何処へいくのか?/利井明弘

 

このテキストは、平成15年、空華忌の法話を寺報(107~109号)に掲載した文章です。

いのちおわって滅びるときは何処へいきますか?

行信教校校長 利井明弘師

智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ

聞きましたら本年は僧鎔師の二百二十回忌にあたるそうですね。その空華の僧鎔和上の書かれたものに和讃方軌という本があるんですが、そこに五双十義というものが出てきます。十二光讃ですね。正信偈で言うと、

普放無量辺光
無礙無対炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光照塵刹

その十二光を五双十義で解釈されておるのが僧鎔和上です。僧鎔和上というのは頭がいいお方やったんやね。僕らは五つある中の一つか二つ味わう程度ですけれども、二十の光を縦・横・斜めで、まだ三義でしょ。ところが五つ見ておられるんです。ちょっとここへ書いてみます。

体・用
横・堅
自・他
悲・智
当相・寄対

この五つ、これ全部相対してあるんです。体というのはそのもの自体のお徳ですね。用というのははたらきです。これが一つですね。それから横・堅というのは、横はよこ、空間的なひろがり。堅はたて。二百年続いたとか、二百年いたとか、時間的なもの。空間と時間ですね。三つ目は自徳か化他か。自分で学んで自分の徳として積むということと、相手にそれを与えるということ。それで自・他ですね。それから四つ目がお慈悲と智慧。五つ目は当相と寄対。当相はそのままということ。寄対というのは、これは一つしかないから言いますと、「超日月光」と日月に喩えてありますね。私たちが知っておる、お日さまやお月様の光よりも阿弥陀さまの十二の光の働きが超えておるということを、お日さまや、お月さまに寄せて解釈してある。それが超日月光です。日月に超えた光。 

そこで体・用から全部話しできないと思うけど、少しずつ話します。十二光についてはいろいろな和上が、いろいろな分け方をしておられるんです。鮮妙も僧鎔和上がこうおっしゃってると、まず書いて、それから私はこう味わうといって科段を造っておられるんです。 しかし僕はね、僧鎔和上の体転用というのが非常に有り難く思えるんです。それはどういうことかといいますとね、十二光の中心はやっぱり六光なんです。「無量・無辺・清浄・歓喜・智慧・無碍」です。

無量、無辺というのが阿弥陀様自体のお徳。それが今一番最初に読みました、「智慧の光明はかりまし」とあるでしょ。あの「はかりなし」というところで無量光なんです。わかりますね。「智慧の光明」というから智慧光やと思うでしょ。だけど「智慧の光明はかりなし」というところで「無量光」をまず和讃されておるんです。これがいま言いました、仏さま自体のお徳なんですよ。

それはどこででも何べんもしゃべってる話ですけど、一つしますとな、僕、学生の頃九十キロありましてん。そのころ京都駅は階段ばっかりだったんですわ。ご本山にお手伝いに行ってね、仕事終わってから聚で一杯飲みに行きましてなあ。酒に酔っ払うて、九十キロで、京都駅へ帰ろう思うたらね、階段だけでうんざりするんです。だからどうしても電車は座って帰りたかった。でも快速電車は人が多くて座れないんです。だからいつも各駅停車に乗って帰るんです。ところがね、それでも座れないことがあるんです。各駅停車は京都駅でずーっと待っとるんですわ。その間にみんな乗るから、立ってる時があるんです。この時はどうするかというとね、次降りる人探すんや。これすぐわかるのよ。荷物まとめたり、切符探したりしてる人は次で降りるんよ。そうするとその人の前に立つんやね。そうしたら僕の思うてる通りその人が次の駅で降りる、僕がそこへ座ると。これが僕奥の手やった。(笑)

