家での自分、学校での自分、職場での自分、友人といる時の自分、趣味に没頭している時の自分など、どれが本当の自分なのか?という問いに対して、小説家の平野啓一郎さんは、そのいずれもが「分人(ぶんじん)」であり、分人の集合体が「自分」であると提唱しています。
以前、「自分探し」という言葉をよく耳にすることがありましたが、人は環境や状況によって常に変化しているのに、一側面だけに限定してしまうことはとても窮屈です。平野氏がおっしゃるように、いろんな側面の自分がいることを受け入れられるようになると、少し生きやすくなるのかもしれません。
現在のように名前が固定されたのは、明治四年に制定された「戸籍法」以降のことで、それ以前は自由でした。親鸞聖人は、幼い頃の名を「松若丸」といい、九才で得度すると「範宴(はんねん)」という名を授かり、二十九才で法然聖人の弟子になった時には「綽空(しゃっくう)」の名をいただき、その後、「善信」、「親鸞」と名のっています。名前ひとつとっても、今は随分不自由になったような気がします。
環境によっても相手によっても様々な自分がいて、年齢を重ねるごとに変化していく自分もいます。阿弥陀さまの救いは、空間的にも時間的にも制限されないと説かれてあるのは、どんな自分にも漏れなく救いが行き届いていることをあらわしているのでしょう。阿弥陀さまの手の中で、自分を限定せずにのびのび生きたいですね。
雪山俊隆(寺報182号より)
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