続・お茶の間説法」カテゴリーアーカイブ

自分の欲深さには、気付かない

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


人は多く自覚症状のない心の病気にかかっている-のだそうです。わたしがこんなこといったら、えらそうにお前も人じゃないかといわれるので、ことわっておきますが、これはお悟りを開かれたおしゃかさまのことばなんです。

ちょっと気になりますね。心の病気・・・いろいろあると思うんですけど、自覚症状がないとおっしゃるんだから、私達が気付いて改めることも出来ないし、治すことも不可能であります。といって放っておいたら、病状はますます悪化して、ついて手のつけようのないことになるかもしれない。

そこで、とりあえず、その病気とはどんなものなのか、ということを、医王ともいわれるおしゃかさまにお聞きして、心の健康診断をしていただこうと思うわけでありますが…、あ、そうそう、その前に、身体の病気は大丈夫ですか?こちらは、どんな時でもお医者さんにみてもらって下さいね。よく、身体の病気の方もお医者さんにみせないで、わけのわからない人にみてもらって、チチンプなんてやってる人あるけど、ありゃおかしいよ。いや、気持ちはわかりますけど、チチンプイで身体の病気が治るんなら、お医者様はいらないわけだし、そのチチンプイの人だって病気で倒れることあるわけだから、気休めならまだしも、目の色かえて、とびつくものじゃないと思うんです。

その点、おしゃかさまという方は、今でいうなら、とても科学的な方でありまして、
「病気になったら、医者にゆけ」
とおっしゃって、ご自分でも、風邪を引いたりなさったときは、神通力や念力で治すなんてことしてません。ちゃんと、お経にも出てますけど、素直に「医者をたのむ」とおっしゃってます。

さてさて、心の診断、その1であります。
自覚症状のない心の病気の第一は、いったい何かといえば、お経には「欲貧これなり」と説いてあります。欲貧-欲とむさぼり。ひっくり返せば、貪欲であります。こいつに私達は心のすみずみまで犯されていて、手のつけようがない。そして、さらに困ったことには、本人がそれに気付いていない、とおっしゃているんです。

いかがですか?欲に迷っていませんか。毎日、貪っていませんか。この貪欲の心というのは、自分の好みに合ったものに出くわすと、必ずムラムラとわいてきて、みさかいがなくなる、というおそろしい心の病気なんですと。うまいものならもう一杯。気に入った人ならいつまでも。欲望を満たしてくれるおカネなら、それこそもっともっといくらでも・・・。

しかし、どうなんでしょう。貪欲は心の病気なんてこと、いまさらいわなくったって、ちゃんとわかっていたことじゃないですか。でも、そうすると、おしゃかさまは、どうしてわざわざ、自覚症状のない心の病気の第一に、この貪欲を持ち出してこられたんでしょうね。

そこで、もう一度、自分の心の奥底を見直してみなくてはいけないのですが、どうやら、私達、わかったような顔はしていたけど、気がつく欲や目につく貪りは、すべて他人の貪欲で、そっちはイヤラシイと軽べつしながら、自分の欲深さには、トンと気がついていなかったんじゃないかしら?


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
>> https://www.zengyou.net/?p=5702

わが心のカースト

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


凡天は自他の差別をみる。どういう根性なんでしょうか。私達は自分と他人を比較し、区別し、必ず順番をつけないとおさまらない生き物のようであります。

昨年、インドへ行って驚いたことですが、あちらのカースト制度というのは、いまだにきびしいものでして、例えば、身近なところで私の乗った仏跡参拝バスには4人のインド人が乗っていました。運転手と助手と、ガイドと、知り合いの大学教授-この4人なんですが、なぜか一緒に食事しないんです。最初は好みが違うのかなあ、ぐらいの印象で、とにかく一週間余りつき合った。こちらは、どういうわけか、だれにだってニコニコ笑って、ありがとう、ようこそ、といいたい方ですから、毎日、バスを降りるときには「ナマステ」といって手を合わせ、それから握手を求めて「アリガトウ、今日も一日、すばらしい旅だった」と、お礼をいうわけです。

