凡夫直入/利井興弘

このテキストは、昭和59年に寺報(33号)に掲載したものです。

 行信教校々長 利井興弘師

 ご開山聖人から受けたご恩は、いったい何であろうか、ということをうかがわせていただくと、三代覚如上人、八代蓮如上人が声をそろえて、「凡夫直入(ぼんぶじきにゅう)の信心を決定なされた」といわれる。
 そこで、凡夫というにはいかなるものかといえば、畏怖心の去らぬもの、恐れおののく気持ちがなくならぬものであります。生きてゆく上におそれはある。他人に悪口言われることもおそれになる。そのうちにいのちなくなるおそれも出てくる。そこで最後には、悪いところへ行くんじゃなかろうかと、こういう気持ちがわいてくるのが凡夫というものであります。
 その凡夫が直ちに入る_ただちに間違いなく浄土に生まれることができる、とおっしゃる。このいわれはどうかといえば、如来のおさとりは光明無量の智恵の目で私たちをご覧あそばすとき、あわれなる凡夫の私は六道をへめぐって、この世終われどもいいところへゆけるわけじゃあない。因果の道理からいっても、やはり迷いの世界へゆかねばならない。そこで、そうした迷いの凡夫を、なんとしてでも救わねばならぬと、智恵のむずかしさを慈悲のやさしさにかえてはたらいて下さるのが救いの親さま、仏様であります。
 つまり、仏様がわたしのために働いて下さる。私のお浄土まいりのタネをお慈悲の六字の名号に仕上げてあたえて下さる。ことばかえれば、わたしの法蔵菩蕯、私の阿弥陀如来、私の南無阿弥陀仏と、全部私にかかって下さるわけであります。
 そこで、この、間違いなく助かるというところのいわれを、浄土真宗では「横超(おうちょう)の直道(じきどう)」といいます。これは、たとえば、このお寺へ入るのに、表からはいっても善巧寺、横からはいっても本堂へ来られる。そこで浄土真宗は、お経の中をみてみますと、表から歩いてコツコツ階段をのぼるようにまいるお浄土ではなくて、仏様の南無阿弥陀仏に乗せられて南無阿弥陀仏があなたの仏だねとなって、そこで、心配なし、案ずることはいらん、必ず仏となれるところのいわれができ上がってあるというのが南無阿弥陀仏です。 
 さて、そこで、このお六字が、あなたをどうするかといえば、寿命無量(じゅみょうむりょう)、光明無量(こうみょうむりょう)_限りないいのちと、限りない智恵をあなたにもたらして下さる。で、そのタネはといえば、南無阿弥陀仏にはないんだというのが仏様のお心なんです。
 では、そういうお心が、どういうところから出てくるかといえば「願」_ねがいです。この願いというのは、どういうものかというと、方向を転ずるもの、であります。わかりやすくいうならば、おばあちゃんが孫連れて外に出た。踏切りで、しゃ断機が降りてきたところへ、孫がヒョイとつかまって、足をぶらぶらさせているとなると、どうですか。危ない!とおばあちゃん思いますよねえ。なんとかしなければととっさに思うでしょう。それが「願」なんです。
 だから本願の名号と申しますけれども、どう味わったらいいかといえば、仏さまの大きな大きな願い、つまり、凡夫の私たちの迷いの世界から、悟りの世界へと方向を転じなければ、危ない!という願いなんです。
 で、その願いは、願いだけでは思いだけ。やはりこれは、力となって、先程のおばあちゃんでも、孫のところへ飛んで行って、抱きかかえて、引っぱってくるでしょう。これを「願力」という。
 願力というのはこういうものでして、仏様のお心は、迷いの世界へやってはならんという願いの全体が、南無阿弥陀仏という力となって流れているのであります。
 そこでね、これは大事なところだけれども、わたしたちは昔から仏様は、こいよこいよと呼んでおられるという話は聞いたけれどもどうですか、読んでくださった声をすなおにハイと聞くことできたかな。
 ご開山のお聖教を読ませていただくと、もちろん「招く」とは書いてある。しかし、その次に「引く」と書いておられる。つまり、おいでおいでと招いても、顔をそむけているものはこっちを向きませんから、そこで仏様は近寄って、招くんじゃなくて引っ張るとおっしゃってある。
 仏様から言えば引っぱる、われわれから言えば引っぱられる、そのつながりはどこにあるかといえば、それはあなたがたがとなえるお念仏となっているのであります。お念仏は、あなたをお浄土へ引っぱる力なんですよ。
 「仏、衆生の口を口として念仏を広めたまう」_こういう言葉がございますが、称える口はあなたの口、その口が仏の口となっておるという、つまり、称えるままが、称えささずにはおかぬという仏の口から流れてきておるおいわれだといただかねばならないのであります。 
 で、これがわかるならば、われわれが階段上がるようにまゐる世界じゃなくて「広大の異門」つまり南無阿弥陀仏に乗せられてまいるんです。ちがった門と書いてある。だから因果の道理からいえば、私が願を起こし行をつかんで信をえてから上がるのが道でありますが、お念仏の道はどこかといえば、仏様の世界へ歩む力があるかといえば目もなく、足もない。そのわたしの目となり、足となってくだなるのが仏様であります。だから案ずることはいらぬ、仏は必ず救うという、言葉だけではなくて、それが実際あなたの上に動いて、称えさせて、聞かせて、安心させてくださるのが南無阿弥陀仏の働きなのであります。