法話」カテゴリーアーカイブ

子の痛みをわが痛みとして

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女性が一生懸命に力を入れることには5つあって、1に美容、2に家庭ときて、3はといえば、これが「子供」である、と仏様はおっしゃってる。なにも仏様にいわれなくたって、母が子を思い、子育てに熱中することぐらい、本紙連載の山谷えり子さんの子育て奮闘記を読めばすぐわかるわけでありますが…。でも、どうして、母親はわが子のこととなると、父親を放ったらかにしてでも、がんばる気持ちになるんでしょうね。

そのあたりを、ひょっとしたら、こういうことなんじゃないかなあ、と感じたことがありますのでお話しいたいと思います。これは仏様じゃなくって、わたしの思いですから、たいしたものではありませんが…。

子供って、アチラのことばでいうと、チャイルドですよね。で、そのチャイルドというのは語源は何かと英語の先生に伺ったら、なんと、ラテン語で子宮ということばなんですと。つまり、母親と子供はつながっていて、それが切れて出てきたんだけど、まだまだおなかの中と同じようなものなんだということでありましょう。このことで、おどろいたのは、わたしの友人がある時、仕事でケガをしまして、機械に指をはさまれて、右の指3本なくしてしまいましてね、どうなぐさめていいのかわからず
「たいへんだったなあ、不自由だろう」
と、なんとも月並みなことをいっちゃったんですが、その時、友人がいうには-
「お前にはわからんだろうが夜寝ているとな、このなくなった指の先の方が痛むんだよ。それで、フト、手をやってみると、そこにはもう指はないわけだろ。神経の錯覚なんだろうけど、いやあ、なんともいえないものだぜ」
わたしは、これをただ不思議なこともあるものだなあぐらいに思っていたんですが、それからちょっと気になって、手をなくした人、足をなくした人などに聞いてみたんです。すると、みんな同じような痛みを感じ、なくなった手の先、足の先に手をのばすというんです。そんなものかなあ、とうなずいていて、ハッとしたのは、じつは、母と子というのはこの関係なんですね。

つながってたんです。それが切れて出たんんです。そしたら、ちょうど、なくなった指の先が痛んだり、切断した足の先にふと手がのびるように、子供の痛みが、わが痛みと痛める。子供の悩みが、他人事でなく、わが悩みと悩める、それが母親なんじゃないでしょうか。

うちの女房も同じで、はじめて、子供を医者に連れていって、大きな注射をされるとき思わず、痛い!と口に出てしまったといいます。自分が注射されるわけでもないのに、子供の痛みが、自分の痛みのように感じられる、ということでしょう。残念ながら、父親にはそれがない。いや、これは私だけかもしれませんが、子供がケガをして帰ってきても、傷口に手をやることをせず、まず「オイッ、たいへんだ、なんとかしてやれ!」と女房を呼ぶ。痛みが伝わってこないんです。なんとかしてやろうとは思うけど、口ばっかりなんです。これはやっぱり、つながってなかったからじゃないだろうか。男は名利、でカッコばかりつけていて、わが子の痛みをわが痛みと感じない。わが子の悩みをわが悩みと悩めない-というところが父親にはあるんじゃないだろうか…。

女人の第3力-母と子の絆に対しては、男としてただただ頭が下がるばかりであります。


「お茶の間説法」(37話分)
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帰りどころ

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


偉くなりたいのが男の願いで、美しくありたいのが女の願い-言葉をかえると、男の宝は「名利(みょうり)」であり、女性の宝は「美しさ」ということにもなろうかと思いますが。その宝物、男には一つだが、女にはまだあって、第二の宝は「家庭」だというんです。

家庭-そういえば、このページも家庭婦人面とうたってあるくらいでありまして、家庭を守る、家庭の中心人物といえば、なんたって、これはお母さんしかいないのであります。ずいぶん決めつけてものをいっているようですが、なぜ、そういえるかを話す前に、まず、家庭とは一体、どういうものなのか、ということについて考えておきましょう。

