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幸せだから、健康だから

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


こだわるようだけど、笑う門には福来るってのは、順序が逆で、福が来たから笑えるんだと思いますね。幸福でもないのに笑っていられるなんてことゼッタイにないんじゃないかしら。

こんなこといったら、うちの近くのおばあちゃんが「そうともいえませんよー」とおっしゃる。「私なんか、戦争で主人失って、5人の子供かかえて、そりゃあもう苦労の連続。何度、死のうかと思ったか知れないけれどそのたびに、いや待て待て、と笑顔をたやさずがんばってきましたよ。幸福なんかどこの国のことか知らないぐらいだったけど、ちゃーんと笑ってましたけどねー」
ホラホラ、おばあちゃん、そりゃ世間から見れば不幸の標本みたいだったかも知れないけれど、あなたが笑顔を絶やさなかったのはやっぱり、それなりに幸福だったからじゃないですか。もし、あなたが笑うことが出来たのなら、それがどんなにドン底であっても幸福のあかしなんですよ。

はき捨てたくなるような人生の中でも、ふと顔がほころぶなら、その瞬間の幸福を味わっておかなくっちゃね。そう「笑いは人の薬」なんて言葉もありますよね。これはどうやら正解みたいで、お医者様も大いに推奨していらっしゃる。笑うとまず血管がやわらかくなって、血圧も下がるんですって。それに、胸の筋肉や心臓の筋肉もやわらげて、内分泌をよくして、若返りの薬にもなるんだって?!ちょっと待った、お医者さまの受け売りしてたら、若返りなんてことばが出てきちゃった。こりゃ、お坊さんのいうことじゃない。だって若返るなんてことは、因果の通りに反することで、ゼッタイにありえないことだものね。年は年なりにとってゆく、生老病死なんですから、生まれて生きて、年とって、病気して、死んでゆく。これを逆さまにして、年がだんだん若くなるなんてことがあったら、世の中ひっくり返っちゃう。

そうそう、そういえば不老長寿の薬なんてのもあるけど、あれもいけない。不老はないでしょ。生から老なんだから、老いないなんていったら誇大広告といわれたって仕方ないよね。

エー、で、話をもとにもどして、とにかく笑うというのは、健康にいいそうでありまして、消化、吸収、排せつもよくなるから、笑いはどんなビタミン剤よりも効きめのたしかな保健薬だ、などといわれています。そんなわけで、落語や漫才は、その笑いの保健薬の注射をしてくれるようなものですから、たまには寄席に足を運んだり、うちのお寺へきたり、永さんがナントカアメの広告でやってるお寺へ出向いたりして、大いに笑ってみるのもいいと思いますね。

しかし、どうなんだろう。これもやっぱり順序通りじゃないみたい。先日の若手落語会で、扇好さんがいってました。
エー、こないだはある老人センターのお呼びで一席うかがったんですが、トンと反応がない。こりゃ、芸が未熟だからかと反省してましたら、そこのお世話方「気にしない気にしない。半分は聞こえてなかったんだ」じゃあ、あとの半分はって聞くと「もう笑う気力もない」-ここでみんなは大笑い、となったんだけど、笑いは保健薬なんてのも、どうやら逆で、健康だから笑っていられる。そのうち笑いも出来なくなる時がくるって・・・ことなんでしょうなー。

「お茶の間説法」(37話分)
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幸福だから笑える

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https://www.youtube.com/watch?v=Z7Puf8RT5e8

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


永六輔さんの肝入りで、お寺の本堂で落語の会を催すようになってから、もう、6年になります。毎年、春と秋の2回、江戸の落語家に来ていただいて、お説教の高座をそのまま使い、大ローソクを2本立て、お代は一席ごとに、おさい銭集めのザルを回していただくという趣向で、これがなかなかおもしろく、近頃はご常連もふえて、毎回それなりのにぎわいをみせています。

ところで、この、寺と落語という関係は、永さんにいわせると、前座、高座、という言葉にもある通り、深いものでありまして、寺のお説教で、とても上手におもしろく語った部分が落語へと育ち、節をつけて語った部分が浪曲になっていったといえるところがあって、お寺で落語をやるというのは、いわば本家帰りということになるんじゃないか、というんです。

