いのちはどこにあるのか?そんな問いを永代経のご縁で日置先生がお話くださいました。私のいのちは、私のものと考えて、今ここにあるものとしか受け取れません。だから、このいのちが無くなれば、すべてが終わりだと思ってしまいます。これは、子供を授かると少し見方が変わってきます。私以外にもいのちはありました。痛みの共感や喜びの共感がダイレクトに伝わってくるようないのち。仏さまの目は、それが我が子だけに限らず、すべてのいのちに注がれているんだと言います。すべてのいのちに、我がいのちと同様の重さを感じられるなら、すでに死という考え方は、私の思うようなものではなくなります。
そして、仏さまは、私たちのいのちを、死んでいくいのちや滅んでいくいのちとは見ていません。生まれていくんだよ、と言われます。仏さまという尊い姿に生まれていくいのちを今生きていると思い、我が名ナモアミダブツを称えながら、その人生を生き抜きなさい、と。仏さまになるということは、すべてのいのちに痛みの共感と喜びの共感が生まれます。それが本来の私のあるべき姿と受け取ります。死を滅びとしか受け取れなかった私に、新しいいのちの息吹を与えてくださいました。
現代の常識は永遠に続くものではなく、時代や場所で変化していきます。変化していく考え方は本当の頼りにはなりません。仏法を聞くということは、私の常識を超えた言葉との出会いでもあります。
秋は報恩講と空華忌の二大法要が勤まります。どうぞ時間を割いてお参りください。
(寺報129号)