社会学の先生にうかがうと、家庭とは「グッド・ハーバー」だとおっしゃる。つまり、良い港のようなものだというわけです。で、その良い港というのは、設備が整っている港とか、灯台の光が隣りの港より明るいとか、そういうものじゃない。船に乗っている人たちが「あー、帰って来たなあ」と思える港、それが良い港というものでありまして、家庭もまた、この港と同じで、家族のものが「帰って来たなあ」と思えるところでなくてはならないわけであります。

ところで、この「帰る」という言葉でありますが、これは一体、どういう所で使えるかといいますと、待っている人がいてはじめて帰るというんです。「ただいま」といったら「お帰り、待ってたわ」といわれて帰ったことになる。待っている人がいないところへは「行く」というんです。

さて、そんなことを思いながら、わたしも年に何度か、大阪の実家に帰るわけですが、たまたま、母親がいなくて、兄が迎えてくれることがある。
「やあ、ただいま、兄さん」
「あー、お前か、何しに来た?」
迎えてくれているんだろうけど、何しに来たといわれては帰った気分にはなれません。

では、父親だったらどうか-
「父さん、ただいま」
「オー、ン、ン、ン」
うなずいているだけじゃ、これも帰って来たなあ、という感じが出ない。
それが母親だったら、もう玄関に入る前から車の音で聞きわけるのか、向こうからガラッと戸をあけて、「あッ、隆ちゃん!隆ちゃんでしょ。お帰り。遅かったわね。電車なら時間がわかるけど、自動車だからいつ来るかわからないでしょ。富山へ電話してみたら、もう着くころだって…それから2時間もたつんだから、心配したわ。さあ、あがんなさい。おフロわいてるよ。さあ、さっと汗を流してそれからお酒でしょ。何飲むの?あ、そうそう、富山の方、こないだの雨どうだったの?大変だったでしょ…」
ちょっと口数多いけど、何だか帰ったなあという気分にひたれるのは、やはり、母親の持っている大きな「力」だと思えてくる。そして、もし、この母親がいなくなったら、わたしは実家へ帰ることも少なくなるんじゃないか-と、そんなことも思うんです。

宗教とは、わたしの究極の帰りどころを求めるものであって、それは宗派によって、いろいろと違いはあるんですけど、この世でわたしが帰れることろといえば、それはだれでもただ一つ、待ってくれている母親のふところ、ということになるんじゃないでしょうか。


「お茶の間説法」(37話分)
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1番の願い 美しくありたい

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「女人に五力あり」-これは増一阿含経というお経の中にある言葉なんですが、女性が一生懸命に力を入れることには五つもあるんですって。男はたった一つ「名利」だけといっといて、女には五つなんて、ずいぶん不公平だと思うんですが、まあ、それはさておき、あなたが毎日、あるいは一生かかって、求めてやまないものは、いったい何なのか、ちょっと考えていただきたい。

そう、考えていらっしゃる間に、別の話をいたしますが、先週、男は名利、なんやかやいってみても、偉くなりたいのが男の願いなんだと申しましたら、この欄を読んでた男の人が電話をかけてきて下さって、自分は50に近い男だが、いままで、名利を願ったことは一度もない。まわりはみんな、偉くなろうと一生懸命だが、そんなのはバカなことだと思うーーーとおっしゃる。ずいぶんカッコいいんです。

そこでまじめに聞いてみたんですが、自分は偉くなりたいなんて思わないっておっしゃるけど、俗世間の修羅場に超然としていることが、あなたの求めている”偉さ”じゃないのかしら? 男は名利、あるいは富貴ーーーつまるところ、五十歩百歩なんじゃないですか。ともに凡夫のみなんですよ、申しあげた。ウーム、電話の向こうはちょっと考え込んでいらっしゃる様子でした。

さて、あなたの方はいかがですか? 求めてやまないものは一体何なのか。ベスト5決まりましたか? それでは、いってみよう。今週のベストワン!(コラッ浮かれ坊主!!)

