明教院の心を味わう~本典一渧録より~

このテキストは、昭和63年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(49号、50号)に掲載したものです。

行信教校教授 利井明弘師

ひそかにおもんみれば

 恒例の一泊聞法に、今年も寄せていただきました。このたびは、弟の病気で門徒の皆様にも、いろいろご心配、ご迷惑をおかけしたことと思いますが、まあ無事に退院しまして、私もホッとしておるところでございます。
 今回の法座では、明教院僧鎔師の講録であります「本典一渧録(ほんでんいったいろく)」から「総序(そうじょ)」のご文を味わってみようと思います。
 これは、親鸞聖人の著わされた「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の注釈本でありますが、昔はこのご本典というのは、簡単に読ませていただくなんてことはなかったんです。師匠から弟子へ、書写を許されて、ようやく拝見できるというもので、一般には公開されていなかったんです。
 ですから昔の学匠方でも、「教行信証」を直接釈しておられる方は少ないんです。普通は「六要鈔(ろくようしょ)」という存覚上人が著わされた「教行信証」の注釈本がありまして、これを通して、ご本典をうかがうという形でありました。
 ところが明教院僧鎔師は、この「教行信証」を直接読んで注釈しておられるのです。それだけでも大変なことだといわねばなりませんが、じつはこの注釈は、当時のご門主、文如上人のご命によってご講義なさったものの講録なんですね。僧鎔師50歳の折、安永2年11月18日から翌年3月15日までかかって講義され、それをまとめた”秘書”であると記録にのこっています。
 この第2席目に出ていることなんですが、この「教行信証」は、親鸞聖人の腸胃、つまりハラワタだとおっしゃっております。
 昔、中国に仏図澄(ふとうちょう)というえらいお坊さんがおられまして、その方は左脇腹に三四寸の穴があり、その穴より光明を放って、夜になるとその光をもって聖教を読まれ、時にはそこからハラワタを取り出して洗われた、とあります。普通の人ならこんなことはできないが、聖者の不可思議であろうと僧鎔師はおっしゃる。
 そして、今これを思うに、親鸞聖人のハラワタはこの一部六巻の「教行信証」であって、そのハラワタはこの一部六巻の「教行信証」であって、そのハラワタを直説頂だいすることは、よくよくの因縁とよろこばねばならないともおっしゃっています。
 この因縁を私も感じていましてね。僧鎔師はこの善巧寺のお方でね、大切なものはハラワタのようなものだとおっしゃり、仏図澄という左の脇腹に穴の開いたお坊さんの話をしておられる。ちょうど、弟が病気になって、左脇腹に穴をあけております。ここにきて、弟の話をしながら「お前もその脇腹から光が出てきて、お聖書を読むことができるか」と聞きましたら「まだ見えん」といっておりましたが、まあ、見えないのが当然でありましょうが、腹の中はきれいに洗ったようですから、ちょっと仏図澄師に近づいたかもしれません。
 さて、ご本典というのは、本当に大切なものであるというお話を僧鎔師の、ハラワタの例えで味わったわけですが、このあたりで総序の本文に入ってみようと思います。
 まずはじめは「ひそかにおもんみれば」(窃以)というお言葉です。僧鎔師はこれを「発端之詞」といっておられます。これはまあ、拝啓とか、前略とか、そういうはじめの言葉というほどのことでありますが、鮮妙(せんみょう)は、ひそかにとは「卑謙之詞」と申しております。
 この心は「いうことも出来ないわたしが」ということでもあります。そして、おもんみればとは「そんな私が申させていただく」ということであります。つまり、否定と肯定が二文字に込められているわけです。
 しかし、考えてみますと、今は「ひそかに」なんて心、まったくありませんね。なにもかもが、わかってる、わかっている、わかってるの世界です。でも、本当にそうでしょうか。そんなことを、この「ひそかに」という言葉は、わたしたちに問いかけているような気がします。
 理性、知性、金銭万能の時代のようですが、それでいいんだろうか、その辺を、皆さんとともに考え直してみなくては・・・と思うことであります。