で、年に1、2度、本家へ帰って、テレビや寄席の細切れ落語ではなくて、じっくり語るというのは、落語家の精神衛生上も悪くないこと、というわけで、柳家小三治、入船亭扇橋といった師匠連が春の会、扇好、朝太といった2つ目の若手が秋の会でご機嫌をうかがってくれることになっているんです。

いつだったか、その落語の打合せで、永さんとご一緒したとき、たまたまそばに、秋山ちえ子さんがいらっしゃって、とても不思議そうにご覧になってる。袈裟をかけた坊さんが、袈裟をかけない坊さん(そう、永さんは浄土真宗お東のお寺の次男坊)と、落語の話かなんかではしゃいでいる。ローソクをどうしようとか、ザルでおもしろ代とか・・・。
「あのォ、ちょっとうかがいますけど、お寺で落語会をなさるの?本堂で?」
秋山さんがこうおっしゃったので、永さんがさっきの話をもう一度なさって、ようやく「へえ、そういうものなんざんしょうかねー」ということになったんです。

いや、じつは、ここんところがちょっと気になることがありまして、秋山さんだけじゃなく、ほとんどの人が、お寺、というとなにかこう、法事、お経、持戒、精進、禅定・・・というイメージをあてはめて、笑いとか、遊びとか、だれもがやっていることはやらないものとか、決め込んでしまってるところ、ありますよね。こういうのは、お経をまじないの道具に使い、坊さんを祈祷師みたいにして雇っていた律令時代の考え方とちっともかわらない。おそろしいなあ、と思うんです。親鸞聖人という方も、このあたりをずいぶんと歎かれたようでありますが、とにかくイメージの貧困というか、宗教的無知というか、ひどいなあと思います。

で、その・・・まあいいや。今日はそんな話じゃなくて、笑いについてでありました。そこで、まあ、ひとつ、お笑いを一席・・・ということになりますと、なんと申しましても、笑う門には福来る、なんて申しまして、笑ってりゃあ、幸福になれる。ハラを立てりゃ地獄へ落ちるってことになるわけですが、このハナシのマクラに出てくる「笑う門には福来る」というのは、本当なんでしょうかね。わたしはどうもこりゃ、順序が逆のような気がするんです。つまり、幸福だから笑えるんであって、笑ったからって幸福になれるわけはないと思うんですが、どんなもんでしょう?


「お茶の間説法」(37話分)
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行動に移してチエがつく

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https://www.youtube.com/watch?v=JJu3CbztcVo

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


名人、達人になる方法のおしまいは「チエの目を開け」ということであります。事に臨んで智慧がなく、正しい判断ができないようでは、いくら力があってもうまくはゆかない。

で、この智慧の目を開くにはどうすれば良いかといえば、聞(もん)、思(し)、修(しゅ)の三段階があるといわれていて、耳で聞き、思索し、それを修得してゆくわけです。これはなかなか味のあるところで、聞いただけでは智慧とはいわず、考えただけでも智慧とはならず、これを身につけて行動に移してこそ、はじめて智慧ある人と呼ばれるんです。

いつだったか、将棋の大山名人の名人談義を聞いたことがありますが、将棋で1番むずかしいのは、自分の負けを自分に納得させるときだそうで、なるほどなあと思った。ね、ホラ、いまわたしは、名人の話を聞いて、なるほどと思ったといったでしょ。聞いて思ったんですよね。ところが、3番目の「修」つまり体で覚えるというところが抜けているから、大山さんの智慧が身についたわけではない。それどころか、相変らず、負けを負けと知らず、負けるはずがない、そんなはずはないと、浅ましくもハラを立てたり、グチをこぼしたりの毎日です。

まあ、それはさておき、その大山さんの名人談義-ある時、名人戦の対局で、ある旅館へ出向いた。そして、いよいよ勝負がはじまり、それこそ、全神経を集中させ、智慧をしぼっての対局となった。

