念仏は まことの親/高田慈昭

このテキストは、昭和61年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(39号、40号)に掲載したものです。

行信教校教授 高田 慈昭師

念仏は まことの親

空華忌の法要のご縁に会わせていただきますのは一昨年の第一回につづき、二回目でございます。本堂の大屋根の修理もなさって先月には落慶法要を厳修されたとうけたまわっております。誠におめでたいことでございます。

空華忌と申しますと、ご承知のように明教院僧鎔師の祥月法要。その空華和上の法要にお招きいただいて、ご法義を讚嘆させていただくということは、空華末流の私にとって、大変ありがたいことだと思っております。

私は大阪高槻の行信教校に学び今またその教校で、学生たちと一緒にお聖教を読ませていただいておりますが、特に先哲の空華忌和上の教えがこの学校の主流であります。中でも、一番大事な、行と信の教えということになりますと、空華和上の味わいが最も秀れておるのでございます。

さて、この私の胸に宿って下さったお念仏でございますが、私の近所にしっかり者の奥さんがおりまして、これがなかなかのお寺嫌い。お念仏などとなえたことのない方なんですが、あるとき地震があって、外へ出てみると、その奥さん、近くの大きな松の木にしがみついて、ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏をとなえているんです。あれほど念仏の悪口を言っていた奥さんが、どうして念仏を…と思って聞いてみると、結局、生まれ育った実家が真宗の門徒で、小さい時からお念仏に育てられていたそうなんです。それが、イザというとき、フッと口からこぼれ出たんでしょうね。

現代の日本人の八割は、念仏が心にあるといわれています。戦時中でもそうだったようで、戦死した方々が、最後に叫んだ言葉は、「お母さん」に次いで、お念仏だったといわれています。お母さんというのは、子供にとって最もつながりの深いものなんですね。私のむすこもむすめも、もう結婚する年になったんですがいまでも帰ってきて、母親がいないと「お母ちゃんは?」といいますね。お父ちゃんがおっても、何にもならんのですな。お母さん、というのは親の名でしょう。南無阿弥陀仏も、親の名なんです。この世の親はありがたい、懐かしい親ではあるけれど、必ず別かれてゆかねばならないものであります。しかし、南無阿弥陀仏の親さまは、永久に離れてはくださらない、いや、私の知らなかった久遠却来から、私に離れずに過去、現在、未来と三世を貫いて離れることのない親さまなのでございます。まことの親とはこのことでございます。

だから親の名を呼ぶんです。人間の一大事の時には親の名を呼ぶんです。それは一番まことなものであり、なつかしいものであり本当のよりどころ、支えになるものであります。だから人間イザというときに出てくるものは、いいかげんなものは出てこない。口でどんなことをいっていようとも、イザとなったら、やっぱり親の名が出てくるんですよ。なつかしいものであり、私を抱いてくださるやさしい方であり、私の煩悩も罪も障りも、生きることも死ぬことも、すべてしっかりとつつみ、抱きかかえておってくださる、まことのよりどころになるお方――それがお念仏、南無阿弥陀仏の親さまであります。

人は、ほんとうの心のよりどころを持たなければ、安心して生きることができません。また安心して死ぬこともできません。お念仏は、まことの親、本当の心のよりどころです。安らかに生き、安らかに死ぬるも、お念仏の世界なればこそでございます。

選択本願のお念仏

お念仏というものは、単なる雰囲気やムードだけでは、心に安心は届かないのであります。そこで法然和上や親鸞聖人が求めてられた大安心のお念仏の味わいを、ここで明らかにしてゆかねばなりません。なぜお念仏がすべての人々を分けへだてなく平等にまことの浄土のさとりに至らしめるかということでありますが、法然上人にうかがってみると「本願の念仏」とおっしゃっている。これは如来さまの願いのかかっている念仏ということであります。

ただナンマンダブツと称えていてもまるでありがたくないし、安心もできませんが、「本願の念仏に会うことによって深く仏恩を知れり」と親鸞聖人もおっしゃっていますね。本願というのは仏さまの願いということでありまして、私が願う前に仏さまの方から願いがかかっておったという、この世界が浄土真宗であります。ここを見失ってしまったら、お念仏もお浄土もわかりません。で、法然上人は、この本願に、さらに「選択本願(せんじゃくほんがん)」と申されました。選択ということは選びえらぶということばではありまして、私のために如来さまの方から選びえらんでくださった法なんだということであります。

お正信偈にもありますよね。

選択本願弘悪世ー選択の本願を悪世にひろめたもう

さらに聖人は、選択の眼海とか、しかれば大乗の聖人、小乗の聖人、善人悪人みな等しく選択の大法海に帰して念仏成仏しべしとおっしゃっています。この選択の選というのは、たくさんの中から一番すぐれたものをえらぶという意でして、択というのは、決択といいまして、これよりほかにないというこころです。

阿弥陀如来はわれら一説の生きとし生けるものを救うという願いを起こされましたが、その四十八通りの願いの十八番目の願い――この私が往生成仏するたねが誓われてあるわけですが、これが一番大切なところでありまして、自力の緒行を選び捨てて、他力の念仏一つをえらびとるという、これが選択ということであります。自力のあらゆる行というのは、凡夫の道ではない。凡夫を救うには他力の念仏しかないわけであります。

法然上人の時代、世の中は騒然としておったわけですが、その中で、すべての人が心の安らぎを得られるのは阿弥陀如来の本願に帰すしかないといわれた。如来様は満足大慈悲のお方だ。この如来様は、一部のすぐれた人だけを助けて、ほかの多くの人たちを助けないというようなことはあろうはずがない。かわでおごれているものを後まわしにして、岸にいるものを救うという法があろうはずがない。救いというものは、できる人よりも、できない、あぶない、弱い、そういうものこそ先に救わねばならない。仏の慈悲というものは、そういうものではないかと、おっしゃったわけです。

仏さまのお救いは、お前の助かる道はこれより他にないんだよと私が求めえないままに、仏さま方から先に、私たちの煩悩の底の底まで見きわめて、南無阿弥陀仏のお六字を成就して、これより他に救われる道はない。どうかうけとってくれよと、如来さまのお方から手を合わせて願われておるのであります。

法然上人は、

速やかに生死の迷いをはなれようとするならば、聖道門をさしおいて、選んで浄土門に帰せよ

とおっしゃり、

浄土門において正雑があるが、雑行をはなれて、選んで正行に帰せよ

とおっしゃる。そしたら正行の中にも正業と助業がある。

助業をかたわらにおいて、選んで正業をおさめよ。正業とは仏名を称するなり

とおっしゃっております。

 ここに三つの選ぶという言葉が出ておりますが、正業を選ぶというのは、じつは私が選んだのではない。如来さまの方で選んでおって下さったのだと受けとられたのが法然和上です。

如来さまは、私どもの業の底の底まで見抜いておられる。

仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲劇はかくのごときわれらがためなりとしられていよいよたのもしくおぼえるなり。

と親鸞聖人もおっしゃっておりますが、まさにすべてを見抜かれた大悲の親なればこそ、この私を救う手だてのすべてを仕上げて、これより他にないと与えて下さっておるのが、わたしたちの親さま阿弥陀如来さまなのであります。