ところがある時こんなことがあったんですよ。京都駅で乗った時に何人か立っとったんです。それでいつものように、次で降りる人探さんなんと思ってた。ところが次に降りる人探さなくても、うまいこと言ったら座れる席が一つあったんです。一番端っこで子供を膝の上に乗せた若い奥さんが小さくなって座っておるんですわ。その横にその子供と僕とやったら座れるぐらいの荷物が置いてある。それに手にかけて若い男が二人座っておるんです。あの荷物おろしてくれたら座れるのになあ、と思ってジーッと見とったんです。あれ人の視線て感じるでしょ。向こうもこっち向いたんや。僕は「おろしてくれへんか?」っていう顔したんですよ。そしたらちゃんと通じたんよ。そしたら「あかん」って向こうはいったんよ。(笑)もうしょうがないからね、次降りる人また探しておった。西大路駅で降りる人がいたから私は座れた。ところが後ろから乗ってきた人は何人か立たないかんかった。そしたら乗ってきた人の中のお爺さんが一人ね、私の前に立ってね。「あの隅っこの女の人見てみ、小さく小さくなって座ってんのに、あの荷物おろしたらええのに、あの若い奴は」って若い二人のことを言ってるんです。ぼくのことじゃなくてよかったんですけど。ところがですよ。乗ってくる人みんな若い男を睨むんや。そうしたらもう気付いているはずなのに、全然みんなのところ見ずに熱心に話し合ってるような顔をしとった。そうしたらじいさん次の駅で降りたんですが、その時わざわざ若い男の前に近いドアから降りて、降りた際何か「わっ」と怒鳴って降りてった。ところが若い男はしらんふりですわ。あいつら高槻まで行くんかな、と思って見てたんです。そしたらね、高槻の一つ手前の山崎という駅で電車が止まりかけた。そうするともぞもぞと、その席が動き出した。「山崎で降りるんやな」と思っておったんです。そしたらおかしな事が起きたんですわ。若い男が荷物を持たないで、電車の扉に背中をついて、さっきにらんだ奴をずーっと睨み返すんです。何やろなと思って見てた。そしたら電車がガッタンと止まったら、一番隅っこの女の人が膝から子供おろして、それでその荷物を持ったんです。若い男の荷物じゃなかったんです。それやったら肘つくなって思う。そう思うでしょ。それでドアが開いたら、若い男が「どや分かったか」って顔して降りていった。その後ろから女の人が恥ずかしそうな顔して降りてった。「完全に逆さまやったな。」と思ったときにえらいことに気が付いたんです。途中で怒っておりていった爺さん、きっと家で言うてると思うんです。「近頃の若いやつはしゃあない。」って。「お爺さんあれ違ったんです。あれ女の人の荷物でした」ってもう言えないね。

みなさんね、人生全部、途中下車なんです。自分の見てるとこだけ正しいと思ってるんです。だけど時間が経ったらころっと変わってしまう。それがね、「有量の諸相ことごとく」と。我々は有量なんです。限りがあるんです。途中下車して次どこに乗るんですか?また乗ったって環伏線ですよ。また迷い六度羽行くんです。その因縁を断ち切らないといけない。阿弥陀さまはね、「智慧の光明はカリナ死」永遠に変わることのない真実、おじいちゃん、おばあちゃん、曾じいさん、曾ばあさん、ずーっと聞いてきた、いや、二千数百年前から聞いてきた一字も変わってないお経を読んでいるんですよ。分かりますな。娑婆で間違いのないものはころころと変わっていくし、私は全部途中下車です。いのちおわって滅びるときは何処へ行きますか?それを味わわせてもらわなければいけませんな。

