ふたつでひとつ

一体で二つの頭をもつ「共命鳥(ぐみょうちょう)」は、一頭をカルダ、もう一頭をウバカルダといいました。ある時、ウバカルダが眠っている時に、カルダは果樹の花を食べました。カルダはウバカルダのことを想い食べたのですが、それを知ったウバカルダは、黙って食べたことに怒りを起こします。その憎悪は消えることなく、後に、毒花を見つけたウバカルダは、これを食べてカルダに恨みを晴らそうとし、共に死んでいくという物語があります。

この物語は、善意を素直に受け取ることが出来ず、悪意を相手にぶつけることによって共に苦しんでいる私の姿をあらわしています。悲しいかな、夫婦と言えど、親子と言えど、友達と言えど、ふたつのいのちがひとつに溶け合っていくことはままなりません。一方で、極楽浄土に説かれる「共命鳥」は、ふたつのいのちがひとつに溶け合っていく仏様の領域をあらわしています。詩人金子みすずさんの「さびしいとき」という詩があります。

私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちはわらうの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。

いのちといのちの繋がりの究極は、人の痛みが我が痛みとなり人の喜びが我が喜びとなることでしょう。そんな仏様の慈悲の心に触れると、自分の有り様を恥じずにはおれません。ウバカルダは外にいるのではなく、私自身の姿であったことを教えられます。

雪山俊隆(寺報159号)