序盤戦。局面の展開を見ないまま休憩となった。名人たちが席を立つと、そこへ1人の男がはいってきた。ジッと部屋の中のある1点を凝視して、すぐに引き下がった。そして、この男がつぶやいた。
「部屋にはいって右側の人が勝ちだな」
勝負は始まったばかりで勝ち負けは本人にもわからないときなのに、こういってのけた。で、勝負はズバリ、右側にすわっていた大山名人が勝った。

対局のあと、この話を知って、大山さんはびっくり。部屋をちょいと見ただけで、どうしてわかったのだろうと旅館の人に聞いてみた。そしたら、なんと、この人はフトン屋さんで、将棋は素人。たまたま、対局用の座ぶとんを新調して、それに名人がすわられるというのを知って、どうしても現場を見てみたいといいだし、休憩中にこっそり・・・ということになったのだという。

でも、なぜ名人の勝ちとわかったのか、といいますと、このフトン屋さん、盤面で判断したわけでなく、自分のつくった座ぶとんでわかったのだといいます。左側の座ぶとんは前の方に重みのかかったあとがあり、これはあせりの証拠と見てとり、一方の右側をみれば、後に重みがかかったあとがある。これは落ち着いている証拠だから、右側の勝ち、といったのだそうです。将棋の名人はふとんの名人に1本とられたと大いに感嘆した、ということであります。

智慧の目-それは、多くの「聞」と、深い「思」と、きびしい「修行」の中から生まれる迅速適切な判断、的確妥当な処置や行動をなすことができる能力であります。われら凡人に1番欠けている目ではありますが、なんとか少しでも身につけたいと願わずにはおれません。

あぁ、また、やっちゃった。修行抜きの願いなんて、何の役にも立たないのにねー。やっぱり、程遠いか、名人、達人は。


「お茶の間説法」(37話分)
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集中力「三昧」の境地

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https://www.youtube.com/watch?v=P8sNavidk0Q

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


よろず上達法の1番は、こだわりを捨てること。2番はルールを守ること。3番はハラを立てないこと。4番は精進努力すること。で、5番目は、心を落ちつけ、集中力を身につけることであります。

仏教ではこれを「禅定(ぜんじょう)」とか「三昧(さんまい)」とか「ヨーガ」とか「心一境性(しんいっきょうしょう)」とか申します。だいたい同じような意味で、迷いを断ち、感情を静めて、心を一つの目的物にそそいで散乱させないという、精神集中の修練のことです。

まあ、これのまねごとでもできたら、達人になるに違いないわけで、この前のテニスの全米オープンですが、あれで優勝した、なんとかっていう美人プロ、ビクトリースピーチでいってましたね。「とにかく精一杯の精神集中を心がけた」って。そうだろうなあ、と思います。あれだけたくさんの人が見ている中で、長いゲームを展開するわけですから、気も散るし、心が乱れることもよくあるでしょう。勝つか負けるかは、集中力で決まるといってもいいんでしょうね。

ところで、仏教では、この集中力を身につけ、三昧の境に入るまでのプロセスを具体的に示していて、まず、調身、調息、調心、つまり身体と呼吸と精神を調整することからはじめよ、といいます。あなた、いかがですか?身体のコントロール、ちゃんとできていますか?ジャズダンスだエアロビクスだと精出して、呼吸と身体はまずまずですか?さあ、それではお経にある心の安定統一法をのぞいてみましょうか。

まず第一課・・・「諸欲を離れ、諸不善法を離れよ」(ダメだこりゃあ。欲を捨てるなんてできっこないよ)
第二課・・・「浅い分別や、チマチマした分別をやめて、心を浄く保ち、統一せよ」(そうしたいのはヤマヤマだけど・・・)
第三課・・・「喜びを捨離せよ」(エエッ?喜びもすてるの?)
第四課・・・「楽と苦を断じつくし、不苦不楽の境に入れ」(おそれ入りました)

禅定などというのは実践法なのでありますが、字で読んだだけで、目の前が真っ暗になってしまうのが、われら凡人であります。そしてお経にも、普通の人間の日常の心の静まりなんてものは、本物の精神統一にはほど遠いとあります。