これが、さっきの4人、別々のところでやってるときはよかったんだが、あるとき、4人とも並んでいるところで、順番に握手を求めて「アリガトウ」とやっちゃった。そしたら、とたんに雲行がおかしくなった。教授は私の前でガイドをしかりとばす。ガイドは運転手をコテンパン。運転手は助手をけとばすのであります。

ピンときた。あーそーか、ここはまだ身分制度がきびしくて、一緒に扱うと問題が起こるんだな。というわけで、少し気をつかうようになったんですが、やはり、それがご縁で、インドのカースト制度というものはどうなっているんだろうということを知りたくなりまして、調べてみたんです。

そしたら、なんと、私達が中学校ぐらいで習ったカーストは、バラモン(修行僧)、クシャトリア(貴族)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)の4段階で、これを区別するためにお経の中にもバラモンの子は母の頭から生まれ、貴族の子は、母の脇の下から生まれ、平民はおなかから、奴隷は足の裏から生まれるなどという表現をつかってあるわけです。おしゃか様がお母さんのマーヤ夫人の脇の下から生まれたというのは、彼は貴族の子として生まれた、ということなんですが、それはさておき、要するにカーストは4段階だと思い込んでいた。

ところが、カーストはさらに細かく区別され、現代のインドには、なんと2378の区別が厳然としてあるということを知りました。職業、思想、宗教、肌の色・・・などなどのほんのわずかな違いが、すべて差別区別となり、極端に閉鎖的な社会をつくっているのだそうです。

二千数百年前、そんな身分制度を真っ向から打ちくだいて「四海みな兄弟!」と高らかに宣言されたのがおしゃか様ではなかったのか-と、少々熱くなって、なんとかならんのかインドのカーストは・・・と思いながら、ドキッとしたのは、果たしてそういう私達はどうなのか、ということであります。わが心のカーストはどうなのか?

タテマエでは、明るい町づくりとか人類は一家なんてうたっているけど、心の中、煩悩の奥底では、あの人は、この人は、と指を指し合いながら順番をつけて生きている。それが仏様からみた、どうしようもない人間の姿なんですよね。下の下なんだなあ、やっぱり。


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わかってはいるけれど

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画像は善巧寺門徒会館の外壁です。光っている文字は、今回の話に出てくる「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう)」のサンスクリット語です。

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


上品な人といわれるために心がけなくてはならない条件を、お経には第一「慈心」、第二に「不殺」と説いてありました。人のためを思い、いのちを大切にする-なるほどそんな人は間違いなくりっぱな上品な人であります。

そして、もうひとつ、りっぱな人は「具諸戒行」なのだとある。グショカイギョウってなんだといえば、もろもろの戒律を守るということ。でその戒律とは身体と心をコントロールしてよい習慣をつけることでありまして、それは単に宗教的な戒律にとどまらず、法律や経済やさらにはからだの健康面にいたるまで、その理想に反することのないように努力することなのであります。

まあ、かんたんにいえば、この世の中の、いろんなルールをキチンと守って、なるべく悪いことはしないようにし、よいことはすすんでするようにしましょう-という戒めであります。
「なーんだ、そんなことか。そんあことなら小学校、幼稚園、いや、三歳のこどもだって知ってることじゃないの」
あなたも、わたしもそう思う。いや、われわれだけじゃなくて、いまから千年もっと前の中国でも、われわれと同じことを思った人がいるんです。お酒が大好きな詩人、白楽天(はくらくてん)がその人。

当時、西湖という所に、道林という和尚がいて、この坊さんなぜかいつも松のしげにも中に、鳥の巣ごもりのように棲んでいる。アダ名も「鳥窠(ちょうか)」といわれる変わりものだったそうです。この噂を聞いた白楽天が面白い遊び友達だとばかり、道林和尚をたずねていわく-
「和尚さん、あなたM、ずいぶん、危険なところに住んでいますなあ。松の木の上なんて」
すると道林ー
「そういうあなたも安住の地ではなく、ここよりもっと危険だと思わぬか」
ご両人、ジャブの応酬というところ。そして、白楽天、本題にはいる。
「ところで、仏法とはそも何ですか」
すろと道林、たったひとこと、
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」
悪いことはしないようにして、よいことはすすんでするようにする-これ仏法とやったわけです。
そしたら、ほれ、さっきの私たちのように白楽天さんも思ったわけで、
「そんあこと三歳のこどもでも知っている。わかりきったことを!」
とことばを返した。そしたら道林、答えていわく-
「三つの子供でも知っとることじゃが、八十になっても出来んことじゃ」
これでには白楽天、二の句がつけず。以後、長く道林の教えをうけたということであります。

