身勝手な反省ではなくて・・・

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


それみたか、と人を指さしたその指をギュッとまげて、己にむけてみる-心の体操第1は指まげ体操で、自分自身を省みて、身のほどを知るという、反省のすすめみたいなものでした。で、この反省ということになりますと、だれもが心がけていることのようでありまして、それなら、いわれなくてもちゃんとやってます、とおっしゃる方も多いかと思います。そういえば、人のふり見てわがふり直せとか、脚下照顧(きゃっかしょうこ)とか、日々是反省とか、いろいろいわれています。でも、ここで1つ確認しておかねばならないことは、反省といったって、自分勝手な反省ほどいいかげんなものはない、ということであります。

たとえば、何か失敗する、そしたら必ずああ悪かった、大変なことをした、申しわけない、という気になる。まあ、ここまではいい。ところが、その次はどうかというと、でも仕方なかったのよ、あの場合・・・とか、そりゃあ悪いと思っているけど、でもさあ・・・と居直って、自分の行為を仕方なかったんだと正当化してしまう。これはじつは身勝手な反省でありまして、こわいことには、その反省がすむと、反省していない人をみつけて、また指をさし、あの人ちっとも反省の色がない、ひどいわねー。それに比べて私なんか反省しきり。見上げたもんよねー、なんて悪いことしたことが、身勝手な反省のおかげで、自慢のタネにまでなってしまうこともありうるわけです。

そこで、やっぱり、自分で勝手な反省をするのではなく、仏様を仰いで自らを省みなくては本当の反省にはならないと思うんです。とくに阿弥陀如来という仏様は、この私の、自分を良しとする心を徹底的に打ちくだいてしまわれるお方で、ある学者は、この仏様の働きを「自力の無限否定」という言葉で表現しておられます。この私が無限に否定されてゆく・・・なんて聞くと、どうも気が滅入っちゃって、なるべくなら、この私を認めて、よしよしと頭をなでて下さるような、そんな方のところへ近づきたくなりがちですが、それこそが私たちの反省の心を持たない、自己中心、うぬぼれの生きざまということになろうかと思います。

ともあれ、心の体操第1として指をまげてみようと申しあげたのは、人を指さすのが大好きな私たち、他人の悪口ならウソでも面白いが、自分の悪口なら本当でもハラが立つというこの私を、自分勝手にではなくて、仏様を仰ぎながら省みてゆこうということだったのであります。

人は自分の悪に気がつくほどの善人ではない、といわれます。そんな私が、少しでも自分を指さして、本当の自分の心の奥底をみつめることができたなら、おそらくそれは自分の力ではない、それこそが仏様の働きなんだと受けとってゆく。こうした心の動きが宗教的情操というものでありましょう。ですから、この悪の自覚ということを、ことさら言葉をかえて「悪の他力覚」だいう学者もおられます。つまり、悪を自覚したなんて思っているのは、うぬぼれで、自分の悪に気づくはずのないこの私が、気づいたのは自分の力ではなく、悪と気づかせていただいたのだ、仏力、他力による目覚めだというわけです。

仏様を仰ぎながらわが身をかえりみるという心の体操は、単なる身勝手なごまかしの反省ではないんだということ、少しおわかりいただけましたでしょうか。


「お茶の間説法」(37話分)
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