いつだったか、わたしも研修会で禅定修行のまねごとをさせていただいたことがありましたが、なんともいやしい根性のまま終わってしまったことであります。しかしまあ、この禅定の功徳などというものをみると、第一に健康に役立つとあり、そして、さらに、神通力もそなわり、安眠できて、気持ちよく目覚め、悪い夢を見ないし、人からは愛される・・・などとあります。なかなかけっこうな功徳でありまして、少しでも努力して、さっきのプロテニスの女王とまではゆかないまでも、健康のため、安眠のため、気持ちよく目覚めるために、禅定・三昧の境のにおいでもかがせてもらいたいとも思うわけですが・・・。いやあ、三昧といえば、こちらは、読書三昧、仕事三昧、なんていうかっこいいものに精神集中できるわけがなく、昼寝三昧、テレビ三昧、遊び三昧、なまけ三昧の毎日であります。上達しないよなー、これじゃあ、なーんにも。


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仲良くなるための精進努力

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https://www.youtube.com/watch?v=uTVtxx3GDl8&t=94s

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


何事も上手になるには、精進努力が大切なようでありまして、お経にも「もし人、精進を具せば、王の力自在なるがごとし」とか、「精進を心がければ、万事成就す」などとあります。で、この精進というのは仏法でいう実践道の4番目の徳目で「物事に精魂こめて、ひたすら進むこと」とか「善をなすに勇敢であること」「努め励むこと」「いそしみ」「励み」「励みの道」「勇気」「勇敢にさとりの道を歩むこと」「精励(せいれい)」「善を助けることを特質とする」「悪を断じ、善を修する心の作用」「俗縁を絶って潔斎(けっさい)し、仏門に入って宗教的な生活を送ることをいう」「魚、鳥、獣の肉を食わないことをもいう」「懈怠(けたい)を改めて、身をきよめること」と、とりあえず、良いことずくめで、どれをとっても、あなたの生活の目標になるものばかりのようであります。

ひたすらとか、いそしみとか、はげみというのは、スポーツ上達法にも欠かせないものでありまして、理屈でどれほどわかっていても、体がついてゆかねば何もならない。で、その体に覚えさせるには、それこそ、ひたすら精進努力するしかないわけです。

私達のお寺の境内のゲートボールもしかりで、73歳のNさんときたら、精進努力のかたまりのような人。目が不自由で、片方はほとんど見えなくなっていて、方角、距離感ともにかなりのズレがあるはずなんですが、とにかく、練習に練習を重ねて、そのハンディを克服。スタートしてから2年半、なんとこのNさんが、月例大会の最多優勝記録保持者なのであります。で、いまでは地区の老人会のゲートボールのキャプテンもやってらっしゃって、ついこの間は、県の大会にも出場したんだそうです。

ところが、これがたいへん。試合に出てみたら、みんなうまいことうまいこと。Nさんチームはコテンパンに負けちゃった。
「いやあ、上には上があるもんですなあ。とにかく、よそのチームの連中ときたら、朝の5時からコーチつきで徹底的に練習をやっていて、作戦やら、サインやらと、そりゃもうビックリギョウテンすることばかりでした。それにしても、負けたくやしさでいうんじゃないが、ゲームというよりケンカのようなものすごさでしたよ」とか。

とにかく、強いチームといわれるところは相手の気持ちも何もあればこそ、ここぞというときになると、敵の球を1つ残らずコートの外へスパーク打撃でけ散らすそうで、これでもか、これでもかという感じでやってくるんだそうです。
「ほんとに、私たち、こりゃあ地獄だなあと思いましたよ」とNさん。

勝負というのは本来、そういうものかもしれません。勝てばよし、負ければ弱しで、そのくやしさの中から、また立ち直って精進努力、ナニクソ、ナニクソ、コンドコソということになって実力アップにつながってゆくのかもしれません。しかし、それはもう、体力増進とか、心のふれ合いとか、そんなものとはかけ離れた、スポーツの名を借りた我と我のぶつかり合いの戦争で、それこそ修羅か地獄としかいいようがないものじゃないでしょうか。多いですね、近頃こんなの。