知っていることだけど、出来ないこと-そういえばたくさんありますね。日常生活の中でも、例えば、健康のため、吸いすぎに注意しましょうとか、食べすぎに注意しましょうとか、危険防止のため、交通ルールは必ず守りましょうとか、おとしよりを大切にしましょうとか、まあ、いいこといっぱいあるけれど、なぜか、わかっちゃいるけどやめられない。そう、そのわかっちゃいるけどやめられないのは、なぜなのか。なぜ、上品になれないのかを見つめてゆくのが仏法なんですね。


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ニワトリのいのち

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


上品な人、りっぱな人になる第二条件は「いのちを大切にする」ことだといわれます。(第一の条件は前回紹介しましたが、世のためにつくし、ものをいつくしみ、はぐくむ心と説かれています。)生命の尊重は人として生まれて当然のことだとおっしゃるかもしれないけど、その当たり前のことが、あまりよくわかっていないのが私達のようであります。

たとえば、ほら、もうすぐ、愛鳥週間がはじまりますよね。10日からでしたっけ。日本の野鳥は全国で424種とかで、その愛らしい姿や鳴き声で、人の心をなぐさめてくれる小鳥たちをやさしく守ってあげましょう-というのがこの週間のココロのようです。けっこうなことであります。殺生をするのはよくない。いのちは人のいのちばかりではない。小さな鳥たちにもいのちがある。だからこの週間をご縁に大いにかわいがって、ヒマがあったら、木の枝に巣箱をかけてやったり、庭に小米をまいてやったりなさる・・・あの・・・悪いといっているんじゃありません。大いにやるべきことだと思います。しかし、こういうことも考えておかねばいけないんじゃないかしら。愛鳥週間に、ニワトリは含むのか、含まないのか、どっちなんだろう?

一度、ラジオでこのことを聞いてみたことがあります。そしたら、聞いていた奥さんからスタジオへ電話がかかってきました。
「あのォ、放送聞いていたんですけど、バードウィークにはニワトリはふくまないんじゃないですか?」
「どうして?」
「だって、ニワトリは家キン類で、食べるものでしょ」
「食べるものはかわいがらなくっていいって、だれが決めたんですか?」
「さあ-」
電話の奥さんもわからなくなったようです。で、こんな話をしていたら、ナチュラリストの方が気にされたのか、生番組のスタジオへお越しになりました。
「クルマの中で聞いていたんですが、あまり考えてもみなかったことなので、ひっかかりましてねえ」
富山では、有名な、すてきな野鳥保護の会のおじさんでした。そこでもう一度聞いてみました。
「どうなんでしょうねえ」
「むずかしい問題ですね。うちで保護しているフクロウのヒナは毎日かしわのすり身をたっぷり食べて元気に鳴いていますが、考えてみれば、これもいったいどういうことなのか…」
先生、ずいぶん複雑なお顔なさってました。

もちろん、スカッとした答えは出ないかもしれないけど、少しは考えてみてもいいんじゃないですか。ニワトリにもいのちがある。それを勝手にパックにつめて、安いの高いのうまいのまずいのといっている。ニワトリのいのちなんて、ちっとも考えていない。ニワトリだけじゃなく、ハトだって、以前は平和のシンボルだなどとかっこいいこといってたけれど、近頃はフン害で、どこでもきらわれもので、所によっては空気銃で撃ってもよしという常例もあるとか。人間ってずいぶん勝手ですね。