覚えるのではない。解釈するものでもない。味わうんです。

解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ

光雲無碍如虚空
一切の有碍にさわりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ

おはようございます。今日は僧鎔和上の二百二十回のご法事でございます。僧鎔和上が三百四十首の三帖和讃を十数冊で解釈してくださっている本があるんです。「和算法喜」といいます。詳しく解説して下さってあるんです。十二光のところですけども、一番最初が体と用。仏さま自身のお徳は無量光と無辺光。この二つがいつでもどこでも変わることのない真実。この変わることない真実がわたしたちにはたらいて下さる。それはさわりなくはたらいて下さる。さわりというのはわたしたちの煩悩。煩悩によって燃えていく悪業です。その煩悩をもっておるものを救うということは諸仏もできないんですね。諸仏でもすべて十方の浄土を建立しておられるわけですけども、その浄土へ汚れたまま来たら、綺麗なお茶碗に泥水入れて清浄とは言わんでしょ。綺麗なお茶碗になって来いとおっしゃるのが緒仏の教えです。それが四諦八正道。もしくは六波羅蜜・定散二善というような修行を積んで煩悩を除いて清らかになって浄土へ参れとおっしゃるのが十方諸仏なんです。ところが阿弥陀仏はその煩悩を私がのぞいて救うとおっしゃる。それで無碍光というんです。さわりなく救う。煩悩にさわりなく救うとおっしゃるのが阿弥陀仏の阿弥陀仏たるゆえんです。そしてその無碍というのは貧欲・瞋恚・愚痴でつくる罪。それを全部きれいにしてくれるはたらきが清浄光・歓喜光。智慧光。こういうふうになっていくわけです。ちょっと和讃の方を読んでいきます。

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆゑなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ

清浄光明ならびなしという。これがくらべものがないという無対光なんです。無対に二つあります。一つは今言いましたように諸仏とくらべてくらべものにならん。どこがくらべもんにならんかというと、自分で清らかになることがどうしてもできない煩悩具足のわたしたち。だいたい浄土・妻子といいますけど、汚いというのは煩悩が汚い。だから煩悩がない世界が清浄な世界なんです。

その清浄な世界に煩悩を持ってるものを、その煩悩から起こした罪、それを全部除いて救うというところで阿弥陀さまと諸仏の違いがでてきてくらべものにならん。もう一つあるんです。それは今度はたらきとして。煩悩を敵として滅ぼしつくす。これも若い頃好きでなかったんですよ。私の爺さんに当たる興隆が、ちょっとこれ間違ってるかもわからんけども意味はこういうことなんです。「久遠劫来の敵を討って弥陀の浄土に凱旋をする」というようにうたっとるんです。久遠劫来の敵を討つって、えらい自力やなと思ってたんです。ところがよう考えたらこれなんですよ。「清浄光明ならびなし」私が滅ぼしつくすんじゃなくて、久遠劫来の敵を討つんじゃなくて久遠劫来の敵を阿弥陀さまが討ってくださる。そして弥陀の浄土に凱旋をするということになるんです。そこでこの阿弥陀生の光明は諸仏とくらべものにならんし、私たちの煩悩に敵対して私たちの煩悩から作る罪を全部討ち滅ぼして下さるというのが無対光。

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆゑなれば

遇斯光というのは光に遇ったら念仏が出てくるわけですわな。光明は音になる。阿弥陀さまの光明は音になる。それが南無阿弥陀仏です。称名ですね。「一切の業繋ものぞこりぬ」業繋というのは業によって繋がれるということですから罪ですね。その罪を除く。だから畢竟依、究極的な拠り処によりなさい。それが阿弥陀さまですよとこういうふうに無対光はうたってあるわけです。ここでは清浄光を挙げて阿弥陀さまのはたらきを代表させてあるんですね。それから、

仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

これが光炎王です。仏光というのが光。照曜というのがチラチラ炎のように揺れているような光明です。だから光炎という字が書いてあるね。

皆さん闇夜でどっか迷ったことある?僕山で迷ったことあるんですよ。弟とやったと思う。立山に上った。そしたらね霧が出てきて動けんようになってもうた。ああいう時に光というのはサーチライトみたいに見えないね。チラチラ、チラチラって見える。あそこに火ともってある。そっち側向いてあるいて行ったら山小屋にいきあったんですけどね。そういうことがあるんですけども。やっぱり炎というのは揺れるんやね。光炎王。三塗(地獄・飢餓・畜生)の黒闇、闇を開いて下さる。まだ僕らは闇なわけですわ。その闇による、六度輪廻しておるものがチラチラ光るのはたらきによって救われて行くんです。