ま、とにかく心静かに仏様のおっしゃることを聞いてみましょう。女人に五力、その第1番は「色力」なのだそうであります。色力、色香、つまり”美しくありたい”というのが女性の第一番の願いである、と仏様がおっしゃるのです。当たっているか、いないかは、男の私にはわかりませんが、そばから見ていて、力が入っていることは事実ですね。子供の教育が1番という顔をしているお母さんも、PTAの会合に出かける前には、まず身だしなみですね。化粧品だってファッションだって、とにかく、こんなに沢山あふれかえっているというのも、じつは、美しくありたいというのが女性の一番の願いだからでしょう。

でもね、こないだウチのお寺でこんな話をしていたら、前にすわっていたおばあちゃんにしかられましてね。
「若ハン(若院、つまり私のこと)おかっしゃい(おやめなさい)わしゃいま86。色気もなんもありゃせんちゃ」
と、おっしゃる。そこで、そのおばあちゃんに問い返してみた。
「なら、おばあちゃん、ちょっと聞くけどあなた、今日この寺へ来る前に、家で何を着ていこうかな、何を履いていこうかな、なんて思わなんだ?」
すると、その86のおばあちゃん、ポッと顔をあからめて、「ありゃりゃ?!」
 80であろうが、九十であろうが、女の願いの第一番は、美しくありたい、ということなんじゃないでしょうか。いいですね。素晴らしいことだと思います。

あ、そうそう、この欄、男の人も読んでいるのでいっておきますが、いいですか、女の色力、ゼッタイに傷つけちゃいけませんよ。


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男の世界は名利の修羅場

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「競利争名(きょうりそうめい)」-こんな病気があるんですって。読んで字のごとく、利益を競い合い、名誉を争い合うということなんですが、世の中毎日、こればっかりじゃないんですか。

試しに新聞の一面から最終面まで、ざっと目を通してみましょう。
まず1、2面には政治関係のニュースがたっぷり。日本の未来をしっかとにらんでまともに国政の問題をえぐるというような話はあまりたくさんありませんで、鈴角がどうのとか、野党のメンツとか、およそ政治以前の名誉の争いが多い。で、それがまた、読んでいて面白いということは、こっちもお「争名(そうめい)」の病にかかっているわけで、調べてみたら、新聞が1番よく売れるのは争名の極み-選挙の時期だそうですから、さもありなんとうなずけます。

経済面。これはもうズバリ「競利(きょうり)」の世界、利害の戦争、ソンかトクか、勝った負けたかと大企業から小売りまでがカンカンです。オヤ、その競利の経済面の片すみには、棋聖戦・・・あくまでここは勝負の世界なんですな。

勝負といえば、スポーツ面。アマチュアなら名誉、プロなら利益ということで、ここも競争オンリーのページ。地域ニュース、社会面となると、ホッとする話題もあるにはあるけど、やはり毎日、名利の修羅場が主役のよう。

さてさて、それではテレビでもと番組欄をながめれば、ここも熾烈な視聴率競争。チャンネルのひねり具合でこれまた勝った負けたとなるわけで、かなりナマぐらいタイトルが同じ時間帯にしのぎをけずっています。

ほーんとにどこをながめても、競利と争名、我と我、利と利がぶつかり合ってガリガリガリガリと音をたて、我と他、彼と此れがもつれ合ってはガタピシガタピシ・・・。世の鏡である新聞を目で読まずに、耳で読んだら、一面から最終面まで、我他彼此我他彼此 ガタピシガタピシガリガリと聞こえてくるんじゃないかと思われます。

あ、そう、婦人面はどうですか。例えば本日。楽しい園芸、食べ物レポート、お茶の間説法、熱中育児・・・と、じつにソフト、ケンカなしという感じ。競利争名の病気はどこへいったのかしらと不思議なくらいなんですが、それはそれ、わからないことは仏様に聞けばいい。すると、次のような答えが返ってまいります。