そういえば私たち、精進努力は「善をなすに勇敢なること」という心を忘れてしまっているみたい。勝つことにじゃなくて、仲良くなることに精進努力しなくちゃいけませんなあ。


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ルールを破り、曲げるもの

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


 ゴルフだって、テニスだって、野球だってゲートボールだって、そう、人生だって、達人になろうと思ったら、しっかりとルールを守ることであります。お経にも「ルールを守ることが第一の善である」と説いてある。そして、ルールを守れば「他人から愛され敬われ、心さわやかになり、悪い夢をみることなく安眠できる。だから病気もしないし、長生きできる。もしまた命終わっても、極楽に生まれることができる」とも説いてあります。

いいなあ、そんな気分になれるのなら、私もせいぜいルールを守ってがんばろう!こういうふうに素直に思って、今日からあなたも実行なさいませよ。そしたら、スポーツだけじゃなく、あなたの人生、心豊かに生き切ることができるに違いないんだから。

でもねー、そう簡単にはいきませんよね。そうそう、たかがゲートボールと思われるかもしれませんが、あれだって、いろんなルールがあるんです。2度打ちしちゃいけないとか、手でさわっちゃいけないとか、打順を間違えちゃいけないとか・・・。ところが、これがなかなか守れない。人が見ていないと、つい2度打ちしてみたり「まあ、これくらい、いいじゃないの」とルール無視をやってしまう。注意されるとゴメンナサイとは素直にいえない。「なにさ、遊びでしょ」という気になってしまう。遊びでこれくらいのルール違反をしているのなら、人生本番でもっとすごいことやらかす可能性ありということなんだけど、ここんところがわからない。

で、我を張って、自分を正当化して、しまいにはこのルールがいけないんだと、ルールを裁いてしまうしまつです。いや、本当に、最近まで、ゲートボールの全国統一ルールってのがなかったんです。こっちのがいい、そっちのはだめだと、やり合っていて、どうしても決まらなかったんだそうですが、こうなると、ウチの子供と一緒だなと思う。

境内で野球をしているのを見ていると、ありゃ野球をやっているんじゃないね。まずチーム分けのジャンケン。ここで、勝ったらどうする、負けたらどうのとルールづくりからはじまる。ところが、自分の気に入らないようになると「ちょっと待った、もう1回、今度はこういうぐあいに・・・」となって、プレーボールまで30分ぐらいかかる。そしていよいよゲームがはじまると、投げ方、打ち方、走り方、こういう場合はアウト、こうなったらホームランというふうにルールを決める。で、決まったかな、と思ったら、またまた「ちょっと待った。これじゃあつまらないから、今度はこうしよう」なんてはじまって、またジャンケンかなんかやり出して、挙句はケンカで」だれかが泣く。まあ、これの繰り返しなんですよね。野球をやってるんだか、ルールづくりをやってるんだかわからない。

しかし、オトナの世界もどうやらこれの連続みたい。ルールをつくってはこわし、こわしてはつくり、そして違反したものを指差して非難し、自分が破ったらルールが悪いとなじり・・・できるだけ自分の都合のいいようにルールを曲げてゆく・・・。ああ、そうか、こんなことしてるから私達「他人からは嫌われ、さけすまれ、心よどみ、悪い夢ばっかりみて寝つかれず、病気ばかりで長生きできず、命終わってもどこへゆくかわからない」わけだ。そういえばお経には「ルールを破るものは、畜生に異ならず」とあったっけ・・・。


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無心になるむずかしさ

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


スタートラインに立ったら、こだわりを捨てよ-熟年スポーツの花、ゲートボールにかぎらず、人生の達人になるためには、まずこの第一課からはじめなくてはなりません。だれかさんが見ているからとか、ちょっといいカッコしてみせようとか、失敗したらどうしようとか、私達は何かを始めるとき、必ずこうしたことがいろいろ気になるものであります。

