明教院僧鎔語録を味わう

このテキストは、昭和60年、空華忌の法話を寺報(34号、35号)に掲載したものです。

小さいことは気がつくが

行信教校々長 利井興弘師

 僧鎔(一七二三・一七八三)本願寺派空華学轍の祖。名は慶叟。字は子練、甘露室、空華盧、雪山と号した。
 越中・水橋の農家に生まれ、幼名を渡辺興三吉と称した。十一歳で上京・明光寺の霊潭師につき、二十一歳で善巧寺の法嗣。京都・学林にて僧樸師の門人となり、のち自坊にを設けて学僧を教育、その門弟は全国三千人に及ぶといわれる。天明三年六十一歳で入寂。明教院と謚号される。

空華語録
三業作罪の凡夫なれども、信を得たるしるしには、貧瞋の下より仏恩を思いつかせたまう。妄念おこらば、サテサテあさましきことなり、且つ恥じ、且つ喜ぶべし。仏の御慈悲へ、たちもどりたちもどりして証名相続するべきことなり。
-正信念仏偈聞書より-

 このたびは、明教院僧鎔師のお祥月命日、空華忌のご縁でございますが、ご当山におかれましては本堂大屋根修復という、大変な事業をかかえられ、皆様にも本当にご苦労を願ったようでございます。
 工事の記録をビデオで見せていただきましたが、内部の木材がずいぶん腐っておりましたし、工事そのものも大掛かりなものでありまして、門徒の方々には大変なご懇念を運ばれたものと思い、心からお礼を申し上げなばなりません。
 しかし、まあ、その時に、私の二男であります若院と法輪寺さんが、天井から落ちたらしゅうございますね。あの時、丁度、私と長男とそれからここの若院と、親子三人で、広島で講演をすることになっておりまして、ダメかと思っておりましたら、松葉杖をつきましてやってきてくれました。
聞きに来た人たちも、それを見て、大変なことでございましたといいながらよろこんでくれたわけでございまして、そんな人たちからも、ご懇志が届けられておるようでございまして、有難いことでございます。
 でも、やっぱり、人間の建てたものは、くずれゆくわけでございます。手入れをしなくては持たない、と口で言えば簡単なことではありますが、いただきましたご懇志は決して無駄には使われてないということがよくよくわかる、りっぱな工事が成されたんだということを共によろこばせていただきたいと思います。
 さて、そこで、今日は空華忌でございますから、ここに空華先師、明教院僧鎔のお言葉(上掲)をいただきまして、味わってみたいと思います。で、まず、

 三業作罪の凡夫なれども

と申されてある。三業(さんごう)とは身と口と意(心)でありますが、この三つの罪を作りつつあるのが私たちの姿でございます。で、そのときに、はっきり申しますけれどもおそろしいとも感じれば、あさましいものかとも感じないで、うかうかと暮らしているのが私たちの生活でございます。
 そうですね。私たちは小さなことはよく気がつくんです。障子が破れているとか、あそこのカギがはずれてるとか……ね。ところが、大きな仏様のご恩というようなもにはなかなか気がつかないものでございます。
 これについて、名高い話がありますが、明治の時代に「舟」と名のつく偉い人が三人ありました。岡山鉄舟、勝海舟、高橋泥舟の三人ですが、その中の高橋泥舟が、岡山鉄舟のことを書いているんですが、それを読んで、しみじみと三業作罪の凡夫なれどもというお言葉が身にしみるのでございます。
それはどういうものかと申しますと、岡山鉄舟という剣道の達人が、愛知県の三河へ潮干狩りに行ったんです。土地の知人の豪族に便りをもらって、お弟子を連れて出かけたんです。
 で、あちらの潮干狩りというのはちょっと変わっていて、潮の引いた海辺へ、夜に出てゆきましてひざの下あたりのところまで、松明を持って入ってゆくんです。そしたら、その松明—たいまつの火に魚が寄ってくる。これを網で掬うんだそうです。 