つまり、新聞の中で、婦人面以外はほとんどが男の世界。で、男というものはいったい何に興味を示し、何に一生を賭けるかといえば「名利のみ」と、仏様はおっしゃる。要するに、偉くなりたいのが男の願いで、ただこれしかない、とおっしゃるわけです。

そして、この願いを貫くためには、まずこのシャバでは、目の上の偉いのを引きずり下ろさなくてはならない。すると、偉い方は負けまいとがんばる。そこに必ず争いが起きて、修羅場と化する。それを競利争名の病とおっしゃったわけで、どうやら、この病気は婦人病ではなく、男性病のようであります。

でありますからして、世のご婦人方は、なるべくこの病気を悪化させないように気をつけていただきたい。「なーんだパパ、あんまり偉くないのねー」とか「あんだけ働いて、こんだけ?」なんていったら、それこそ新聞ダネにもなりかねませんからね。

さて、心の健康診断はこれぐらいにして、次回からは婦人面はなぜに平穏なのかということも含めて、何が女性の願いかという問題にせまってみることにいたしましょう。


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1日1年の悩みに気をとられ・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「飢渇寒暑(きかつかんしょ)」-これも仏様がおっしゃる病気の一つでして、キカツカンショ、つまり、「ハラヘった、ノドかわいた」とか「寒い暑い」とさわぐのも、ほどほどにしなさいと戒めていらっしゃるわけです。

そういえば、私達の生活を振り返ってみると、毎日毎日これおばっかりじゃありませんか。特に、主婦は朝昼晩、飢と渇の家族をいかにして満足させようか、ということに身をけずっていらっしゃるわけでしょう。いや、亭主だってそうですよ。「なんたって、食わしていかなきゃならないもんな。うちにはクチバシの黄色いのが口あいて五つも待っているんだもんな。あーあ、ラクしたいよ」
そして、そのクチバシの黄色い方も
「あーノド渇いた、なんかない?」
「おなかすいた、ごはんまだ?」
なんていってる。なんだ、家中そろって、朝から晩まで、こればっかりなんだよね。だから仏様も、一日の悩みはこれにつきるとおっしゃるわけだ。

で、その悩みが、もうすこし長いものになるとどうかというと、これが「寒暑」なんです。シーズンにまたがって、寒いの暑いのとやっている。家を建てるなんてのも、結局は、寒さをしのぐとか、雨露をしのぐというところからきているんでしょ。
「ねー、暑いわねー。なんとかならないかしら。今年こそ、寝室にも、クーラー入れたいわねー」
「待ちなさい、子供部屋が先だ」
なんて、シーズンにまたがって悩みのタネとなるのは、この、寒いの暑いのという問題なんじゃないですか。

一日の悩み-飢渇。一年の悩み-寒暑。まあそれも大変だろうけど、一生の問題も、ゆっくり考えておかなくてはいけないよ、と仏様おっしゃてるんですよね。ところが、これが聞こえない。「一生過ぎやすし」なんていっても、「そんな先のこと!」ととり合わないで、ハラへったノドかわいた、寒いの暑いのとやっている。これが自覚なき心の病気の第四「飢渇寒暑」であります。

さて、つづいて第五は、なんと「睡眠」であります。これも病気?いや、正常なる眠り、明日の鋭気を養う眠りは健康的でけっこうなんですが、お経にある睡眠は、なまけ心とくっついていまして、とにかく目をふさぐだけじゃなくて、人はすぐに耳をふさぎ、心までもふさいでしまう、これがいけない、とあるんです。

そういえば、いけないと知りながら、車の運転中に、目をあいたまま、睡眠をたのしんでいらっしゃる方、近頃多いね。この1週間で私は5件の事故現場を目撃しましたが、どうやら居眠り運転だったみたい。気をつけなくっちゃいけません。ていいながら、じつはちっとも気をつけていないのが私達で、条件がそろたら、ついウトウトとやっちゃうわけです。本当にどうしましょう。