なにもニワトリを食べるなといっているんじゃありません。ただ、ニワトリにだっていのちがある。そのいのちを忘れて、かわいい声の野鳥にだけ片寄るのは、ちょっとヘンだったなと思っていただきたいのです。


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命日より誕生日

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか。きのうは天皇誕生日。うちの寺では毎年、この日は「慶びの春」と称して、いろんな方の誕生をお祝いするんです。普通は寺の法事というと、なにかしめやかな感じですけど、誕生祝いなんだから、パアッとハデに楽しくやろうじゃないか、というわけで、近くのチューリップ畑から球根を太らすためにつみとった満開の花を、10数万個もいただいてきて、境内いっぱいにこれおを飾って、文字通りの花まつりをやるんです。

おしゃかさまの誕生、しんらんさまの誕生、日が日ですから天皇さまもようこそ、そして親代々、あなたの、わたしのさらに子供の誕生までよろこぼうじゃないか、というわけです。お坊さんというと、どうも誕生日より、命日の方に偏っちゃてる風ですが、私はやっぱり、命日よりも誕生日だと思うんです。死んだ親の日に仏だんで手を合わせるのもステキな習慣ですが、それより生きている間に誕生パーティーをやっといた方がいいんじゃないですか。

そう思って、うちの寺ではここ数年、門徒の方の中で、明治生まれのおじいちゃん、おばあちゃんに、誕生祝いを贈ることにしているんです。たいしたものじゃありません。仏様のお話しを書いた小冊子と、それに誕生カードが1枚、それだけです。

「おばあちゃん、おたんじょう日おめでとう。おばあちゃん、あなたのたんじょうがあればこそ、お父さん、お母さんも生まれたんですよね。そして、そのお父さん、お母さんのたんじょうがあればこそ、お孫さんも生まれたんですよね。いのちの尊さ味わいながら仏様に手を合わせましょう」
カードには、こんなことを書きました。目のうすくなったおばあちゃんにこの頼りが届きました。以下はそばにいたおじいちゃんの話でわかった宇奈月(富山)弁の、おばあちゃんと孫の対話です。

「寺から何かきたけど、ばあちゃん読めんが。たのむこっちゃ、読んで聞かしてくたはれ」
「うん、読んだけるっちゃ。”おばあちゃん、たんじょう日おめでとう”?!へー、ばあちゃん、たんじょう日あったがけ?」
「しゃあ、あるもんじゃ、おらもわすれとったけど。でで、それだけけ?」
「まだあるわ。”あなたのたんじょうあればこそ、お父さん、お母さんも生まれたんですよね”・・・ふーんそーか。”そのお父さん、お母さんのたんじょうがあればこそ、おまごさんも生まれたんですよね”・・・あれ?おまごさんちゃ、わたしのことけ。なら、ばあちゃん、ばんちゃんが生まれなんだら、わたしも生まれんかったんやな」
「そら、そういうことになるわいね」
「しゃあ、だいそうどう!なら、今日はばあちゃんの誕生パーティーやらにゃあ!」
といって小学3年のそのお孫さん、自分の小遣いにぎりしめて、お店に走って、何と、おばあちゃんのために、大きなデコレーションケーキを買ってきた。おばあちゃん胸いっぱいで、ケーキ食べられなくなったんですって。

おばあちゃんの誕生日を知らない子に育てたのはだれなんだろう…なんて、ことはこのさい抜きにして、とりあえず、いのちの尊さ味わいながら、おばあちゃん、おじいちゃん、なくなった先祖の誕生祝いをやってみようじゃないですか。


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上品 中品 下品

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


自分が上で、他人は下-いつも上でありたいと願ってやまないのが本当の私なのですが、他人に問われると、なかなか正直にそうはいえない。ちょっぴりテレて「いえ、わたしなんか…」と引き下がる。

お経にこんなのがあります。人間を上、中、下にわけて、上品、中品、下品という。そう、良い子、悪い子、普通の子ですね。で、さらに、上品にも上、中、下、中品にも上、中、下、下品にも上、中、下とわけて、合わせて九品-一番りっぱな人間は上の上、最低を下の下というわけで、まあこの中に、すべての人間がふくまれているというんです。

