心の底の黒い化物

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操というものは、あるべき姿を求めて、外へ外へと向かってゆくものではないようで、やればやるほど、内へ内へとはいっていって、オノレの身のほどが知れてくるもののようであります。自らを省みようという、反省のすすめにはじまって、その反省は身勝手な反省ではなくて、真実を仰いで身のほどを知るという、ごまかしのきかない、悪の自覚、いや悪の他力覚という、仏様の働きによって気付かされたとしかいいようのないところまで、ずいぶん深みにはいり込んでしまったようであります。

で、深みにはまり込んだついでに、といってはおかしいが、とにかく、そのどん底までのぞき込んでおこうと思うんです。で、これまで使ってきた反省ということばを、仏教ではどういうかと申しますと「慚愧」(ざんき=仏教用語ではざんぎ)といいます。
「いあやあ、お恥ずかしい。ザンキに堪えませんなあ」
なんていうことがあるけど、この慚愧というのが、じつは人間の反省のどん詰まりにあるものなのであります。

そこでまず「慚(ざん)」ですが、字からいうと、心を斬る、つまりわが心を切りきざむということでありまして、内にむかって恥じるとか良心の痛みを感じるとかいった心をいいます。そして「愧(ぎ)」はどうかといいますと、心を鬼にするわけでありまして、外にむかって恥じる心とか、悪を廃する心とかいわれています。つまり、慚と愧は、内と外にむかって恥じる心であり、善を求め、悪を廃する心であります。この心はじつにすばらしい反省の心でありまして、お経にはこう説かれています。
「世の2つの白法あり。慚と愧、これなり。これよく、世間を護る」
つまり、世の中を護り、良くするのは、1人1人の慚愧の心なのだというわけです。ですから、あるべき姿からいえば、世界中の人が、この慚愧の心を起こせば、世の中は本当に平和になるに違いないのであります。

ところが、悲しいから、世の中ちっとも平和になっていない。世の中どころか、近頃は家庭内の平和もままならない。これはいったい、どうしてなのか-と考えてみるまでもなく、仏様は私達に、こうおっしゃっているのであります。
「世の2つの黒法あり。無慚。無愧これなり。これよく、世間を破壊す」
つまり、この世の中をメチャクチャに破壊する、まっ黒の化け物は、政治でも社会でも教育でもない。じつは人間1人残らずが欠かさずに持ち合わせている「煩悩」というものであって、その煩悩の中でも、根源に巣くっている「無慚無愧」の心なのだとおっしゃる。心に良心もなく、善を求める心もなく、悪をおそれず、ただただ己れの煩悩のおもむくままに、善を否定し、悪を肯定してうごめいている、この私のおそろしい心こそが、世間を破壊している元凶だと、おっしゃっているわけであります。

私達はともすると、外にむかってあれこれと批判し、あれが悪い、これが悪いと指さすけれど、じつは、世の中が悪いんじゃなくてこの私の、そして全人類が心の奥底に持ち合わせている無慚無愧の心の寄り集まりが、刻々とこの世の中をこわしつづけているのだということに気づかねばならない-仏様はいつでもどこでも、いまここででも、そう私に呼びかけておられるのであります。


「お茶の間説法」(37話分)
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