いや、車の運転ばかりじゃない。私達はいつも、自分に都合の悪いものには目も耳も心もふさいでしまう悪いクセがあります。学校の先生のおっしゃること、目も耳も心もひらいて聞いていたら、それこそ、もっともっとかしこくなっていたはずなのに…。じゃあ、どうすれば目が覚めて心が開けるか-残念ながら、そうと気付いて本人が努力するしかないそうです。


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別れたとたんに愛着病

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


仏様のおっしゃる自覚症状のない心の病気というのは、一に欲と貪り、二に何事もよろこべないという病気、そして第三は愛着という病気です。

目の前にいる時は、ちっともよろこべないのに、離れたり、別れたりすると、とたんにこの愛着病が発生します。ですから、愛しく思い、大切にしなくてはならないものには、せいぜい今のうちに、出来る限りの愛情をそそいでおくこと。そしたら、少しはこの病気、軽くなるんじゃないかと思うんですが、なかなかねー。

先日もある婦人会で、なくなられた俳優、木村功さんの奥さんがいつも「功、大好き!」といってたけど、私達もマネして、今をよろこんでおこうよ、といったら、婦人会の皆さん「ホントねー」なんておっしゃってる。そこでもう一度念を押して-いいですか、大好き!とか、逢えてよかったね、とか愛情の表現はなんでもいい、とにかくご主人と、子供と、そして、おじいちゃん、おばあちゃんと、今日からみんなで手を握り合ってみましょうよ。

そしたら、また、ウンウンとうなずいていらっしゃる。
わかった?奥さん、あなたのことですよ。あなたがこれからウチへ帰って、みんなと手を握り合うんですよ。出来ますね。ご主人と-といったら、アハハハと笑われる。では子供とは?と聞いたら、ハイハイとうなずいた。じゃあお姑さんとは?と聞いたら、とたんに、ワァーッとどよめいて「そりゃどうにもなりません!」ていうんです。

さっきまで、ウンウン、ホントねーなんていっていたけれど、まるで他人事として聞いていたわけで、いざ自分の事となると、都合の良いとこはOKだけど、都合の悪いところは絶対NO!なんです。ちょっとシャクでした。そこで、今度は老人会でも聞いてみたんです。

当たり前のことだけど、みなさんは朝起きたとき、ウチのみんなとあいさつしてますか?お早う!と声をかけ合ってますか?すると、どうでしょう。百人ほどの集まりでほとんどの方が下を向いちゃうんです。あら、おばあちゃん、ウチで孫やら、嫁さんやらと、お早うっていってないの?すると、おばあちゃんたち、さびしそうに笑って
「なーん(いいえ)、朝のあいさつどころか、若いもんは声もかけてくれませんちゃ」
とおっしゃった。これがどうやら私達の日常のようであります。いや他人事じゃなく、この私にしたって、そりゃあいさつぐらいはしているけど、毎日、逢えてよかったとよろこんでいるかといえば、なかなかそうはゆきません。それが本当の私-つまりは心の病気にかかっているわたしなんですよね。

ちょっとしんみりしちゃったんで、気分転換にそのおとしよりに、もう一つ聞いてみたんです。ねえ、おばあちゃん、あなたたち若いもんと仲良くしたいと思いませんか?すると、思う思うとうなずく。じゃあ、なぜ、仲良くできないんですか?いったいだれが悪いんでしょう?そしたら、みなさん、そりゃ若いもんが・・・といいかけたので、じゃあ聞くけど、あなたの若いころ、姑さんと笑って手を握り合ったことあるの?これにはおばあちゃんたちも、ありゃりゃ?!
ともに凡夫のみ、ですな。


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ずーっと、よろこべるか

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


自覚症状のない心の病気の2つ目は「不歓喜(ふかんぎ)」といいます。歓喜しない、喜べない。だれが?この私が、です。何を?すべてを、です。そうかしら?これでもけっこうよろこんでいるみたいだけど、とおっしゃるかもしれない。そうですね。自分の気に入ったことには、けっこうよろこんでいるみたい。しかし、それが、あまり長続きしないんじゃないですか?

