お茶の接待は遠慮させていただきます。

お参り先では、通常お茶の接待を受けます。特別なこととして普段は入れないお茶を入れてくださる方、麦茶やウーロン茶のほうが飲みやすいだろうと出してくださる方、コーヒーや紅茶を出してくださる方、昆布茶や栄養ドリンクを出してくださる方など、いろんなお茶の接待を受けています。

今年はコロナの影響を受けて、お茶の接待を遠慮させていただくことにしました。内情を話すと、飲食を共にすると濃厚接触者になる可能性が上がるそうです。つまり、自分たちを含む誰かが感染した場合、漏れなくPCR検査が必要になってきます。できればそれを避けたいので、お茶をお断りすることにしました。考えてみると、これはコロナ対策というより、相手になるべくご負担のかからないようにという社会的な対策なのかもしれません。

お茶の接待は、来客を迎えるひとつの形式です。出される側としては、1日に何杯も頂くことがあるので、ノドを潤すという意味では必ずしもなくてはならないものではありません。ただし、出す側としては、おもてなしの場所をひとつ失うことになります。

ひと昔前は、ご近所の方をはじめ、親戚、同僚、上司、先生、僧侶など、さまざまな人を迎え入れる場面があり、家の当主にとっては、どのように迎え入れるかが最重要課題でした。それが、立派な客間や床の間、仏間にも通じていきます。床の間においては、日本的なギャラリーとも言える場所で、掛け軸や陶器などを四季折々に変えて、当主が学芸員ばりにそのいわれを来客に説明したものです。思うに、数代前の人たちが作り上げた家の文化が発展したのは、来客あってのことだったのでしょう。冠婚葬祭すべてを家で行い、100人単位の人を迎え入れることもありました。もはや、立派なイベントです。それだけの人たちをわが家に迎え入れ、おもてなしをする。気合いが入らないわけがありません。その相乗効果によって、今では理解不能なほど大きな仏間や客間が発展したことだと思います。

昨今は核家族化がスタンダードになり、家に人を迎え入れるということが極端に減りました。友達を呼ぶことはあっても、目上の人や会社の上司を招き入れることはほとんどないのではないでしょうか。それは家の在り方にあらわれています。

時代は常に変化していきますが、それによって失われていくものを忘れたくありません。お茶を出すという一つの行為にも、おもてなしの気持ちをあらわした先人たちの心があります。形式にこだわる必要はありませんが、果たして我々は、その心意気をどのように表現していくのでしょうか。お寺もたくさんの人を迎え入れる場所です。コロナ禍において、今年はお茶を出すのも出されるのも遠慮させていただきますが、ではどうやって、おもてなしの心を表現していくのか。形式によって考えなくてよかったことを改めて考えていきたいと思います。