大口あけて、不用意には・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いは健康によろしい、というけれど、ふと、思うに、私達、一体、どうして笑うんだろう?何がおかしくて笑うんだろ?何がうれしくて笑うんだろ?どんなことを笑いのタネにしているんだろう?

じつは笑いについては、お経にはあまり説かれていないんです。おしゃかさまがにこやかに笑われたときは、お弟子の方々が上手な質問をされたときでありまして、ようこそ、ようこそ、弟子達よ、ようこそ良い質問をしてくれた。じつは、そのことに関して、私はいま、話をしたいと思っていたところなのだ-といってほほえまれたぐらいでありまして、それ以外、笑いについては、何を、どう笑うかは説かれていないようなんです。

そこで、他の方に聞いてみなくてはならないわけで、遠くフランスのマルセル・パニョル氏の「笑いについて」という本に聞いてみますと、なんと!笑いとは-
「そう、笑いとは、相手に対する突如として発見された優越感のあらわれである」
ですと。おわかりですか?私達が何をタネに笑うかといえば、相手に対する優越感-「ばっかだなあ」とか「それみたか!」とか「ざまあみろ」とか「わかってないなあ」とかいった気分が、フッとわいたとき、ハハハ、アハハとこみ上げてくるものなんですと。

そういえば「笑いは勝利の歌である」などということばもあるくらいで、とりあえず、相手が失敗したり、自分が相手を超えたと思ったときにこみ上げてくるものなんですね。

で、問題なのは、その「相手」であります。相手というのは、ただの相手ではない、いわゆるライバルなんです。(あいつには負けたくない)(あの野郎にはゼッタイ先を越されたくない)と思っている相手であります。そういえば、こんな相手、たくさんいますよね。(ウチの若いものには負けたくない)(お隣さんには負けたくない)そう思うでしょ。そういう相手が、どういうわけか、ひょいと失敗したりしたら、これはもうおかしくって、うれしくって仕方ないものなんだ。だってそうでしょ。自分の子供が、バナナの皮を踏んでころんだら「ああ、かわいそう」と、思いこそすれ、アハハと笑う親はいないでしょ。ところが、同じバナナの皮でも、突っ張てる相手が、すべってころべば、これはもうおかしくって仕方ない。アハハ、と笑って、ハラの中では(ザマアミヤガレ)ということになっちゃう。笑いってものは、そんなものなんですね。だから、あんまり、大口あいて笑えないんですよね。

例えば、病院のロビーで。「アハハ、なんたって人間、健康第一、おかげで毎日ピンピンしてます」と、笑ってごらん。下手すると、ブンなぐられますよ。ね、だから、もう一度考え直していただきたいの。私がアハハと笑う時その笑いのむこうには、笑われて泣いている人がいるということに気付いていただきたいの。

人間だれしも、二度や三度は他人に笑われたことってあるでしょ。そしてそのときのハラの中は(チクショー、今に見ておれ、いつか、見返して笑ったるから)という気持ちだったでしょう。それなんですよ、この世の中に多くの差別や、争いを生んでいるのは。

おしゃかさまのほほえみは大いにけっこうだけれど、あなたの、私の、不用意な笑いはどれほど相手を傷つけているかということをどうぞ、どうぞ、お忘れなく。

「お茶の間説法」(37話分)
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