例えば、旦那様はいかがです。彼と逢えたよろこびをいついつまでも持ち続け、ずっとよろこんでいらっしゃいますか?
「功、大好き!」
「ばっか」
そう、なくなられた俳優、木村功さんとこみたいに。学生時代に木村さんの劇団で1年ほどお世話になったことがありまして、よくお宅へ泊めていただきたんですが、ほんと、すばらしかった。20年余り前もやっぱり、木村さんと妻の梢さんは
「だーいすき!」
「ばっか」
でした。それが臨終の枕元までなんだからすごいですね。今朝届いた朝刊の本の広告には、2人の愛は星になった、とうたってある。星になったかどうかは、私達にはわからないけれど、いつもよろこび合っているすてきな2人だったことには違いありません。

さて、ふり返って、あなたはいかがですか?
先日、ある婦人会で聞いてみたんです。
「亭主とはそもそもなんぞや?」
80人ぐらいの会だったので、8人ずつ10組に分かれ、例のバズセッションとかいうあれをやりました。はじめはみんなおしとやか、シーンと静まりかえってたんですが、3分経たないうちに、もうたいへん。部屋中大さわぎであります。20分間辛抱して、さあそれでは聞かせて下さい、といったら、各グループの代表が-
「はい、うちのグループでは、いろいろ話しましたが、亭主とは何かと、改まって聞かれたことなかったので、結局、何かわからないものだということになりまして…」
「うちの方は、亭主というのはまあ、頼りになるようではあるけれど、べつにいてもいなくてもいい、ような感じもありまして…」
「私達のグループでは、結局、どうってことない、空気みたいなもんだとか・・・」
ここで場内、大笑い。みんな、テレてしまって、木村梢さんみたいに「だーい好き」といえなかったんだと思うんですが、それにしても「いてもいなくても」とか「いまさら亭主なんて」とか「でっかい子供みたいで手がかかって」とか「空気みたい」とかずいぶんきびしい。不歓喜の話でもしようかと思っていると、1人の奥さんが手をあげておっしゃった。
「あのー、私も、そう思っていました。いてもいなくても、空気みたいでなんて・・・。でも、なくしてみて、はじめてその主人のありがたさがわかったようなんです」
このひとことに、上っ調子だった奥さんたち、しゅんとなって「そんなものかもねー」となったんです。

目の前にいるときは、いて当たり前、どころか、だんだんうるさくなって、ちっともよろこべないのが私たち。でも「愛別離苦」-愛しい人とも必ず別れなければならないのが世の中だ-といわれているように、いま、よろこんでおかないと、あとで取り返しがつかなくなりますよ。今日からさっそく、梢さんのマネをして「だーい好き!」とやってみませんか。


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どっちが欲深いのか

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うちのお寺に、お講というのがあります。月に2度、1日と16日に開かれる法座で、もう何百年つづいています。戦前までは全国各地にあったようですが、近頃はもうめずらしいものになってきています。

ところで、このお講には楽しみがひとつありまして、それは、住職や若院のお説教といいたいがそうではなくて、お昼のお斎(おとき)であります。各地区の当番が腕をふるってごちそうを作って下さいます。音沢(地区)の青物お講は山菜がいっぱい。そしてもうすぐ中陣(地区)のじゃがらお講-新じゃがのホクホクの煮つけが出ます。御膳料はなんと100円ポッキリで食べ放題。うれしいかぎりであります。

朝-。7時を過ぎると、ぼつぼつ当番地区の方が米や材料をかついでこられます。
「お早うございます。年に一度のお講当番に参らせてもらいましたちゃ」
「あー、あんた、ようこそこられましたわね」
てな調子で、いよいよ仕事がはじまります。コシヒカリをバケツにあけて、シャッシャッシャッと米をとぐ。その手に合わせて、20人余りのご婦人方があいさつをかわします。
「あら、あんた参られた?ばあちゃんマメなが?」
マメなが?というのはつまり、まめに暮らしているか、元気か、という意味でありまして、まあ、そんなあいさつがずうっとひとまわりするわけなんです。ま、出席者の確認というところ。