さて、あなたはいったい、どのあたりの人間でしょうか?
むずかしいですね。答え方が。うちのお寺にくるおばあちゃんに、これと同じことを聞きますと、
「そりゃあ、仏さまからみりゃ、私なんぞ下の下でございましょう」
答えはりっぱだけど、本当にハラの底からそう思っているかといえば、そうでもないみたい。(下の下だという反省のある私は、あの人よりは、ちょっと上・・・)という心がどこかにうごめいている。

若い方に聞くと、軽い気分で「そうだなあ中の上ぐらいかなあ」とおっしゃる。日本人の生活意識もそれぐらいのところだというデータがありましたよね。でも、これだって、中の上なんていってるけど、となりに比べればもうちょっと上、と思っているんじゃないかしら。まあ、正直にいって、どんな生き方してようと、自分は自分、ちゃんと二重丸、三重丸をつけて、内心ひそかに、上の上だと思っていなきゃ、生きてられない・・・てなところじゃないですか。

ではいったい、りっぱな人間、上品な人間、上の上というのはどんな人のことをいうのか、ということをさっきのお経に聞いてみたいと思うんです。そうして出来ることなら、努力して、本当にりっぱな人になってみようと思う。上品な人、上の上の人の第一条件は、というと-世のため人のためを思い、世のため人のためにつくし、ものをいつくしみ、はぐくむ心をそなえた人-と説かれてあります。

いま流行のボランティア、福祉の問題にとりくむことも、りっぱなことなんだと、仏さまもおっしゃるわけです。大いにがんばりたいですね。ただね、がんばったからって、慢心をおこしちゃいけません。そこのところを、自分で実践しながら得た結論として、永六輔さんがうちの寺の本堂でこう話して下さった。
「みなさん、ボランティアとか福祉とか、めぐまれない人たちに愛の手を、なんて近頃とてもよく使われる言葉ですけど、いいですか、愛の手なんてだれも持っていないんですよ。持っているのは右手と左手だけ。もし人のためを思うなら、その手を求められれば貸せばいいの。愛の手なんて飾りたててさしのべて、相手がしあわせになるなんて考えていたら、それこそ大間違いです!」

胸にズシンとこたえました。この私がやってる世のため人のためはひょっとしたら自分の好みの押しつけで、人べんに為-つまり「偽」なんじゃないかと気付かされたことであります。


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お説教好きですか?

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「コレッ!なにやってんのよ。さっさとしなきゃ、ダメでじゃないの」
あなたのこんなお説教を聞いて
(そうか、ボクは間違っていたんだな。それでお母さんは、ボクをしかって、正しい道を歩ませようとしているんだな。ああ、親なればこそだ。お母さん、ありがとう!)
などと、子供が思ったりするだろうか?
「いいかいキミ、僕はキミの為を思っていうんだよ。キミの将来を考えればこそ、こんなこともいわなきゃならないんだ」
こんな上役の説教を聞いて、素直に
(ハイ、反省します)
といえますか?
「ねえ、あなた、わかってちょうだい。わたし、あなたがイヤで、こんなこというんじゃないのよ。ただ、この家には二人の女がいて、これから仲良くやってゆかなきゃならないから、心を鬼にしていうんですよ」
姑さんのこんなお説教を聞いて、あなたは
(ああ、お母さん、ありがとう。わたしがいけなかったんだわ。鬼どころか、ほとけさまだわ!)
なんて思えますか?