先日、寺で法座の開かれる前に、境内にゲートボールをやってましたら、お参りにきたおばあちゃんおじいさんたちが、案の定、「ホホ―、やっとられますなあ」と見物をはじめました。
「ながめてばかりじゃだめなのよ。スポーツはすすんでやらなくちゃ。よし、今日はひとつ、このゲートボールで、とにかく一発打ってみなくては、お寺の本堂には入れないということにしませんか」
みんな、ヒマなもんだから、それは面白いということになって、そこで、まず、しゅ木の持ち方、玉の打ち方、第一関門のねらい方なんてものを説明するわけで、
「いいですか、体を楽にして、そう、ゴルフや剣道みたいに、このツエを軽く握って、あの4メートル先の関門めがけて、カツーンと・・・ホラ、こういうふうに・・・ね、通過するでしょ」
とやったら、本当に入っちゃってパチパチパチと拍手がきて、じつにいい気分。で、いよいよ、おばあちゃんたちのプレー開始ということに。
「へぇ、こういうふうにねー、それで、この球を、ポーンと打つの?それ、ポーン」
こういうおばあちゃんの球は、だいたいリラックスしてるから一発で通過することになっています。パチパチパチ。「上手だねー」「選手になれるよ」などと、ギャラリーから声がかかる。で、次の番。
「フーン、これがスティックというものですか、へー、この球をねー、どこがおもしろいのかね、そういえばよくやってますね。え?ああ、あの門をくぐらすの?ええ?あんな遠いところ?わあ、こりゃ無理よ。だってはじめてですもの、ダメです。無理です。通過しません。私、こういうのヘタだから、入りませんよ。ゼッタイにっ!」
こういう人にかぎって、ねらっているんですよね。スタートラインに立ってから、第一関門をにらみ、ボールをにらみ、いろいろ能書きならべる。で、まあ、大体はハズレますね、こういう人。そしてすごくくやしがります。
「ねー、だからいったでしょッ、入らないって、そうなのよ、無理なんだから」
そうなんです。上達法第一課は、こだわりを捨てること。前のおばあちゃんは、その点、ヘーとかホーとかいってこっちのいうこと全部聞いて、無心で打ったんです。だから入った。ところが、あとのおばあちゃん。少々自意識過剰でありまして、とにかく、みんなが見ていることが気になって、うまく見せようとこだわったことが失敗のもとだったわけです。

さて、続いて第二打ということになりました。そしたらなんと、最初上手だったあのおばあちゃん、みんなから「あら、さっき一発で通過したあのひとだわ」「うまいのよねー」なんて、いわれて、結果は・・・ご想像通り、さっきの無心はどこへやら、コチコチになっちゃって、通過どころか、球にしゅ木が当たらないふうでありました。でも、これぞ人間、これこそ、凡夫なんですよね。なぜかみんなそのおばあちゃんといっしょに大笑いでした。


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カッカしそうになったら・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


スポーツの秋なんだそうであります。そこで、この欄もひとつ、茶の間を飛び出して、スポーツが3倍面白く、10倍は上達する方法なんてのを、仏様を仰ぎながら考えてみようと思うんです。

まず、近頃、お年寄りの間でブームになっているゲートボール。こわいですね、先日はとうとう殺人事件まで起きちゃった。でも、これ、当然だと思うんです。スポーツとか、勝負などというものから遠ざかっていた人が、久し振りに勝った負けたとやり合うんですからね。これまではおつき合いでニコニコあいさつしてたのに、ゲートボールとなると、そうはゆきません。

あ、そうそう、ご存じですか?ゲートボールというスポーツ。うちの寺の境内には、ちゃんとコートをこしらえてありまして、いつでもゲームが出来るようになっているんです。ゲートボールなんていわないで「門球競技」なんていっているんですが、要するにこぶし大のプラスチックの重い球を、しゅ木のうなツエでコツンとやる。3つの門があって、そこを通過して、ゴールの的に当てれば上がりという、いたって簡単なゲームなんです。

なかなか面白いので、日曜学校の子供たちやおじいちゃんおばあちゃん、それに私たち壮年層のおじさんグループも加わって、月例大会なんてのをやっているんですが、なんと全国には400万人の愛好者がいるといいますから、大変な人気といえるでしょう。