信がうけとりにくいのはなぜか

 明教院僧鎔師のお祥月、空華忌でございますので、その僧鎔師のありがたい法語を味わってみるわけですが、「三業作罪の凡夫なれども」という言葉に続いて

信をえたるしるしには、貧瞋の下より仏恩を思いつかせたまう

とあります。今日はここのところをいただいてみましょう。
で、浄土真宗におきましては、大事なことはまずこの「信」でございます。ところがこの「信」というものがなかなかうけとりにくいようでありますが、これはどうしてかと申しますと、まず一つには、罪悪に目をつけて往生を疑うわけであります。つまり、こんなあさましい生活をしているのだから、助かることはないんじゃないか、とこう思うんですね。
 この間違いはどこかと申しますと、私のあさましい生活の全体を知り抜いての上ですくうのが仏のお慈悲でございますから、私がきれいになって救われるのではない。きれいになれない私を知り抜いてお立ち上がり下さったのが仏様だとうけとらねばなりません。
 仏様のお心は、「あわれむ」であります。私たちをご覧になって、かわいそうだ、とおっしゃる。どうしてかといえば、罪を作らずに生きてゆけないのが私たちの姿なんですね。
 例えば、お釈迦如来さまのご一生は、不殺生。ものの命をとらないということで一貫しておりますけれども、私たちはそうはゆかない。虫も殺さぬ顔をして、虫を殺しております。それも、当たり前のこととして。そして、その当たり前を許してしまっておりますから、自分の罪悪に気がつかない。それが、お寺にお参りになると、それも罪だと聞かされる。するとその罪悪が気にかかって、こんな私では助からないだろう、と往生を疑うようになるんです。
 一方、仏様はといえば、その罪をごらんになって、かわいそうだけれども、それはお前がいくらがんばってもやめることも消すこともできはしないのだとおっしゃる。その消すこともやめることもできない私たちにむかって、おこされたのが仏様のお慈悲です。
 この慈悲という言葉は、もとは「うめく」という意味だったようです。お慈悲といえば、やさしく、あたたかく、やわらかいものと思っていますが、仏様は、うめいておられるのであります。こんな私だから、ではなくそんなお前だから助けずにはおかぬとうめいておられるのが、仏様のお慈悲なのでございます。
 さて、仏様の信=まことの心がなかなか、うけとりにくい原因の第二はと申しますと、仏祖に親しみがうすい、というのであります。
 世の中の事なら、好きなものには何にでもひっかかる。恥ずかしい話だが、私は、花や野菜をつくるのが好きなんです。かといって、一日中、それにかかわることはできませんで、本を読んだり、原稿を書いたりいたします。で、どちらが好きか、といわれたら、原稿より花なんですね。
 まあ、私たちはだれでも、好きなものほどひかれるわけですね。ですから、あなた方にしても、仏さまの前へ出るのが好きか、茶の間のテレビの前が好きかと言われれば、やっぱり茶の間のテレビということになる。
 で、そこで、だんだん、好きな方が多くなって、仏さまの前へ出ることがだんだん少なくなる。それをフト思うと、こんな私では助からないのではなかろうか、ということになるんです。
 うちの寺には全国から若い学僧が集まってきておりまして、二百年前のこの善巧寺の空華盧のように、勉強しているのですが、その学僧たちが朝は必ず、七時におつとめをいたします。皆がきちんとまいるかといえば、なかなか出てこんやつもいる。そんなとき、私の祖父の鮮妙がいったそうですが、

「お前、朝の勤行に出るようにしなさいや」

すると、若いのが、

「私は早起きすると頭がボーッとして一日中すぐれません。ですから、ゆっくり寝て、日中勉強にはげんでいます。」

そこで鮮妙が、

「お前は朝の勤行をどういうのか知っとるか。おつとめというんじゃ。好きで仏様の前にまいるのならおつとめとは言わんつとめてまいるから、おつとめというんじゃ。だから、じゃまくさかろうが、つらかろうが、つとめてまいるようにせにゃならん。仏さまにすれば、そのつらい中から、ようこそ参ってくれたかや、とよろこばれる。好きではなかろうが、どうか、つとめて参るようにしてくれよ」

といったそうであります。
 仏祖に親しみがうすい私——好きで好きでたまらん。後生の一大事を解決して下さる仏様よという気になれば往生も間違いないと思えるが、今の私はなかなかそういう気持ちになれるものではございません。だから、助からん、救われない、と遠ざかってはいけません。やはり、つとめて参らせていただくように心掛けねばならないわけでございます。
 世間好きの仏法嫌いがわれわれの姿でございますが、そこを仏様は、世間嫌いの仏法好きになって参れよといわれるのではなくて、世間好きの気持ちの中から、お前が助かる道があるのだということに早く気がついて、よくよくつとめて聞いてくれよとおっしゃっているのであります。
 あくびまじりでとなえたお念仏にも力はあるぞ。片言となえたお念仏にも力はあるぞ。南無阿弥陀仏はそんな私に働いて下さっているのだと、いただかなくてはなりません。