このテキストは昭和61年、本堂修復落慶法要の記念講演(寺報38号掲載)です。
行信教校々長 利井興弘師
本日はおめでたい法座でございまして、由緒ある善巧寺が美しく荘厳されまして、檀家の方々もお喜びのことでございましょう。
さて今日の話は、あなた方が間違いなくお浄土に参れるという話でございます。
どうして参れるかといえば、如来さまが南無阿弥陀仏のお名号の中に、この私が浄土に参れるすべてを仕上げてられるからであります。
これを他力回向と申しますが、これには三つありまして、一つには往還(おうげん)の回向、二つには行信の回向、三つには因果回向。
まず往還回向ですが、これは往相(おうそう)、還相(げんそう)と申しまして、永遠性です。お浄土へ参ったものは、また迷いの世界へ返ってきて、縁なきものを救うというはたらきをさせていただくことができるのであります。これはつまり弥陀同体、仏さまと同じ姿になれるといういわれであります。
二つには行信の回向です。これは主体性の問題でありまして、親鸞聖人が仏になられたと、蓮如上人が仏になられたと、ほかの人を見ていてもどうにもならないのです。大事なのはあなた、私です。
このわたしが仏にならねば何にもならない。で、その、行と信はすべて蓮如さまが仕上げたぞ、行信こめた名号をうけとれようとおっしゃるのでございます。
そして三つ目に、因果の回向。これは完全性とでも申しましょうか。まちがいないということであります。仏になれる因も果も間違いなく仕上がっておるのが浄土真宗のおいわれであります。
そこで、合わせて考えてみますと往還回向のかぎりないいのちと智恵をいただいて、行信回向のこのわたしが、因果回向、つまりはまちがいなく仏の世界にうまれさせていただくという、これが他力の回向ということでありまして、その他力の回向がどこに仕上がってあるかといえば、南無阿弥陀仏のお六字の中にこめられてあるわけでございます。
そこで、あなた方が口にとなえるお念仏はナンマンダブ~~。一つには、かぎりないいのちがいただける。ナンマンダブ~~。二つには、この私が仏にならせていただける。ナンマンダブ~~。そして三つには、間違いなく浄土に参らせていただける。
仏のいのちの全体が、他力の回向として与えられるのであります。
ですから、日々の生活の中で、あなた方がとなえるところのお念仏は、晩か、あるいは寝てもさめてもか、はたまた、うれしいにつけ、かなしいにつけ、といろいろあろうかと思いますが、気がついたとき、いつでもいいと書いてあるから、思い出したらナンマンダブ~~ととなえつつ、いま申しました他力回向の三つの味わいをかみしめかみしめ、よろこんでいただければ、これにすぎたしあわせはないわけでございます。