で、全国の公園や寺の境内で、お年寄りを中心にしてコツンコツンとやってるわけですが、ブームになったとたんちょっと評判わるくなった。なぜかというと、つまり過熱気味だというんです。どこのコートでもケンカが絶えないようなんです。

たかがゲートボールで、と笑う人もいるけれど、実際やってみると、これがかなりカッカとくるものでありまして、ゲームの最中に、気分よく次のゲートへ球を進めていると、相手の球がこれをジャマしにくるんです。カツンと他人の球に当てれば、その球をスパークといって、どこへでもぶっ飛ばすことが出来るというルールになっていて、これが、カッカのもとなんです。カツンと一発やられるとたかがゲートボールとわかっていても、頭を一発ぶんなぐられたような、全人格をふっ飛ばされたような、そんな気分になるんです。殺人事件が起きても不思議はない、そう思えてくるんです。ですから、うちの境内では、そんな危険のないように、ゲームの前後に必ずお説教をつけることにしています。

みなさん、これからたのしいゲートボールを始めますが、その前に、とっておきの上達法を伝授しておきましょう。まずなんといっても、上達法の第1は「ハラを立てないこと」であります。あのスパークとやらでカツンとやられると、頭に血がのぶるに違いない。しかし、そこでハラを立ててはいけません。ぐっとガマンしなくては上手になれません。これはどんなスポーツにも通じる鉄則です。しかし、そんなことをいってもわれら凡夫、ガマンができるわけがない。そしたらどうするか、そうです、仏様を仰いでわが心をみつめてみる。なんと、なんと、たかがゲートボールのカツン一発で…。自分の気に入らないことにはすぐにハラを立てるのが人間だといわれるが、本当にそうだな-と、相手のスパークをご縁に味わっていただきたい。それではプレボール!


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心の底の黒い化物

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操というものは、あるべき姿を求めて、外へ外へと向かってゆくものではないようで、やればやるほど、内へ内へとはいっていって、オノレの身のほどが知れてくるもののようであります。自らを省みようという、反省のすすめにはじまって、その反省は身勝手な反省ではなくて、真実を仰いで身のほどを知るという、ごまかしのきかない、悪の自覚、いや悪の他力覚という、仏様の働きによって気付かされたとしかいいようのないところまで、ずいぶん深みにはいり込んでしまったようであります。

で、深みにはまり込んだついでに、といってはおかしいが、とにかく、そのどん底までのぞき込んでおこうと思うんです。で、これまで使ってきた反省ということばを、仏教ではどういうかと申しますと「慚愧」(ざんき=仏教用語ではざんぎ)といいます。
「いあやあ、お恥ずかしい。ザンキに堪えませんなあ」
なんていうことがあるけど、この慚愧というのが、じつは人間の反省のどん詰まりにあるものなのであります。

そこでまず「慚(ざん)」ですが、字からいうと、心を斬る、つまりわが心を切りきざむということでありまして、内にむかって恥じるとか良心の痛みを感じるとかいった心をいいます。そして「愧(ぎ)」はどうかといいますと、心を鬼にするわけでありまして、外にむかって恥じる心とか、悪を廃する心とかいわれています。つまり、慚と愧は、内と外にむかって恥じる心であり、善を求め、悪を廃する心であります。この心はじつにすばらしい反省の心でありまして、お経にはこう説かれています。
「世の2つの白法あり。慚と愧、これなり。これよく、世間を護る」
つまり、世の中を護り、良くするのは、1人1人の慚愧の心なのだというわけです。ですから、あるべき姿からいえば、世界中の人が、この慚愧の心を起こせば、世の中は本当に平和になるに違いないのであります。

ところが、悲しいから、世の中ちっとも平和になっていない。世の中どころか、近頃は家庭内の平和もままならない。これはいったい、どうしてなのか-と考えてみるまでもなく、仏様は私達に、こうおっしゃっているのであります。
「世の2つの黒法あり。無慚。無愧これなり。これよく、世間を破壊す」
つまり、この世の中をメチャクチャに破壊する、まっ黒の化け物は、政治でも社会でも教育でもない。じつは人間1人残らずが欠かさずに持ち合わせている「煩悩」というものであって、その煩悩の中でも、根源に巣くっている「無慚無愧」の心なのだとおっしゃる。心に良心もなく、善を求める心もなく、悪をおそれず、ただただ己れの煩悩のおもむくままに、善を否定し、悪を肯定してうごめいている、この私のおそろしい心こそが、世間を破壊している元凶だと、おっしゃっているわけであります。

