねはん)」がある、という考え方もあります。

ただし、だからといって自ら死を選ぶことを勧めているわけでもなく、お釈迦様も生涯、伝道に励まれたように「生き切る」ことの大切さを、そのお姿をもって教えてくださっているのではないでしょうか。苦とともにあることを悲嘆することも一つの執着ですから、苦とともにあるけれど、苦とともに生きる、ということが、仏道を歩む、ということになるのかもしれませんね。


無自性、空ということで、煩悩というものは存在せず、だから滅すべき煩悩もないという話を聞いたことがありますが、どうなのでしょうか?

なんとなく筋が通った説のように感じられますね。無自性、空、ということは、今回お話しましたような「諸行無常・諸法無我」ということを発展させていった先に、龍樹菩薩という方によって示された論になります。「縁起」という言葉でも表現されますが、つまりは物事は、因(直接的原因)と縁(間接的条件)によって生じている、という説です。ですから、無自性とか、空、ということが示すのは、「無い」ということではありません。「常一主宰」というようなそれ単独で成り立っているのではなく、様々な条件によって成り立っている、ということを表しています。ですから、無自性・空、だからといって、「無い」ということに繋がるというわけではありません。

「煩悩」というものも、「煩悩」という言葉を当てることによって、私たちの心の中にそういうなにか固定的なものがあるようにイメージされますが、そういう固定的なものとしてあるのではなく、様々な条件によって生み出されている、私の心の作用の在り方のことを、仮に「煩悩」と名付けているに過ぎません。ですから、煩悩も無自性・空であると言えますが、それは煩悩が無い、ということとイコールではない、ということになるのだと思います。


物に執着することで苦が生まれるが、では執着をなくすにはどうすればよいのでしょうか?

執着をなくしていくということについては、これからの「ゼロから味わう仏教」の中でお話していきたいと思いますので、またどうぞお参りいただけたらと思います。