わが心のカースト

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


凡天は自他の差別をみる。どういう根性なんでしょうか。私達は自分と他人を比較し、区別し、必ず順番をつけないとおさまらない生き物のようであります。

昨年、インドへ行って驚いたことですが、あちらのカースト制度というのは、いまだにきびしいものでして、例えば、身近なところで私の乗った仏跡参拝バスには4人のインド人が乗っていました。運転手と助手と、ガイドと、知り合いの大学教授-この4人なんですが、なぜか一緒に食事しないんです。最初は好みが違うのかなあ、ぐらいの印象で、とにかく一週間余りつき合った。こちらは、どういうわけか、だれにだってニコニコ笑って、ありがとう、ようこそ、といいたい方ですから、毎日、バスを降りるときには「ナマステ」といって手を合わせ、それから握手を求めて「アリガトウ、今日も一日、すばらしい旅だった」と、お礼をいうわけです。

これが、さっきの4人、別々のところでやってるときはよかったんだが、あるとき、4人とも並んでいるところで、順番に握手を求めて「アリガトウ」とやっちゃった。そしたら、とたんに雲行がおかしくなった。教授は私の前でガイドをしかりとばす。ガイドは運転手をコテンパン。運転手は助手をけとばすのであります。

ピンときた。あーそーか、ここはまだ身分制度がきびしくて、一緒に扱うと問題が起こるんだな。というわけで、少し気をつかうようになったんですが、やはり、それがご縁で、インドのカースト制度というものはどうなっているんだろうということを知りたくなりまして、調べてみたんです。

そしたら、なんと、私達が中学校ぐらいで習ったカーストは、バラモン(修行僧)、クシャトリア(貴族)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)の4段階で、これを区別するためにお経の中にもバラモンの子は母の頭から生まれ、貴族の子は、母の脇の下から生まれ、平民はおなかから、奴隷は足の裏から生まれるなどという表現をつかってあるわけです。おしゃか様がお母さんのマーヤ夫人の脇の下から生まれたというのは、彼は貴族の子として生まれた、ということなんですが、それはさておき、要するにカーストは4段階だと思い込んでいた。

ところが、カーストはさらに細かく区別され、現代のインドには、なんと2378の区別が厳然としてあるということを知りました。職業、思想、宗教、肌の色・・・などなどのほんのわずかな違いが、すべて差別区別となり、極端に閉鎖的な社会をつくっているのだそうです。

二千数百年前、そんな身分制度を真っ向から打ちくだいて「四海みな兄弟!」と高らかに宣言されたのがおしゃか様ではなかったのか-と、少々熱くなって、なんとかならんのかインドのカーストは・・・と思いながら、ドキッとしたのは、果たしてそういう私達はどうなのか、ということであります。わが心のカーストはどうなのか?

タテマエでは、明るい町づくりとか人類は一家なんてうたっているけど、心の中、煩悩の奥底では、あの人は、この人は、と指を指し合いながら順番をつけて生きている。それが仏様からみた、どうしようもない人間の姿なんですよね。下の下なんだなあ、やっぱり。


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
>> http://www.zengyou.net/?p=5702