呉の専精会で念仏がザーッと流れるの聞いて有難かった。口で言えないものが、肩叩き合うとかで通じることがある。言葉ではいえないのに有難いって、これがすごいなっていうたときにパーッと相手に通じることがあるでしょ。お経の言葉を読んでて、聴聞しておる人の中で一人が南無阿弥陀仏って、サーッと流れていくときに口で言えないものが確認できるすごいものがあるんですよ。味わわなあかんわ。おいしいというのはね、最高においしいというのは口で説明してくれと言っても説明できんやろ。ところが一緒に食べてて「これがおいしいな」って手叩き合ったらわかるもんね。解釈せんでもええよ。

味わうというのは頭に残しとかでもええ。十日前に食べたもん全部覚えてる?みんな覚えてない。ところが忘れてても血となり肉となって元気にこうして生きているのはあのおかげやねん。そやけど忘れてしまってるやろ。だから食べるということは覚えてないんよ。ためんでもええねん。十日トイレに行ってないっておかしいやろ。こら病気やで。ところが智慧をためて知識ためてやろうと思う人多いよ。分かって何ぼじゃっていうんよ。しかし忘れてならんことは食べるということを欠かしたらいかん。絶対欠かしたらいかんねん。ちゃずけでも一日食べとかな。僧鎔和上の空華忌に一遍遇ったら一年ええわって、そうはいかん。毎日食べてな。昔のお年よりは言うた。本堂で左側から聞いたら右側に抜けてしまう。ところが抜け忘れていいんです。全部覚えんでいいんです。ところがうまいなと味わったやつは残るんです。あの時食べたあれはおいしかったなというのは残るんですよ。また同じような状態になった時に思い出す。これがすごいね。

仏光照曜最第一。仏さまの光炎王。この光明がわたしたちに届いてすごいなってところがあるんですよ。それが三塗の黒闇やから地獄までいっとる。これであほなこと言うやつがおるんよ。地獄に行ってから念仏に遇おうって。いま好きなことしといて地獄行っても構わん。地獄まで阿弥陀さまの光明は来るからって。地獄におったものが光明に遇ってここまできたんよ。それ忘れてまた元へ戻るって、そうじゃないよ。しかし仏様は地獄・飢餓・畜生の境界にまで届いてる。

仏光照曜最第一
三塗の黒闇開くなり

有難いね。

弟子は師匠を超えて初めて弟子という

光雲無碍如虚空
一切の有碍にさわりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ

ここまで阿弥陀さま自体、阿弥陀さまご自身のお徳を話してきました。その次阿弥陀様のお働き。それは無碍にはたらいて下さる。

我々は末法五濁の凡夫ですね。鮮妙の言葉にありますよ。いつもよく聴聞に来る御同行が、ちょっと間が空いてお参りに来た時に、「聴聞はすすんでおるかな。」と聞いた。そしたら「常見寺にはちょっと来れませんでしたけど、あっちこっちのお寺でお参りさせて貰ってます。それでもなあ御院さん、まだ煩悩がぼちぼち出てましてなあ。」と言った。そしたら鮮妙が「あんたは煩悩がぼちぼちしか出んのか。」とビックリしたっていう話が書いてある。実は天岸先生に聞いてすごいなあって思ったことがあるんです。それは国王やった法蔵比丘が、世自在王仏の教えを聞いて感動して、国・王位を捨て、すべてを捨てて出家して沙門となったんやろ。それで最初に言われたのが「光顔巍々」からはじまる讃仏偈やね。我々阿弥陀さまの前で世自在王仏をたたえる偈をお勧めしてるんですね。不思議に思わない?それやったら讃阿弥陀仏偈のほうがいいのじゃないか?でもね。我々もお念仏をよろこんでる人に遇うっていうことが大切なんです。阿弥陀さまにも師匠がおられたということが大切なんです。それが偈文になってるんです。代替お経などでになってるところは大切なことが説いてあるんですからね。あそこには法蔵菩薩の四弘誓願も決意も述べられているけども、当面は師匠に遇ったっていうことがすごいことですね。人を通さなければほんとうのものは分からないんですね。今まで美味しいもの食べたことあるやろ。忘れられん味っていうのがあるやろ。「ちょっと説明してよ、ちょっと俺に味わわせてよ。」って言ったらどうする。「そんなもの言えるかい。」ってなるやろ。「一緒に食べよう。」ってなるやろ。それが伝わるんですね。「これうまい!」って言ったら一緒に食べたらわかるやろ。