私達はともすると、外にむかってあれこれと批判し、あれが悪い、これが悪いと指さすけれど、じつは、世の中が悪いんじゃなくてこの私の、そして全人類が心の奥底に持ち合わせている無慚無愧の心の寄り集まりが、刻々とこの世の中をこわしつづけているのだということに気づかねばならない-仏様はいつでもどこでも、いまここででも、そう私に呼びかけておられるのであります。


「お茶の間説法」(37話分)
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身勝手な反省ではなくて・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


それみたか、と人を指さしたその指をギュッとまげて、己にむけてみる-心の体操第1は指まげ体操で、自分自身を省みて、身のほどを知るという、反省のすすめみたいなものでした。で、この反省ということになりますと、だれもが心がけていることのようでありまして、それなら、いわれなくてもちゃんとやってます、とおっしゃる方も多いかと思います。そういえば、人のふり見てわがふり直せとか、脚下照顧(きゃっかしょうこ)とか、日々是反省とか、いろいろいわれています。でも、ここで1つ確認しておかねばならないことは、反省といったって、自分勝手な反省ほどいいかげんなものはない、ということであります。

たとえば、何か失敗する、そしたら必ずああ悪かった、大変なことをした、申しわけない、という気になる。まあ、ここまではいい。ところが、その次はどうかというと、でも仕方なかったのよ、あの場合・・・とか、そりゃあ悪いと思っているけど、でもさあ・・・と居直って、自分の行為を仕方なかったんだと正当化してしまう。これはじつは身勝手な反省でありまして、こわいことには、その反省がすむと、反省していない人をみつけて、また指をさし、あの人ちっとも反省の色がない、ひどいわねー。それに比べて私なんか反省しきり。見上げたもんよねー、なんて悪いことしたことが、身勝手な反省のおかげで、自慢のタネにまでなってしまうこともありうるわけです。

そこで、やっぱり、自分で勝手な反省をするのではなく、仏様を仰いで自らを省みなくては本当の反省にはならないと思うんです。とくに阿弥陀如来という仏様は、この私の、自分を良しとする心を徹底的に打ちくだいてしまわれるお方で、ある学者は、この仏様の働きを「自力の無限否定」という言葉で表現しておられます。この私が無限に否定されてゆく・・・なんて聞くと、どうも気が滅入っちゃって、なるべくなら、この私を認めて、よしよしと頭をなでて下さるような、そんな方のところへ近づきたくなりがちですが、それこそが私たちの反省の心を持たない、自己中心、うぬぼれの生きざまということになろうかと思います。

ともあれ、心の体操第1として指をまげてみようと申しあげたのは、人を指さすのが大好きな私たち、他人の悪口ならウソでも面白いが、自分の悪口なら本当でもハラが立つというこの私を、自分勝手にではなくて、仏様を仰ぎながら省みてゆこうということだったのであります。

人は自分の悪に気がつくほどの善人ではない、といわれます。そんな私が、少しでも自分を指さして、本当の自分の心の奥底をみつめることができたなら、おそらくそれは自分の力ではない、それこそが仏様の働きなんだと受けとってゆく。こうした心の動きが宗教的情操というものでありましょう。ですから、この悪の自覚ということを、ことさら言葉をかえて「悪の他力覚」だいう学者もおられます。つまり、悪を自覚したなんて思っているのは、うぬぼれで、自分の悪に気づくはずのないこの私が、気づいたのは自分の力ではなく、悪と気づかせていただいたのだ、仏力、他力による目覚めだというわけです。

仏様を仰ぎながらわが身をかえりみるという心の体操は、単なる身勝手なごまかしの反省ではないんだということ、少しおわかりいただけましたでしょうか。


「お茶の間説法」(37話分)
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