難思の弘誓は難度海を度する大船

 明教院僧鎔和上の孫弟子に当たります利井鮮妙が、宗祖親鸞聖人の650回忌の折に、前回からお話しております「総序の御文」を読誦用にしてご本山でおつとめになったことをたいへんよろこんで文章に残しておるのですが、それ以来でしょうか、私たちの行信教校(ぎょうしんきょうこう)では、授業がはじまる前のおつとめで、必ずこの「総序の御文」をみんなで声をそろえて読むしきたりになっております。
 で、この御文の最初に「ひそかにおもんみれば」とあるわけですが、前回夏にここの味わいをお話ししたようですので、

 難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は
 難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)
 無碍(むげ)の光明(こうにょう)は
 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する慧日(えにち)なり

 というご文に入らせていただきます。ではこれは、法蔵菩蕯が阿弥陀仏となって下さる因果と、そこへ参らせていただく衆生往生の因果が説かれてあるわけで、仏説無量寿経全二巻のおいわれが、この短かなお言葉の中にこめられてあるのでございます。
 余談になるようですが、私は先哲の害物等を読ませていただいておりまして、思うのですが、一字一句の語句の解釈もありがたいのですが、この無量寿経に関して、なぜ上下二巻あるのかということについて、ある和上が「それは説くともつきないいわれだから、三巻にも四巻にも百巻にもなろうが、三巻を超えたら両手で持てない。落としてしまう。だから、わが両手でいただけるようにちょうど二巻にまとめて下さってあるのじゃ。ありがたいことじゃ」とおっしゃっている。こういう話がまた、ありがたいなあ、と思うんです。 
 さて、その大経のおいわれは、私たちに真実そのものを与えてはとうていわかることができないから、真実のよってきたるところ、つまり、真実の因果をあらわして下さっているわけであります。
 因だけあらわされてもまたわからないものでして、因果をあらわして下さるからうなずけるんです。
 たとえばね、私はお百姓さんのことあまりわかりませんが、あのイネの葉とヒエの葉と、見分けがつくかどうか、素人ではなかなかわかりません。だけど、果が出てくるとわかります。これは私でもわかります。
 いま、その因のとこで説かれたのが「難思の弘誓」であります。仏さまは私たちを救うために法蔵菩蕯となって、世自在王仏(せじざいおうぶつ)のみもとで、そこへ往く手だてもこのように仕上げるぞとおっしゃって下さる。その果が「難度海を度する大船」であります。弥陀の弘誓の因が衆生を度する果となるのであります。
 そう、ここの明教院和上の百回忌のとき、先ほど申しました利井鮮妙の兄の明朗が、この善巧寺に参って導師をつとめております。で百回忌のときは、ご案内がなかったそうですが、私のじいの興隆が参ってきまして、お焼香をして、長講一席、大演説をして、ここの門徒衆が感涙にむせんだといわれております。昔の人はすごいですね。ご恩をうけた人の命日も忘れず、明教院和上の百五十回忌に案内なくても参ってくる。今の私たちには考えらないことであります。
 で、二百回忌の時は、弟のご縁私と父、興弘が参らせていただきましてね。法事がおわって、帰り道、父と話をしたんですが「これで、明朗さんや、興隆じいさんに、みやげ話ができましたなあ。お浄土のまいったら、まずあの二人に、この明教院さんのご法事のお話をせにゃならんなあ、じいさん、よろこぶだろうなあ」とね。
 まあ、こういう話ができるというのも「難思の弘誓」が「難度海を度する」からいえることなんですよ。帰る世界を仕上げて下さってあるからこそ、共に一処のところで会えるんです。そしてその手だての果は、無量の光明、六事の名号、南無阿弥陀仏なのであります。
 みなさん、お浄土は西にありますよ。こんなこというと、ほんとやろかという人があるが、私はあの曇鸞大師が西方浄土を指して下さったからこそ、東や、南や、北の欲の行列につながっている自分に気づかされるんだと思うんです。
 浄土がどこにあるかもわからん、真実に背を向けて、欲と二人ずれであっちの行列、こっちの行列にならぶわたしたち、だからこそ、「難思の弘誓」が「無碍の光明」の念仏となり、「無明の闇を破する恵日」とはたらき「難度海を度する大船」となってこの私をお救い下さるのであります。仏さまやお浄土に背を向けている私たちを、逃げるものを追いかけるがごとく、抱きとめてくださるのが、阿弥陀さまなのであります。