聞思して遅慮することなかれ

このテキストは、昭和59年、空華忌の法話を寺報(49号、50号)に掲載した文章です。

行信教校々長 利井興弘師

誠なるかな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう) 聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ

これは親鸞聖人のお書きあそばされましたご本典の総序のご文のおことばでございますが、この聞思莫遅慮(もんしばくちりょ)ということばは、明教院僧鎔師も好まれたようで、遺墨としてみなさまのお手元にも届いているようでありますが、私のじいさん(勧学 利井鮮如師)もよく書いたようです。
 で、これからお話ししますことは私も非常に感銘が深いのでございまして、私のじいさんが生きておったときのことであります。当時日本で、だれが一番ありがたい人かということで、文部省が苦労したという話があるんです。なぜそんなことになったかといいますと、あなた方もよくご存知の、アインシュタインという相対性原理を解いた博士が、アメリカから日本へやってきたことがあるんです。そこで、アインシュタインがいったのが、日本で一番ありがたい人に合わせてほしい、と、こういったわけです。
 文部省も面くらった。原子論など物理のえらい先生ならだれだってすぐ挙げられるけれど、ありがたい人というと、なかなかわかるもんじゃあない。そこまでまあ、あちこち調べまわって、人にいろいろ聞いたところ、お東の先生でございますが、近角常観という方が一番ありがたいお方ということになった。
 そこで、アインシュタイン博士が近角先生と会われるわけですが、そのとき、アインシュタイン博士が何かを聞かれたかというと、
 「この世の中に神や仏はありますか」
ということでした。そしたら近角先生はそっけなく、
 「あなたのようなお偉いお方があると思われたらあるでしょう。ないと思われたらないでしょう。」と、こう答えた。博士も面くらったでしょうね。そこで、先生はつけくわえて、
 「日本にはこんな話がありますよ。」
といって、お婆捨て山の話をなさった。村の掟でお年寄りは村の中へ捨てねばならない。そこで自分のお母さんの背中に負って山へ登るわけでございます。そうすると、山の中、だんだん道がせまくなる。するとその道をまわるときに背中のお母さんが枝を折る。曲がり角へくるとまた枝を折る。そこで、むすこはたまりませんから、
 「お母さん、本当のことをいうけれども、村の掟でもうあんたは帰ることができんのです。どうか、枝を折るのはやめてほしい。道しるべこしらえたってだめなんです」とこういうと、母親が、
 「なにをいうとるか、わたしはもう帰れないことは知っているけれども、おまえが帰り道で迷ったならばたいへんなことになると、そう思って枝を折って道しるべをこしらえているんだよ」
というんですね。この話をしてから、博士、あなたは外国から日本までやってきて、神や仏がありますかと聞かれるけれど、あなたをこれまで育ててこられた方々のことを考えられたことがありますか。じっと考えてごらんなさいと近角先生がおっしゃると、アインシュタインが、
 「われ、日本に来て、初めて神を見たり」
といったという名高い話があります。
 で、この近角先生と私のじいの利井鮮妙が会ったときのことが二回あるんですが、そのときの話もまたありがたい話でございまして、それはですね、大阪の茨木という、私の町のとなりですね、まあここからいえば黒部というところですか。その茨木にお東の別院がある。そこへ近角先生が話に来られた。その時、先生が「この近くに利井という和上がいるらしいが、会ってみたい」といわれた。そこでまあ、近くでもあるし、人力車に乗って、うちまで来られた。そして初めて鮮妙に会うわけですが、お互いに自己紹介のあいさつがすむと、すぐに近角先生が聞かれたことが、
 「利井和上、親鸞聖人のお書きになったものの中で、どこが一番ありがたいと思いますか」ということでした。そしたら、鮮妙がいわく、
 「ご開山の書かれたもので、ここがありがたい、ここはありがたくないというところは一か所もございません。どこをいただいてもありがたい」
といいながら、じいさんは目をつむるようにしていった一言が、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ

でありました。今お話ししていても胸が痛くなる思いでありますが、そのご文を口にしたあと鮮妙は涙ポロポロと落として、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏。そしたら前にいた近角先生も同じように手を合わせて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二人向かいあって十分ほどお念仏していたようすです。
 そして、時間がきて、近角先生がお帰りになった。で、次の年、また先生がお越しになった。
 そこでまた、近角先生が顔を見合わすなり、
 「和上、ご開山の書かれたものの中で、どこが一番ありがたいと思われますか」
 そしたら鮮妙、答えは同じです。
 「ご開山の書かれたものでここはありがたい、ここはありがたくないというところは一か所もございません。みんなありがたい」
といって、また、

