指差す相手はまず自分

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操の第1は、指曲げ体操です。さあ、みなさん、人差し指を1本出して下さい。そして、目をとじて、その指をあなたの心に浮かぶどなたかに向けてみて下さい。旦那様にでもけっこう。子供さんにでもよし。お隣の奥さんや、総理大臣に向けてでもかまいません。はい、そうして、考えてみましょう。あなたがいま、指差している相手に対して、あなたはいつも、どのような態度をとっているのか-。

これは私の想像ですが、ひょっとしたら、ほとんどの方が、相手に対して「あるべき姿」というものを押しつけているんじゃないですか。旦那様には旦那様としてのあるべき姿、子は子としてのあるべき姿、政治家は政治家として、教育者は教育者として、警察官は警察官として・・・というふうに、何かこう漠然とした理想像というか、かくあらねばならないというタテマエのようなものをこしらえてそれに向かって精進努力してゆかねばならない。それこそが人としてのあるべき姿であるというような、そんな思いを持っていらっしゃるんじゃないですか?

もちろん、これは大事なことで、むかしのえらいお坊さん、そう、モミジで有名な、あの京都・栂尾の華厳宗高山寺の明恵上人という方も「人は あるべきようは という七文字を心得よ」と、いつもおっしゃっていたようです。あるべきようは、というひらがなの七文字は、いま申しあげている、あるべき姿と同じでありまして、1つの理想、大きな目標、あるいは、真のあり方といったものに向かって、懸命に精進する、それこそが人としてのあるべき姿だ、と教えて下さっているようであります。

で、私たちは、この教えがとても好きでありまして、口を開けば、あるべき姿、あるべき姿を求めねば・・・とやっております。そして、もし、そのあるべき姿にはずれるようなことが起こりでもしたら、とたんに「親としてあるまじき行為」とか「教師でありながらなぜ?」とか「政治家として恥ずかしくないのか!」と、指を差し、制裁を加える。

ところが、問題なのは、その指はいつも相手に向かっていて、自分の方へ向けられたことはまるでない、ということであります。他人を指差すのは大好きなくせに、その指を曲げて、自分自身を指差して(そういう私はどうなのか)と考えてみることをしない。いいのかなあそれで・・・と思うわけです。いや、だいたいこんなことをいうってこと自体が、もう、あなたを指差していることになって、たいへん申し訳ないとも思うんですがね。

とにかく、今日の心の体操第1は、そんなわけで、他人に向けた人差し指を、ギューッと曲げて、自分自身に向けてみるという体操です。あるべき姿を全うしていらっしゃる方なら、これくらいは簡単なことでありますが、われら凡人にはなかなか出来ることではありません。

しかし、そこで思い出していただきたい。阿弥陀如来という仏様は、うつでも、どこでも、この私に、身のほどを知れよと働いてくださっているお方でありました。ですから、人を指差したときにでも、その仏様のことを思い出してみると、いままで曲がらなかった指がギュッと曲がって、本当の自分を見つめるようになってくる。念仏というのは、じつはこんな働きをもっているものなんです。


「お茶の間説法」(37話分)
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