お説教-かたくるしい教訓的なお話で、上のものが下のものへ、正しいものが間違っているものへ、お前はダメなんだ、ということを再確認させるようなところがあって、できることなら、そんな押しつけの説教は死ぬまで聞きたくない、というのが、私達の本音のようであります。つまり、人間はいつも自分を認めて生きている。自分に丸をつけて生きています。自分が上で他人が下と考える、これを「慢」といいます。その慢にもいろいろありまして、「やったア!勝った勝った」と、単純に有頂天になるのを「我勝慢」。「へー、あいつ、とうとう局長になったか。おや、こいつ校長か…ハハハ、こいつらみんな、オレの同級生だ!」ー同級生だからどうだって聞かれるととても困るんですが、とにかく、えらくなった人と、自分がどこかでつながっているということで自慢するのを「我等慢」といいます。そう、金田正一さんの口ぐせに、こんなのがありました。
「ハハ、大臣も女優さんも、ワタクシもメシ食って、出して、寝る、同じやねー!」

さて、三つ目の慢は、「我劣慢」
「困ったわぁ、どうしましょ。わたし、奥さんに負けちゃった。ほーんと、かなわないわ」なんて、負けた負けたといってるけど、本心、ちっとも負けたと思ってない。ほんの一部はあなたに劣っているけれど、あとの大部分は、わたしの方が上、と自慢するのを我劣、あるいは「卑下慢」というんだそうです。

ところで、こんなエグイもの、だれが持っているのかと申しますと、生きとし生きるものみなすべて、だと、仏様がおっしゃる。あなたも、わたしも、煩悩具足であります。具足というのは、一つとして欠かさずに持っているということでありますが、これに気がつかないのがあわれ凡夫のわたしなんです。

で、つまりは、私達は他人に「お前はペケだ」なんていわれるのは大嫌いなのでありますが、逆にお説教する方はというと、これはもう大好きで、そういう人間は、私をふくめてあなたのまわりにもゴマンといるんじゃないですか。いや、ひょっとしたら、あなたもふくめてかな?


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テレビでやっていた

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


育てる側だと思い込んでいた自分も、やっぱり育てられて生きている-って前回申し述べました。で、じゃあ、いったい、この私は、何に育てられているのだろう、ということを、すこし考えてみなくてはならなくなりました。

あんまり深く考えると、眠れなくなっちゃいますから、そこはまあ、軽く考えてみる-すると、ふと気付くのが「テレビ」です。私達の日常生活のほとんどは、このテレビの「お育て」をうけているんですよね。
「テレビでいってたけど明日は雨だって」
「やっぱり、子供にはきびしくんきゃいけないわねえ。ホラ、テレビであの先生もいってらしたわよ」
「ほらほら、これよ、新500円玉!テレビのニュースでやってたでしょ」
なにもテレビでやってなくったって新500円玉は出回っているんですけれど、とにかくテレビということばをくっつけないと話がおさまらないみたい。現代の気付かざる流行語は「テレビでやってた」じゃないかしら。いえ、なにも悪いといってるんじゃないんです。けどやっぱり、ちょっとヘンだと思うんです。

私のお寺で日曜学校というのをやっていまして、その子たちにある時、「おいしいものってどんなもの?」と聞いてみたことがあります。そしたら、100人いた子供がまずそろって「高いもの!」っていうんです。ガクッときて、「ほかに何かないのか、もっとおいしいものは」といいますと、ちょっと出来のいい子が「ハイッ!」と手をあげる。ホッとして「いってごらん」というと-
「それは、みんなが食べているものです」
「なるほど、みんあが食べてるものがおいしいか…そうだな、やっぱりごはんだな」
「あのぉ、違います」
「ん?」
「みんなが食べているものといえば、テレビのコマーシャルでやってるものに決まってるじゃないですか」
あの…何も悪いといってるんじゃないですが、おふくろの味よりフクロの味…お母さん、ちょっとがっかりしませんか?

いや、がっかりしているお母さんにしてからが、テレビ、テレビ、なんだから仕方ないんでしょうかねえ。で、テレビでやってなかったことにぶつかったりしたら、どうするんでしょ。けなげにも、パパに相談なさるのでしょうか。そんなことないですよね。「わたしにわからないこと、亭主にわかるわけないでしょ。一度テレビの相談コーナーに聞いてみなくちゃ」なんてことになっちゃう。極端かもしれないが、そんなとこ、あなたにもあるでしょ。

でもね、そのテレビだけどね、あんまり頼りすぎちゃいけないよ。それこそ、ほら、ついこの前、番組をやめた、小川宏さんがテレビでいってたよ。
「テレビというのは、まったくのウソというものではないのですが、すべてが真実というものでもありません。そういったつかみどころのなさが、われわれ情報をお送りする側にとっても、もどかしく感じることが、よくありましたねえ」

