このテキストは、平成22年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(134号、135号)に掲載したものです。
利井唯明師
皆さんこんばんは。ようこそのお参りです。この空華忌は明教院僧鎔和上の祥月命日に合わせての法要でございます。回忌でいいますと227回忌にあたります。僧鎔和上は空華蘆(くうげろ)と言って、ここで塾を開いておられまして、門弟三千人といわれる程の大きな学派になっております。そのお弟子さんには柔遠(にゅうおん)和上、道隠(どうおん)和上のお二方がおられます。京都の大谷本廟に行きますと、勧学峪という勧学のお墓がずらっと並んでいる所があります。
その一番真ん中に僧鎔和上と道隠和上のお墓が一体となって並んでいます。その両脇にずらっと勧学のお墓が並んでいるような形です。この並びは、会読の時の並び方で、問答するときの形式なんです。典儀(てんぎ)といわれる問答をさばいていく司会者のような人が真ん中におられて、両脇のお坊さんの一方が問いを出して、片方が答えていくのです。勧学峪の一番入口のところには、門番のように雪山家のお墓がございます。僧鎔和上が亡くなられた後、道隠和上は大阪のほうに行って塾を開いております。後に、大分、豊前に転居されていかれましたが、この大阪の塾からは松島善譲和上などがお出ましになりまして、この系統を堺空華といいます。一方の柔遠和上の方は、越中の方へ留まっておりまして、この空華蘆を引き継いで講義をされておりましたので、こちらの系統を越中空華といいます。どちらも僧鎔和上の学説を補い、また膨らませておりますから、言われていることの幅が広くなったというくらいに思って頂いたら結構かと思います。柔遠和上のお弟子さんは、行照(ぎょうしょう)というお方が出られまして、この方は今の岐阜県、美濃の行照さんといって空華蘆で学んだあとに岐阜にもどり、塾を開いております。僧鎔和上のお弟子さんは皆優秀ですから、戻った所で塾を開いていきます。その行照さんのお弟子さんにあたるのが、私から言いますと曾々爺さんにあたります鮮妙(せんみょう)さん、利井鮮妙でありまして、今私共がやっております行信教校の創設者の一人になるわけです。
柔遠和上がこの越中で塾を開き沢山の門弟がおったわけですが、門弟のことを自分の弟子とは言われませんでした。「善巧寺にある僧鎔和上のお墓に参って、空華の学徒としてお弟子になりなさい」と言われました。ですから行信教校でも、3年に1回ここへ学徒が来るわけです。お墓参りをして空華のお弟子の一員に加えて頂く。お弟子といったら大層ですが、そういう経験がありまして、柔遠和上のお言葉が一つのご縁になっておるわけです。
親鸞聖人も「歎異抄」の中で「私は弟子一人も持っておらん」とおっしゃったでしょ。あれと一緒ですな。私というものが弟子をとるというものでは決してない。「私は師匠の仰せに順っておるだけなんだ」そういう姿勢でしょうね。私が私がと言うているのが正しいかといったら、そうじゃなかった。そういうことで、この度、空華の里であります善巧寺様にご縁をいただきまして、私もその一人としてお話をさせて頂くわけです。
他力ということが浄土真宗のひとつの大きな特徴であります。しかもこの他力という言葉について、大変奥深く研鑽して学説を立てていったのが空華学派になるわけですね。空華学派の特色としましては、他力というものは絶対他力といわれるようなものである。我々が日常で使う言葉で言いますと、自分の力以外のものの力を借りることを他力と考えますね。実をいうとそれは大きな間違いなのです。そのことを親鸞聖人は『教行信証』のなかでしっかりと言っておられるんですが、お弟子さんの中にはやはり大きな誤解をされていた方がたくさんおられたんです。
法然聖人は選択本願念仏ということ仰り、それはいったいはどんなお念仏であったかといいますと、仏教を大きく分けますと、聖道門と浄土門とに分かれます。これは道綽禅師というお方が仰ってくださいました。その聖道門というのはどういった教えかと言いますと、この身このままこの土で悟りを開こうという教えです。此土入聖(しどにっしょう)の法門といわれます。それに対して浄土門というのはお浄土に生まれて証を開こうとするんですから、彼の土で証果を得る道ということで彼土得証(ひどとくしょう)といわれる法門があります。道綽禅師という方が今この末法のおいて、凡夫であるこの私は聖道門では決して悟りを開くことができないから、浄土門に帰依しなさいよとお示しくださったわけでございます。
そして法然聖人はその浄土門においてどんな行いによって浄土に生まれていくのですかといった時に、雑行と正行とありますよと仰るわけです。雑行というのは雑と書いてありますが、まじっていると読むんです。まじりっけがあるということです。正というのは正しく往生浄土に向かう行ということです。どのように違うかといいますと、端的に言いますと、阿弥陀様に関係する行と阿弥陀様に関係のない行ということです。たとえばお経を読むことひとつにしましても、お経にはいろいろあります。般若心経であるとか法華経であるとか涅槃経であるとか、我々浄土真宗でいえば無量寿経であるとか観無量寿経であるとか阿弥陀経とかいろんなお経典があります。その中で阿弥陀経のお浄土に参るのに法華経読んでどないするのという話です。もちろん法華経の中にも阿弥陀様は出てまいります。しかしながらそれはお経全部を阿弥陀様の本願のこころを説かれておるのかという一部分なんですね。全部ではないんです。本来は法華経であれば大日如来によって法華の教えですね。真如への悟りを開く道が説かれております。お浄土に生まれていく道が説かれているわけではないんです。
皆さんよくご存じなところでいうたら般若心経というお経がありますね。般若心経というのは真如のあり方、いわゆる智慧のまなこを開いていくことが書いてあるんですその智慧のまなこをひらくお経典を読みながらお浄土を願うというのは方向が違いますでしょ。行き先が違いますわな。目的が違います。だからそういうものは雑行というんですよ。阿弥陀様のお浄土にまいるんだったら阿弥陀様の御本願のお心、阿弥陀様のお浄土に生まれていくお経典を読みましょうというのが正当ですわな。それが正行といわれるものです。