さあそこでこの世自在王仏に遇われた法蔵比丘がそのあとこう言われる。
「私はあなたのようなさとりを開きたい。そして生死勤苦の本を抜きたい。」生死勤苦の本って言ったら煩悩です。煩悩をもってるものを救いたいと言ったんです。よく考えて。十方諸仏は煩悩にさわりがあるんです。煩悩を持ってるものは救われない。だからこういう修行をしたら煩悩は除かれる、六波羅蜜を修行してきれいになってきなさい。きれいになる方法を教えているんです。世自在王仏もそうでしょう。十方諸仏の一人です。それに「あなたの救えない煩悩を持った凡夫を救いたい。そういう仏になりたい。」と言っておられる。そしたら世自在王仏が「汝自當知」とおっしゃっる。「汝、自らまさに知るべし」。僕はそれが分からなかった。そんな大切なことは自分でちゃんと実行して、修行してして悟っていくものだと、こう言われたのかなあと思ったり、もしくは「論註」に曇鸞大師が法蔵菩薩は八地以上の菩薩で、じぶんで自分で悟ろうとしたら全部悟れるような菩薩やったから自分でやったらいいんじゃないかと言われたのかなあと僕は思ってた。ところが天岸浄円師は「あれはやっぱり世自在王仏だってビックリなさったんですよ。自分もできないことを教えてくれると言われて。」そう言われた。その通りですね。僕、ありがたいなあと思った。それで重ねて法蔵菩薩がお願いしますと言ったら、自分の知ってるところまではということで二百一十億の諸仏の浄土を見せられた。これが分かったんです。「汝自當知」が。自分もできないことを弟子が四生に行ったから世自在王仏がビックリなされた。これはなるほどその通りですなって梯和上がもう一つ凄いこと言われた。「師弟関係で弟子は師匠を超えて初めて弟子といいます。」師匠のままで、師匠のレプリカみたいなものやったら行信教校だって二百年も続かないよ。超えていくんです。だけど梯先生も凄いこと言われます。「弟子は師匠を超えて初めて弟子といいます。」みんな超えなあかんよ。それは念仏に遇うということですよ。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

これ師匠・師匠となってるね。そやけど一番向こうは弥陀の本願です。それを法蔵菩薩は世自在王仏の教えを聞いて、世自在王仏の教えには限界がある。さわりがある。煩悩に。そこで五劫思惟される。そして四十八願を建てる。四十願はまだ願い、因です。それを完成するために永劫の間修行されるんです。その永劫の修行されたことをお釈迦さまが説いて下さったら、阿難が「それなら法蔵菩薩はまだ修行中ですか?」って聞いた。そしたら「いまに十劫を経たまへり」と言われる。そこでどのように成仏してくださったのかというと、南無阿弥陀仏です。そこで「さわりなく」になるんです。十方諸仏の教えも穴ぐらに篭っておっても、全部閉めても通ってくる。だけど煩悩だけはどうしたってあかん。世自在王仏だってあかん。それを世自在王仏のみもとで法蔵比丘は五劫思惟し、四十八願を建て永劫の修行をして、十劫前に南無阿弥陀仏となってくださった。それが今現にはたらいてくださる。いつでもどこでもですから。そこらのところを味わってもらいたい。これがはたらきの代表です。無碍光。阿弥陀さまのはたらきの代表です。十方諸仏は全部さわりがあるものを、さわりなく救うんです。それで尽十方無碍光如来と天親菩薩はおっしゃる。だから親鸞聖人の御消息には「詮ずるところ無碍光なり」と書いてある。無碍光が中心。無量・無辺は自分です。阿弥陀さまのご自身のお徳です。だけどもはたらいてきたところで頂くと無碍とはたらいてくださる。このことを味わってもらいたいと思います。