「人と人との間を流れる小川のようでありたい」なんて名セリフをのこしてやめていった小川さんだけど、17年間あのショーをやってのホンネがチラッとみえたみたいでした。流れる小川を頼りにしていたら、自分もいつのまにか流されてしまう。動かないしっかりしたものを見つめてみようよ。


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続・お茶の間説法

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善巧寺のYOUTUBEチャンネルで「続・お茶の間説法」をスタートしました!
「お茶の間説法」は、昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された文章です。 いつでもどこでもあなたの心に仏さまの心を。5分ほどの音声法話です。 朝起きた時、クルマの中、夜寝る前などにご利用いただけると幸いです。1冊目は著者本人の音声でお送りしましたが、それ以降の音源はないため、2冊目以降は著者の息子、現住職が朗読を担当します。 このシリーズは当面5/6までは毎朝一話ずつ公開予定です。

「続・お茶の間説法/雪山隆弘」
良い子 悪い子 普通の子
縁によって育つ

「良い子 悪い子 普通の子」見てますか?不思議なのは、良い子でありまして、あの子だけが、まるで存在感がない。良い子ぶりっ子で、本物の良い子じゃない。みんなで笑いものにしている感じであります。もちろん、あの番組はお笑い番組だから、それなりにけっこうなのでありますが…。

さて、それはさておきだ、TVじゃなくて人生本番、子育て本番で、お母さん、あなたは自分の子を、どんな子に育てようと考えていますか。良い子にですか?普通の子でたくさんですか?それとも悪い子にですか。まさか、自分の子を悪い子に育てようなんて思っていませんよね。そりゃあ、わかる。ところが、おそろしいことに、良い子はなかなかいなくって、悪い子が世の中にはとても多い、ということであります。これは一体どういうことなんでしょう?

名古屋の久徳先生、ほら「母源病」などという本を書いている、あの方が、こんなことをおっしゃっています。
「みなさん、あのね。これはいま世界の一つの結論なんですけどね。人間は育てる側によって育つんです。間違いなくそうなんです」
と、あのインドの狼少女の例を引きながらお話なさっていた。人間は育てる側によって育つ―仏法ではこれを「縁によって育つ」といっていますが、とりあえず、学者のいうことの方が信頼性がある世の中ですから、久徳先生のおっしゃったことばを、よくかみしめていただきたい。とってもこわいことだけど、本当なんですね。人間は育てる側によって育つんです。

大阪で生まれ育った人は「なにいうてんねん」だし、わたしのいる富山県なら「なにいうとんがじゃ」だし、東京なら「てやんでェ」ということになっちゃ。これみんな、親やまわりがそのように育てたんでしょ。ことばだけじゃなくて、良い子を育てるのも、悪い子を育てるのも、普通の子を育てるのも、みんな育てる側によるわけです。

で、ここにちょっとしたデータがあるのですが、近頃の子供は、どういう具合に育っているかというと-
まず「約束を守らない」
次に「感謝の心がない」
三つ目は「失敗したら他人のせいにする」
そして最後は「美しいものに気がつかない」ーのだそうであります。いやあ、ひどいもんですな。ウチの子もまったく同じですよ、なーんて笑ってる場合じゃないわけでして、このデータにかぶせて、もう一度久徳先生のことばをくり返してみると…なんだかゾォーッとするんですが、そういうふうに育てているのは、育てる側のこのわたし、ということになってくる。

さあ、そこで考えなくてはならないのは、育てる側だといっているこのわたしは、いったい何によって育てられ、何を仰いで生きているのか、という問題であります。「人間は育てる側によって育つ」という久徳先生のことばを、ただ、育児のハウツーとして聞くのではなく、育てる側だとふんぞりかえっていた自分が、約束を守らず、感謝の心もなく、失敗したら他人のせいにし、美しいものに気がつかなくなってしまっていたのではないかということに気付き、おどろくべきなんじゃないでしょうか。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
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