で、米とぎの時はいいんだけど、ダイコンやイモの皮をむくころになると、ちょっと変わってくるんです。
「ありゃ、ちょっと、あの人は?」
「ほんとや、来とらんぜ」
「そういや、あの人もやぜ」
と、欠席者の確認になってくる。でもまあいいじゃないの、たくさん来てるんだから、みんなでやれば軽いもんよ、となるかと思うと、そうはいかない。
「そうよねー、年に一度のご奉仕なんにねー。どうして来んがやろねぇ」
と、そのうち「そら、あんた、あの人、欲やもン」というささやき声。よくわかるのね他人の欲は。つまりその人、パートに出ていったらしいんです。で、最後はどうなるかというと「そら、やっぱり、休んだ人からは罰金もらわんにゃ!」であります。

山寺のほのぼののお講も、このあたりからじつにナマナマしくなってまいるわけですが、さて、そこで考えていただきたいのは、いったい、どちらが欲か、ということなんです。年に一度のお講当番をサボッてパートに走った人が欲なのか、それとも、お米洗って出席者の確認、ジャガイモむきむき欠席者の裁判をして、その人を欲と決めつけ、あげくに罰金とろうといってる方はちっとも欲深くないのか、ということなんです。

答えはかんたんで、どちらも悪い。でも、あえていうなら、パートの方は、会社で少し気がとがめて反省の心がわいたはず。一方は自分の欲を正当行為で覆いかくして、気付かぬままに他人を裁いて慢心にひたっている・・・こっちの方が悪いと思うんだけど、いかがでしょう。おしゃか様が自覚症状のない心の病気の第一に、欲をあげられたのも、こういうことだったんじゃないでしょうか。なにも、うちのお講だけじゃない。あなたのそばの婦人会や町内会やどこだって、こういうことよくありますよね。こんどから、どっちが欲か、よーく考えてみよう。


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
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自分の欲深さには、気付かない

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


人は多く自覚症状のない心の病気にかかっている-のだそうです。わたしがこんなこといったら、えらそうにお前も人じゃないかといわれるので、ことわっておきますが、これはお悟りを開かれたおしゃかさまのことばなんです。

ちょっと気になりますね。心の病気・・・いろいろあると思うんですけど、自覚症状がないとおっしゃるんだから、私達が気付いて改めることも出来ないし、治すことも不可能であります。といって放っておいたら、病状はますます悪化して、ついて手のつけようのないことになるかもしれない。

そこで、とりあえず、その病気とはどんなものなのか、ということを、医王ともいわれるおしゃかさまにお聞きして、心の健康診断をしていただこうと思うわけでありますが…、あ、そうそう、その前に、身体の病気は大丈夫ですか?こちらは、どんな時でもお医者さんにみてもらって下さいね。よく、身体の病気の方もお医者さんにみせないで、わけのわからない人にみてもらって、チチンプなんてやってる人あるけど、ありゃおかしいよ。いや、気持ちはわかりますけど、チチンプイで身体の病気が治るんなら、お医者様はいらないわけだし、そのチチンプイの人だって病気で倒れることあるわけだから、気休めならまだしも、目の色かえて、とびつくものじゃないと思うんです。

その点、おしゃかさまという方は、今でいうなら、とても科学的な方でありまして、
「病気になったら、医者にゆけ」
とおっしゃって、ご自分でも、風邪を引いたりなさったときは、神通力や念力で治すなんてことしてません。ちゃんと、お経にも出てますけど、素直に「医者をたのむ」とおっしゃってます。

さてさて、心の診断、その1であります。
自覚症状のない心の病気の第一は、いったい何かといえば、お経には「欲貧これなり」と説いてあります。欲貧-欲とむさぼり。ひっくり返せば、貪欲であります。こいつに私達は心のすみずみまで犯されていて、手のつけようがない。そして、さらに困ったことには、本人がそれに気付いていない、とおっしゃているんです。