誠なるかや 摂取不捨の真言、超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ

と、総序のご文をとなえて、涙をポロポロこぼしながらお念仏。近角先生も手を合わせて一緒に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と泣いておられた。
 そのときの姿を、私は思うんです。日本で一番ありがたい人と言われた近角先生も、茨木別院へ講演に来られておられたんですから白衣に布袍、迎える鮮妙も一生涯俗服は着ませんでしたから白衣と布袍。その二人の老人が向かい合って、聞思して遅慮することなかれというご文を、かみしめかみしめて、二人が涙を流されたというようすを、私は忘れられないのでございます。
 ですから、あなた方の手元へ、明教院の筆による「聞思遅慮」という遺墨が渡っておるようですが、よくよくのご縁とよろこばせていただかねばなりません。
 このご文のおいわれをやさしく申しますと、「聞いた通り思えよ、二の足踏むんじゃない、首かしげるんじゃない」ということになる。ご開山の尊いお言葉でございまして、ご法義のおいわれは、平生お聞かせにあずかった通り、間違いないお助けというのは仏様のおはたきでありまして、あなた方の中から出てくるものじゃない。そのおたすけのおはたきは「誠なるかな」でありまして、誠というのは時代によって変わるものでもなく、場所によって変わるものでもない。本当の誠。その誠なるかな摂取不捨の真言、おさめとって捨てぬというところのおいわれでございます。
 それをご開山がもう一度、味わわれて、摂取不捨は、逃げるものをとらえるなりとおっしゃる。どういうことかといえば、私たちは仏の世界ではなくて、このシャバ世界が好きなんで、はっきりいうとお仏間よりも茶の間のほうが好きなのがわれわれの気持でしょう。それを追いかけてつかまえて下さるのが親さまであります。 
 そして、超世希有の正法__世に超える大きなおいわれ、われわれのソロバン勘定でわり出したものではなくて、仏さまが本当の智恵をしぼって、わたしのために慈悲とはたいて下さるんです。
 ですから、あなたがとなえるお念仏も、となえさせずにおかん、聞かさずにはおかん、助けずにはおけんのが仏さまのお心でございます。 
 そこで、考えてみますと、明教院僧鎔師がなくなられて二百年_この二百年、あなたがたにおばあさんもあったろう、大ばあさんもあったろう。ね、で、それを考えてみますと、浄土真宗の一番大事なところはここでございまして、第十七願は諸仏称名の願、わかりやすくいえば十方の仏方が聞いてくれよ聞いてくれよと私たちにたのまれるわけです。仏教といえば遠く離れた方のように考えますがそうじゃあない。あなたがたの身内のお方で、よく法を聞いたお方もたくさんあったわけですから、そのお方々はみんないま仏なんです。もっとはっきり申しますと、すわっている数は、いまこれだけですけど、そのあなた方の一人一人の後ろに横に、法を聞いて仏となったところのあなた方のお父さんお母さん、おじいさんおばあさんが、声をそろえて、この南無阿弥陀仏を聞いてくれよ、聞いてくれよとおっしゃっているんですよ。
 そこでわれわれが細々ながら、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏くり返しくり返しとなえるお念仏を、もう一度かみしめなおして、間違いなく凡夫直入、助からんものがお助けに会うのは、この南無阿弥陀仏より他にないということを、あなた方がお心の中からお受けとりあそばすならば、そこに浄土真宗の一番尊いおいわれがあるわけでございます。
 そこで聞思でございますから、聞くということ。聞くということは「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」とご開山がおっしゃる。ここはなかなかむずかしいところで、ご開山は疑い心がないとおっしゃる。が、あなた方は自分の心の中に相談するものだからもしか、ひょっと、出てくる。
 浄土真宗のおいわれはそうじゃあない。親が子供に心配したり首をふったりするようなものを与えますか。これ食べたら、あたりはせぬか。これ食べたら、腹こわしははせぬかというようなものを与える親がどこにありますか。ね、そこでこの疑いをすべてとりのぞいて仕上げて与えて下さるのが仏様なんです。親が信じたおいわれに安心することが疑い晴れた姿、それが聞こえたということなんでございます。
 そこで何を聞くかといえば仏願の生起本末__つまりは南無阿弥陀仏はどうしてできたかということをよく聞かねばならない。で、この願いというのは、方向を転ずるものであります。で、それを味わってみる。ご本願と一言で聞いていたけれども、じつは願というのは方向を変えるもの。それは、われわれが三悪道に行かねばならぬ身の上なのに、そこに仏さまの大きな力__私の力は落ちる力だけれども、落としはせぬぞという仏様の願い力によって救われてゆくのであります。 
 心配することはいらないんです。法然上人がいつもおっしゃったように、間違いなく往生すると思うてお念仏せよ、首ふることはいらんのよ、ふりむけて下さった親さまの南無阿弥陀仏よ、二の足踏むんじゃないぞ、どれだけご苦労が当て出来上がった南無阿弥陀仏かと、お聞かせにあずかったなら落ちるわたしが落ちられんわたしであったとわからせていただくわけです。
 どうか、この法要__二度も三度も会える法座じゃございません。私ももう七十四でございますからいくら考えても、次の二百五十回忌にはおるはずがない。それならば、この二百回忌の法要にあなた方が心の中へよくよく入れておかねばならんのは、聞思して遅慮することなかれ、聞いたまま思えよ二の足踏むなよ、首かしげるなよ_これが浄土真宗の生枠のおいわれだということにあなた方が安心してくださいますならば、明教院もさぞかしおよろこびになるだろうと思うわけでございます。