いかがですか?欲に迷っていませんか。毎日、貪っていませんか。この貪欲の心というのは、自分の好みに合ったものに出くわすと、必ずムラムラとわいてきて、みさかいがなくなる、というおそろしい心の病気なんですと。うまいものならもう一杯。気に入った人ならいつまでも。欲望を満たしてくれるおカネなら、それこそもっともっといくらでも・・・。

しかし、どうなんでしょう。貪欲は心の病気なんてこと、いまさらいわなくったって、ちゃんとわかっていたことじゃないですか。でも、そうすると、おしゃかさまは、どうしてわざわざ、自覚症状のない心の病気の第一に、この貪欲を持ち出してこられたんでしょうね。

そこで、もう一度、自分の心の奥底を見直してみなくてはいけないのですが、どうやら、私達、わかったような顔はしていたけど、気がつく欲や目につく貪りは、すべて他人の貪欲で、そっちはイヤラシイと軽べつしながら、自分の欲深さには、トンと気がついていなかったんじゃないかしら?


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
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わが心のカースト

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


凡天は自他の差別をみる。どういう根性なんでしょうか。私達は自分と他人を比較し、区別し、必ず順番をつけないとおさまらない生き物のようであります。

昨年、インドへ行って驚いたことですが、あちらのカースト制度というのは、いまだにきびしいものでして、例えば、身近なところで私の乗った仏跡参拝バスには4人のインド人が乗っていました。運転手と助手と、ガイドと、知り合いの大学教授-この4人なんですが、なぜか一緒に食事しないんです。最初は好みが違うのかなあ、ぐらいの印象で、とにかく一週間余りつき合った。こちらは、どういうわけか、だれにだってニコニコ笑って、ありがとう、ようこそ、といいたい方ですから、毎日、バスを降りるときには「ナマステ」といって手を合わせ、それから握手を求めて「アリガトウ、今日も一日、すばらしい旅だった」と、お礼をいうわけです。

これが、さっきの4人、別々のところでやってるときはよかったんだが、あるとき、4人とも並んでいるところで、順番に握手を求めて「アリガトウ」とやっちゃった。そしたら、とたんに雲行がおかしくなった。教授は私の前でガイドをしかりとばす。ガイドは運転手をコテンパン。運転手は助手をけとばすのであります。

ピンときた。あーそーか、ここはまだ身分制度がきびしくて、一緒に扱うと問題が起こるんだな。というわけで、少し気をつかうようになったんですが、やはり、それがご縁で、インドのカースト制度というものはどうなっているんだろうということを知りたくなりまして、調べてみたんです。

そしたら、なんと、私達が中学校ぐらいで習ったカーストは、バラモン(修行僧)、クシャトリア(貴族)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)の4段階で、これを区別するためにお経の中にもバラモンの子は母の頭から生まれ、貴族の子は、母の脇の下から生まれ、平民はおなかから、奴隷は足の裏から生まれるなどという表現をつかってあるわけです。おしゃか様がお母さんのマーヤ夫人の脇の下から生まれたというのは、彼は貴族の子として生まれた、ということなんですが、それはさておき、要するにカーストは4段階だと思い込んでいた。

ところが、カーストはさらに細かく区別され、現代のインドには、なんと2378の区別が厳然としてあるということを知りました。職業、思想、宗教、肌の色・・・などなどのほんのわずかな違いが、すべて差別区別となり、極端に閉鎖的な社会をつくっているのだそうです。

二千数百年前、そんな身分制度を真っ向から打ちくだいて「四海みな兄弟!」と高らかに宣言されたのがおしゃか様ではなかったのか-と、少々熱くなって、なんとかならんのかインドのカーストは・・・と思いながら、ドキッとしたのは、果たしてそういう私達はどうなのか、ということであります。わが心のカーストはどうなのか?

タテマエでは、明るい町づくりとか人類は一家なんてうたっているけど、心の中、煩悩の奥底では、あの人は、この人は、と指を指し合いながら順番をつけて生きている。それが仏様からみた、どうしようもない人間の姿なんですよね。下の下なんだなあ、やっぱり。


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